過去の日記 2003

2003年8月9日



京都薬剤師会のお招きで、京都に講演にでかけた。文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議の委員でいらっしゃる京都大学の乾先生のお声がけで、日ごろ会議で発言していることなど、薬剤師の方々に発破をかけ、エールを送るのが目的だ。

 夕方からの講演会だったので、その夜は宿泊することになっていた。会場の隣にあるホテル・グランビアに 5時にチェックインという予定だったが、台風による新幹線の遅れが心配されたので、少し早めに到着した。

 で、レセプションでの出来事である。頂いた書類に「秋尾沙戸子さまのお名前で予約を入れていますので、その旨受付にお申し出ください」と書かれていたので、その旨を訊ねると、名前がないのだという。あれこれ探して貰っても駄目。そこで書類に書かれていた番号や乾先生の番号、講演会会場などに電話してもらったが、どこも誰も出ない。実は他のホテルの間違いだろうか。私の後ろには何人も列を作って待っているのに、そんな作業で20分が過ぎた。時間通りに5時に来ていたら、さぞかし苛ついたに違いない。

 結局、名前はみつからないが、勝手にチェックインしてしまうことにした。本当にこのホテルでよかったのかどうか確かめるべく携帯で電話をかけ続けていると、部屋に着いてすぐ電話が鳴った。

「申し訳ございません。こちらの手違いで秋尾さまのお名前がありました」

「どういうことですか」

「秋尾様が青木様で入っておりました」

私の名前がアオキと聞き違いされることはよくあることだ。しかし、JR西日本経営の、京都駅に聳える一流ホテルがどうしてそれをみつけられないのだろうか。ましてや京都は観光地だ。もてなしの心が生きているはずの京都で、この扱いはひどすぎる。海外からの客の場合、名前と苗字が反対に登録されることもある。アキオでみつけられなければ、サトコで検索するのはレセプショニストとしては常識ではないのだろうか。だんだん腹が経ってきた。私の貴重な20分を返して欲しい。海外ならすぐにグラスシャンパンでも持って謝りに来るのに。

「どうしてこういうことが起きるのでしょうか。お宅では名前で検索する教育はしていないのですか」

 電話口に出たレセプションの責任者に私は続けてこう尋ねた。

「経営はどちらでしたっけ」

しばらくして、レセプションの責任者がドアをノックした。

「申し訳ございません。このフロアのもう少し広いお部屋をご用意しまいしたので、よろしければ、そちらにお移りください」

 これは意外な展開だった。ホテルはサービス業だ。クレームをつけることは私にとって世直しの一環。不手際の原因を突き止め反省してくれれば、それで私は満足なのだ。しかし、少し広めのお部屋がどんなものか興味があったので、その申し出を受けることにした。

 なるほど、いきなり部屋の数がひとつ増え、数もワンランクアップ。バスルームの窓から空が見える。ちょっと得した気分である。

 講演の冒頭で私はこの話をした。病院の中でも同様に、もうひとつ機転を利かせれば、もうひとつ違う角度からチェックをすれば、事故を防げたのに。これまでの医療過誤でもそういうケースは多々あったはずだからだ。

 会場に集まった薬剤師の方々は、非常に熱心に話を聞いてくださった。ただ、もったいないのは彼らの熱意が世間一般に伝わっていないことだ。調剤薬局はともかく、病院では薬剤師の顔が見えにくい。ようやく病院によっては病棟薬剤師として病室の患者と薬剤師が向き合う試みがなされるようになったが、入院経験がないとその努力が伝わらないのがもったいないと思う。

 講演会の後に一部の方々とお食事をした。ベテランの女性薬剤師2人がそろって口にしたのは、処方箋をみると開業医の力量がわかるのだという。これこそ医薬分業の妙だろう。医師免許をとって、以後ろくに勉強もせず、のんびり開業をしている医師へのいい刺激になる。

 部屋に戻って、お風呂に入った。そこからは向かいのビルの屋上しか見えない。京都の町はフラットだ。高層ビルは滅多にない。そんな中で町の薬局の姿も目立つ。夜遅くまで明るすぎるほどの灯りを放つドラッグストアとコンビニに占拠された街とはわけが違う。

コツコツと一人一人の営みが生かされる町でもある。サービス業としてはあるまじき失態を演じた大きなホテルでさえ、申し入れれば対応し改善できる余裕がある。日ごろの乾先生のお言葉どおり、京都の薬剤師会から日本の薬剤師の意識を変えるということは、あながち夢でもないなあ。窓からネオンの少ない夜空を見ながら、ふとそう思った。

2003年7月24日



小さな引越し

突然、家具を移動しようと思い立った。

いまのところに移ってから6年。この間に修士論文を書いて本を書いて、気づいたら本と資料の中に埋もれてしまった。もとより衣裳部屋はクリーニング屋さんのように服が詰まっている。しかし、仕事場とリビングは当初、整然としてたが、いまや寝室にまで文献資料があふれているのである。

かくなる上は、引越しモードにして、強引に片付けるように自分を追い込もうではないか。どうせなら、運気があがるレイアウトにしよう。

実はここに引っ越すときもコパの本を熟読した。いや、読み比べたのである。彼は著書によって言っていることが微妙にずれる。最大公約数的に、彼の説に従わねばならない。

西南にあったピアノを東南に動かし、東南にあったサイドボードを西に置いて窓をふさぐことにした。だが、トラックの必要な引越しとはわけが違う。家具の移動だけだ。とはいえ、ピアノの運搬となると、然るべき業者にお願いせねばなるまい。

日ごろ、ポストに入っているチラシに片っ端から電話した。1日に4軒、見積もりをとってもらったが、各社個性があって面白い。3万円から14万円まで。先方が提示した値段はいろいろだった。ピアノも含めて3万円は胡散臭いが、10万円は取りすぎである。ここへ移ったとき、お任せパックとトラックの輸送費、2日間の人件費を合わせても18万円だったのだ。せいぜい7万円台が妥当だろう。

面白いのは、見積もりを取りに来た人が即決で答えを欲しがることだ。気持ちはわかるが、朝一に来たところが3万円だから具合が悪い。思いきり無理をして8万円弱と言われても、やはり3万円には未練が残る。それに、せっかく4社のアポ入れをしたのだから、すべての対応を比べてみないと、決められないではないか。

最後にやってきたところは、やはり8万弱を提示した。一瞬、そこに惹かれた。見積もりに来た人のキャラが明るく、分りやすかったからだ。しかも彼が正直だと思われたのは、「これだけ荷物が多いのだから、時給で計算しませんか」と提案したことだ。しかも彼は当日自らが来て陣頭指揮をとるのだという。事前に段取りをシミュレーションした上にこの提案だから、説得力がある。

それにしても気になるのは3万円だ。そういう業者がいるのに、2倍半かける気には人間なれないものである。再度電話で確かめて、本当に可能かを確かめて、結局、そこにお願いすることにした。

驚いたのは当日、大の大人が4人も来たことだった。お任せパックで引っ越したのは過去に2回。一度は手馴れた主婦が食器などを梱包した。二度目は茶髪の若い男女が梱包を担当した。50前後の男性が4人、一度期にやってくるとは想像だにしていなかったのだ。しかも、ため息ばかりつくうるさ型も一人いたが、なんだか皆いい人たちで、下町で近所のおっちゃんたちに助けられているような錯覚を覚えた。

なにせ我が家は物が多い。家具を移動させるには、まず床に積んであった本と雑誌をダンボールに入れて外に出さねばならない。ピアノの移動もシャーリングの布を使って床に傷つけることなくずらしてくれた。いやあ、お見事。子供のころにピアノの運送というと、肩にかつぐものと相場が決まっていた。あれでは腰を痛めるだろうなあ、といつも眺めていたものだが、いやあ、お見事。ピアノを動かした段階で、2人は別のクラインアントにシフトし、残った二人がダンボールを部屋に運んで積み上げてくれた。

終わったころには、へとへと。アミノ酸の取材でお試しモードの私は「アミノバイタル」プロを飲んで引越しに臨んだから、屈伸運動の後にもかかわらず、筋肉疲労は一切なし。だが、神経がくたびれているのだ。何をどこにどう効率よく入れて運ぶか。その集中力、瞬発力は、半端ではない。骨の髄まで疲れている。もう頭がまわらない。

寝室のベッドの上に臨時に置いたグラスが残っているけれど、これは明日にまわしてもいいかしらん。

リビングの床にふとんを敷いて、どっ。なだれ込むように眠った。

2003年7月8日



日本一の米作り職人

7日から活性酸素消去米の取材で昨日から仙台に行ってきた。そのプロジェクトの一人、石井さんの田んぼも拝見させていただいた。

世界各地で畑や田んぼを訪れ、その風景にある種の郷愁を抱いてきた私だが、この年齢になって日本の農家を訪れると感動を覚える。これこそ日本の原風景だと思えるからだ。

みずみずしい緑の田んぼに、白い鷺が降り立った姿は実にすばらしい。しかし、鷺はどこにでも宿るわけではない。石井さんのところのように、無農薬で稲を育て、微生物が存在する田んぼにしかやってこないのである。

石井さんの作る米が他を圧倒する理由のひとつは、田植えの時期にある。他より一ヶ月ほど遅いのである。いや、正しくは他が一ヶ月早めてやっつけ仕事にしているのだ。いまや大半の農家は米作りだけではやってゆけない。そこで勤め人となり、その間に田植えを行う。つまり、ゴールデンウィークに終えてしまうというわけだ。

そうした田んぼは全面が緑である。ところ狭しと葉が生い茂っているのだ。そうなると、葉が養分を吸い上げ、化学肥料を与えざるを得ない。しかも稲の穂に栄養分がいかなくなる。

それに比べて、石井さんの田んぼの稲はまばらに映る。葉が少ない。しかも水面は藻の緑に覆われている。こういう稲こそ、おいしい米を育むのである。

毎年、金賞に輝く米作り日本一の石井さんの作る米は、低蛋白米だ。正確には、低蛋白米を作ろうとしたのではなく、発酵米糠でおいしい米作りを追求した結果、低蛋白米ができたというのが正解である。

その石井さんが今年から活性酸素消去農法を取り入れることになった。こちらも無農薬で低蛋白米だが、1年経っても味が落ちないのが特徴だ。つまり、一年中「新米」で、老化現象が起きないというわけだ。

活性酸素消去農法で育てた作物は簡単に「錆びない」。たとえば、石井さんが育てている韮。畑から葉をちぎって食べていると、あまくてびっくりする。刈り取った後も、普通の韮の倍は葉が元気な状態である。生の韮なんて・・・と思うかもしれないが、本当にあまいのだ。これは中華の炒め物にしてはもったいない。和食屋で「生のまま」食べるべきである。

だとすれば、人間もこれを食べ続ければ、「錆びない」わけだ。そう信じて、昨年できた活性酸素消去米と納豆にわかめのお味噌汁を食べている毎日。この半年、家にいるときにはシラタキ・ミートソースで体重をキープしてきた私だが、お米がおいしすぎて、1キロ増えてしまった。その分、運動しろということか。

2003年7月3日



月下氷人

夜9時から六本木ヒルズの個室で食事をした。建築家の隈さんとEZTVの矢野さんをお見合いさせるためだ。

最近、こうした月下氷人役を買って出ることが多い。仕事柄、大勢の人々に会う機会に恵まれてきた私だが、才能のある人々を引き合わせることも自分の任のような気がするからだ。新たなコラボレーションに喜びを見出すのは年老いた証拠かもしれない。

隈さんがトイレに行った隙に関西弁で矢野さんいわく、

「目茶目茶、頭いい人ですね。質問に対しての答が明確だわ」

隈さんの建築に対しての考え方を聞けば、彼が時代をどう捉えているかよくわかる。その目線の鋭さと深さに感動したのだと思う。

食事の後、隈さんが設計した図書館を見に行った。二ヶ月ほどまえ前に会った新聞記者がプレオープンで図書館を見学して、メンバーになろうか検討中だと話していたので、一度入ってみたいと思っていたのだ。

なるほど、自分の仕事場では得られない空間。東京の街を見下ろしながら、あらゆるオブリゲーションを全部投げ出して、読書三昧してみたくなるのは頷ける。デスクも椅子も非日常的なのがいい。サラリーマンだったら、家や職場を離れて、ここで小説のひとつも書いてみたくなるに違いない。いや、狭いマンションに住む主婦にとっても、家事や育児、介護からの逃避行的空間になりうるのだが。

そうだ。そんな二人の恋の物語もあるかもしれない。そういえば、「恋に落ちて」の始まりもNYの本屋さんだった。

帰りのタクシーの中での会話によれば、隈さんも矢野が気に入ったらしい。西麻布で私を降ろすと、外苑前の事務所へ戻っていった。売れっ子は夜中も仕事に忙殺される。

彼らが恋に落ちるかどうか。残念ながら、私の任はここまでである。

2003年7月2日



午前中は文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議に出席。

午後はぴあ・フィリムフェスティバル表彰式の打ち合わせ。昨年もお声をかけていただいたのだが、早稲田大学でメガワティの講義をすることになっていたので、お受けできずにいた。なんと今年で25周年だそうだ。継続は力なり。このフェスティバルから大勢の映画人を輩出してきた。打ち合わせをしながら、ウズベキスタン映画に出演した経験を熱く熱く語ってしまった。

赤坂サントリービルの1階ペンディオロッソ(赤坂のスペイン語訳)にいたので、広報部長の浜岡氏を訪ねた。彼は私の同期。あのままサントリアンでい続けたら、今頃私も課長くらいにはなっていたのだろうか。

その後、別の友人からお呼び出しがかかり、新しいプロジェクトの話を聞かさせる。郵政公社でも序々に動きがあるらしい。

 「スパモニ」が終わったら、打ち合わせ攻めの日々が続いている。

2003年6月27日



明るい未来

久しぶりに上智大学の寺田ゼミに出席。アジアからの留学生が多い今年はアンダーソンの『想像の共同体』を購読している。学生の発表そっちのけで、先輩の笹川君が重箱の隅をつつくように、白石隆・さやさんの日本語訳と読み比べていく。

フィリピンの調査から辰巳頼子さんが帰国していた。新しいグラントの面接のために帰国、無事、審査に合格したのだという。上智の大学院に行って一番の収穫は、この辰巳頼子と出会ったことではないかと思ったことが何度かある。とにかく頭がいい。あらゆる面で天才肌。将来はイスラーム研究者の大家になっているだろう。

30歳になったばかり。なんだか痩せて顔が小さくなっている。大人の女性として内も外もますます磨きがかかっていく。こちらも明るい未来にまっしぐら。40までは、たし算の人生だ。

2003年6月26日



終わりと始まり

「スーパーモーニング」は今日で最終回。前田吟さんがキャスターの時から1年3ヶ月。自分が座長を務める番組が終了するときは、大きなプロジェクトを終えた組が解散するのに似て、感無量だ。だが、こうして脇役の自分が途中下車するときは、別の寂しさを伴う。自分がいなくても番組も会社もまわっていく。自分は歯車のひとつにすぎないのだと思いしらされる。放送終了後、花束を受け取りながら、サントリーを結婚退職した日を思い出した。

反省会の後、出演者の皆さんと全日空ホテルで食事をとった。7月から司会を担当する赤江アナも一緒だ。

とにかく顔が小っちゃい。目が大きくて鼻が高くて歯がきれい。無駄な肉もしわもない。明るい未来にまっしぐら。そういえば、私が初めてテレビに出たときも、このくらいの年齢だったよね。なんだかお母さんの心境で、まじまじと珠ちゃんを眺めたのであった。

夜は句会。急いで4句考えねばならない。辰巳君が新幹線の最終で京都に向かうというので、東京駅のユーハイムでドイツ料理を頂きながらの会となった。金沢から陶芸家・大樋年雄さんも参加した。彼も相変わらずエネルギッシュ。今日の句会は増田明美さんの句が妙に艶っぽくて話題になった。もしかして、恋の始まり・・・?

その後は某編集部で打ち合わせ。土砂降りの雨の中、タクシーに乗り込んだ。これまでコミットしたことがないテーマに取り組むことになる。久しぶりに国内取材であちこち飛び回ることになりそうだ。

2003年6月24日



母校に寄付

夜はエンジン01の教育委員会。メンバーである林真理子さんの取り計らいで、会合は六本木ヒルズの上となった。

三枝成彰さんが『ダイヤモンド』で私立中学校のランキングを特集した号を持ってやってきた。ご本人がそこにコメントを寄せているからだ。それを眺めて、母親である林真理子さんが奇声を発している。

 「国士舘って今、こんなに上なんだあ」

これを聞いて驚いたのは私だった。小学校5年生から世田谷区若林に住んでいた私には、どちらもご近所であり、いわゆる不良と呼ばれる怖いお兄さんたちが行く学校だと認識していたからだ。

こんな感想をもらすと、隣にすわった藤原先生いわく、

「僕たちの時代と全くランクが入れ替わっているんですよ」先生も実は世田谷のご近所、ほぼ同世代であることがわかった。 

子供がいないと、ついつい昔の目線で学校を判断しがちだが、学校も生き物だ。30年も経てば、教育方針も変わる。校長先生の情熱次第でいかようにも、である。ということは、どこの公立中学だって、その気になれば、改革は可能である。

公立校に寄付すれば税制で優遇されるようにしてはどうか。母校に寄付する大人はいっぱいいるはずだ。

今夜はそんな話で終わった。

2003年6月23日



メガワティ大統領来日

インドネシア現大統領のメガワティが日曜日から来日している。せっかく東京に来るのに、挨拶に出向かないとご機嫌を損ねる。だが、国賓で来日する大統領にどうやって接触すればいいのか。

私がメガワティに初めて会ったのは、1996年夏。7・27事件(ジャカルタ暴動)の直後であった。スハルト政権下で「民主化のシンボル」だったメガワティ。翌年の選挙の前に民衆の核である彼女を政治の舞台から排除しようと政府が画策したことがきっかけで民衆と国軍が衝突した事件がジャカルタ暴動である。

当時はスハルトの独裁体制で言論活動にも縛りがあった。ほとんどのジャーナリストが政府についている中、メガワティのところに足しげく通った現地ジャーナリストたち。彼らに混じって彼女に接触したジャーナリストは多くはなく、特派員を除けば、はるばる日本からやってきた私の存在を彼女は強烈に覚えていたらしい。

早晩、スハルト政権は崩壊する。体制崩壊を直感した私は、以来インドネシアに通い続け、その都度、彼女の自宅を訪れたものだが、常に長い時間待たされた。そのことに疲れていた私は、ある時、彼女には会見を申し込まず、周辺取材だけ続けていた。それがご本人の耳に入り、近しい人物に一言。「あなたはサトコに会ったんでしょ。エロスも会ったらしいじゃない。なぜ私のところには来ないのかしら」。そこでメガワティの自宅に出向いたのだが、例によって長い間待たされた上、短い時間の会見で終わった。メガワティだけではない。宗教家のトップなども思わせぶり会い方をする。これはアジアの権力者のスタイルのようといえるだろう。

その際、オレオレ(おみやげ)を何にするのかが頭痛の種だった。2回目くらいに会ったとき、「日本からのおみやげを忘れないでね」と言われてしまったのだ。アジアはどこの国でも菓子折りは必需品だ。もちろんそれまでも手ぶらでは会っていないのだが、問題は何を選ぶかだ。インドネシアは常に暑い。ケーキも生菓子もチョコレートもだめだ。本人お好みの天津甘栗とて2日経てば風味が落ちる。三越まででかけて真空パックにしてもらわなければならないのだ。

オレオレを届けながら、そうやって気軽に会話できた日々が懐かしい。

国賓待遇の今回はやはり敷居が高かった。2年前、就任直後にアメリカでブッシュに会い、帰りに日本に寄った時とはわけが違う。

前回は帝国ホテルに滞在していたので、SPやインドネシアから同行してきた番記者に顔なじみがいるので、機会は何度もあった。博士号を早稲田大学から受けたときにも、娘のプアンとともにファミリーカーに同乗したくらいだ。

しかし今回は迎賓館に滞在。経団連との食事会と日本記者クラブの会見以外に接触の機会はない。結局、日本記者クラブ講演の際、入り口で会話をするのが限界だった。

私をみつけると、無防備で可愛らしい笑みを浮かべて手を差し伸べてきた。「ちゃんと来たわね」といわんばかりだ。

講演が始まる前、顔なじみのSPが私を呼びよせ、

「2年前と全然違う。僕たちがハンドリングできた時代は終わったんだ」とささやいた。

権力の中枢に入った途端、人間は変貌する。人民へ注がれていたはずの目線もエネルギーも、インナーサークルの権力闘争に向かっていく。

「スハルトが30年かけたことをメガワティは2年でやってしまうところが問題なんだ」

インドネシアの知識人はメガワティのスハルト化をそう嘆く。夫タウフィックの汚職問題、一族の優遇。それでも他にめぼしい候補のいないインドネシアでは、来年も大統領選挙でメガワティが選ばれるに違いない。日本の小泉人気と似ている。 

丸投げということでも小泉総理といい勝負である。インタビュー嫌いも手伝って、メガワティは記者からの質問も大臣に答えさせるとして知られているからだ。

ところが、今回の会見では、すべて自分で答えたのだ。

就任から2年。あらゆる面で自信がついたのだろう。一般にはスピーチ能力がないと言われているメガワティだが、党大会などではアドリブで党員を笑わせる瞬間を、私は何度か見てきた。それを党外でも披露したのだから、国政についても学習し、自分でハンドリングできる自信がついたのに違いない。慎重なあまり殻にこもっていたメガワティが脱皮して大きく羽ばたこうとしているのか。

来年の春再選されて、あと5年続ければ、期待以上に大きな指導者に化けるかもしれない。私が追いかけていたころは、研究者の間では誰からも見向きもされなかったメガワティ。父スカルノに近づくべくインドネシア安定のために本気になってほしい。かくなる上は、汚職で足元をすくわれないことを祈るばかりだ。

2003年6月17日



何年学べばプロになれるの?

昨年秋から「薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議」の委員を務めている。今朝はその会議に出席した。

焦点は薬剤師の質向上のため、医学部と同様、薬学部を6年制にするかどうかにある。医薬分業が進み、新薬も次々開発される中、薬剤師の役割が大きくなっているのがその根拠だ。

しかし6年一貫教育とするのは学生にとって選択の幅が狭すぎる。進路志望の多様性を踏まえるなら、薬学士として4年で卒業することを認め、薬剤師や創薬研究を目指す人は修士に進学し臨床実習を経て薬剤師の資格を取得してはどうか。4年で社会に出て修士課程から再入学できる仕組みを残すのは生涯教育にとっても必要だと私は主張している。

それに、一番大切なことは、薬剤師の人間性だ。薬品を扱う以上、キレル人であっては困る。病棟薬剤師も調剤薬局で働く人も、全人医療を志す人でなければならない。

こうした会議にジャーナリストを加えて意見を取り入れ、公開にした文科省の決断は評価されるべきである。一般に日本の制度改革は一部の人の思惑や執念で方向が決まり、有力な議員を巻き込んで法案を通してしまうからだ。

しかし、所詮、私は社会に対しての目線がかけているとか、理にかなう説明ができていないとか、薬学教育だけに目を向けてきた人々に、別の角度から光をあてることくらいしかできないのだ。文部科学省サイドで教育の問題だけ議論しても、国家試験を通して資格を与えるのは厚生労働省なのだから、本来は二つの省庁が合同でこうした会議を進めていくべきであろう。

薬学教育をさらに充実させても、薬剤師の質が向上しなければ意味がない。質の担保として、コア・カリキュラムと共用試験の実施は言うまでもないが、同時にライセンス更新を義務付けるべきではないか。5年に1度は研修を受け、医療現場を遠ざかっていて昨今の流れについてゆけない者は、調剤薬局に立つこともできないとすべきである。

この問題については書くべきことが山のようにある。機会をみつけて、時々書いていこうと思う。

午後は「文明の衝突」と銘打ったシンポジウムを聞き、雑誌の女性編集者とイタリアンを食した。イラク戦争中、中東取材を敢行した彼女はひとまわり大きくなっていたし、旦那と別れて自由の身になったレストランのマダムは、とても美しく生き生きとしていた。

人間を大きくするのは高等教育の年限などではない。現場で修羅場をくぐることこそ大切なのだ。薬学教育もただ年限を延ばすのではなく、臨床実習の段階で、救急医療の現場で人が生死をさまよう瞬間にこそ立ち会わせるべきだと私は考えている。

2003年6月14日



活性酸素消去米

最近、活性酸素が注目されている。生活習慣病に至る諸悪の根源だという。

その活性酸素を消去する農法でできた米「雷神光」を食べてみて驚いた。普通のお米よりもおいしいくらいだ。活性酸素消去農法は遺伝子組み換えとは違う。肥料と農法に秘密があるというのだ。活性酸素消去農法で育っているから持ちがいい。ならば、それを食べ続ければ人間も長生きできるというわけだ。農薬を使っていない上に、低蛋白ときているから、腎臓病の人にぴったりではないか。

で、そのメカニズムを知りたくて、医学・代替医療振興協会主催のシンポジウムを聞きに出かけた。研究開発を担った東北大学の大類教授の話を聞けるからだ。興味のある方は、そのさわりを http://www.raijinkow.com/でチェック願いたい。

会場で司会進行を担当していたのは、ケント・ギルバード。かつて「サンデーモーニング」でコメンテーターとしてご一緒し、かつ「ナイトジャーナル」にもゲスト出演していただいたことがある。そのテーマは「夫婦別床」。日本はなぜ夫婦が別々に寝るのか、という話しだった。

さて、彼がそこにいたのには理由がある。予防医学はアメリカでは以前から注目されているが、日本人の意識はまだまだ低い。宗教とは関係ないが、彼は予防医学の大切さも日本で訴えようとしているのだという。

その協会の理事長である神津健一氏は、リゾレシチンの効用を強調しているのだという。キレル子供はリゾレシチンをとると気持ちが落ち着いていいのだそうだ。アルツハイマーにも効果があるという。アルファ・ベストなるリゾレシチンを入手して、番組の本番前に試してみよう。

2003年6月7日



バーゲン奮戦記

このところセールの時期が早まっている。5月末まで肌寒くて長袖のJKを着ていたのに6月7日にはもう夏物のセールが始まるのだ。次から次へとセールのお知らせが手元に届くから恐ろしい。ここで誘惑に負けてはまた貧乏生活に戻ることになる。今年はイタリアでも春夏物先取り買いをしている。もう、セールには出かけまい。

ところが、友人の嘆きが私を地獄へと誘(いざな)った。リストラの嵐はフリーライターにまで及び、友人は営業活動が必要になった。だが、いざ営業となると着るものがないという。このところ家にこもっていた彼女は、怠惰な性格も手伝って、むくむく太って肩や袖が入らないのだそうだ。そこで浜松町で開かれるイッセイ・ミヤケのセールに私もでかけることになった。サンプルセールは葉書がないと入れない。それにイッセイの服は初めてなので一緒に見立ててほしいといわれてしまったからだ。

それにしてもセール会場では判断力が鈍る。なんで買わなくてもいいものを買ってしまうのか。限られた時空で競争心をあおられると、結果的に無駄遣いに走るようだ。

入り口で渡される大きなビニール袋にまず、めぼしいものを放り込んでいく。来ている人々はみな、生き馬の目を抜くような勢いだから、そのスピードに負けないようにかなり欲張った確保に走るのが共通の心情だ。だから出遅れると美味しいものは見当たらないが、数時間後にははっとする掘り出し物が顔を見せることになる。ハンターの目になっているから、その瞬間が危険なのだ。

今日もそうだった。殺気立つ会場の空気に毒された私たちは、空腹に気づいて食事にでかけた。頭をクールにして何を選ぶか、しばし考えようというわけである。ところが、会場に戻ってくると、急にアイテムが増えているではないか。羽織ってみると、どれもこれも友人に似合うものばかりだ。

くわえて今年のイッセイのセールは定価の3分の1の額がつけられている。このお値打ち感が私たちの背中を押してしまうのだ。財布のひもを締めていたはずの私さえ、何点か購入するはめになる。イッセイ歴の長い私はオンタイムでラインアップをチェック済み。何に価値があるか、よく承知している。

友人も私もいい買い物をしたはずだった。だが、会場から外に出てみると、本当に必要なものを購入したのかどうかは非常に怪しい。なんだか買った喜びよりも徒労感だけがどーんと残ってしまった。

もっとも二人が裕福だったら、どうってことはない。目が肥えて価値がわかるのに財源がない二人の悲劇。金があっても価値がわからない人間が多い日本社会で、なんだか空しさだけが残った一日だった。

2003年5月27日



駒沢のロータスロード

このところ夜のイベントが続いている。

19日は辰巳琢郎邸のホームパーティに招かれ、彼と共通の友人たちに久々に会い、夜中まで盛り上がった。驚いたことに辰巳夫妻は結婚18年を迎えたというのだ。20代から知っているだけに、私も感無量である。久しぶりに古澤巌くんのバイオリンを目の前で聞いた。演奏する予定のなかった彼は、自分のバイオリンを用意したいたわけではない。辰巳君がお嬢さんにせがまれたて買ってあげたお稽古用のバイオリンなのに、実に優しい音色で奏でてくれたのだ。ちょっと感動。「弘法筆を選ばす」とは、まさにこのことだろう。

26 日はある食事会にお誘いいただいた場所は浅草近くの秘密クラブのようなところだ。お食事はフレンチのコース。各界でご活躍の方々が顔をそろえ驚いてしまったが、その食事会は麻布高校の同級生の集まりだったのだ。月に一度はこういう会が開かれるという。先日亡くなった叔父が3人の子供を私立高校に通わせていた。サラリーマンにとっては経済的負担は軽くなかったはずだが「私立に行くのは、社会に出てから財産だから」と叔母を説得したそうだ。この説はかなり正しいと思う。叔父は名古屋の東海学園を卒業している。海部元総理や木村太郎さんの通っていた学校だ。私の父もそこを出ているのに、そういう助言を与えてくれなかったのは寂しい限りだ。私は高校まで公立に通った。

そういえば24日には母校都立新宿高校の同窓会が大々的に開かれたはずだ。府立六中時代からの卒業生が集まるのだから、お歴々がそろったに違いない。その世代は都立高校出身者も結束が固かったのだろうか。もっともある時代まではみな東大に進学していたのだから、同じ道を歩んだ人も多かったに違いない。エコノミストの紺谷さんは新宿高校の先輩だが、話を聞いていると、官僚や企業人でそれなりのポストに、高校の同級生がついている風だ。学生運動の嵐が吹き荒れた後に入学した私たちは骨抜きにされ、何にも考えないノンポリ集団だった。私の同学年も卒後も交流はあるのだが、社会を変革しようなどと考えなかった日々のツケで、社会にインフルエンシャルな仕事についている人は少ない。有名どころとしては、中村敦夫さんと坂本隆一さんがいるが、いずれも全共闘の洗礼を受けた世代である。

そして今日は駒沢のロータスロードのオープニングだ。246・駒澤の交差点を公園側に左折し、左側にそのワインバーがある。あいにくの雨なのに大盛況だ。入り口から所狭しと花が並んでいる。しかも芸能人から贈られたものばかり。それもそのはず、この店のオーナーは小川知子さんだからだ。

知子さんは若いころから芸能界で活躍されていた。私にとっては80年代ドラマで活躍された姿が最も強烈だ。当時キャリアウーマン役は彼女が独り占めだったし、「金妻」も印象深い。当時、六本木の美容院「フロムニューヨーク」でお見かけしたときは、眩しくてドキドキしたものだ。

それにしても花の贈り主が芸能界の大御所ばかりで驚いてしまう。私が子供の頃から歌手としてテレビに登場されていた知子さんの同級生は、みな第一線で活躍されているのだ。

その知子さんをなぜ私が知っているかというと、ご主人の伊東順二さんが「ナイトジャーナル」にゲスト出演してくださったのがきっかけである。その日のゲストが美術評論家の伊東さんとわかると「エー目が覚めると横に小川知子が寝てるの?」と若い男性スタッフが一同に羨ましがったのを覚えている。

相変わらず美しい知子さんは皆さんとのご挨拶に忙しい。店内にはカラフルなアクセサリーが並んでいる。他ではみかけないデザインなのに、値段は手ごろ。ちょっと、そそられる。

ようやく知子さんが気づいてくれて一言。

「あーどうもォ。あら、このスカート私のと同じよ」

その日は雨で肌寒く、昨年のオークスで高木さんに「変わっている」烙印を押された例のイッセイの赤いスカートを穿いていたのだった。

その後、坂田栄一郎夫人みつまめさんと一緒に自由が丘に繰り出し、中華をいただいた。来年5月に写真展を開かれるという。私自身はサントリー宣伝部時代、坂田さんとは二度お仕事をご一緒している。一度めはユーミンの、二度めはアートディレクターの石岡怜子さんのご指名だった。おかげで『アエラ』創刊以前から坂田さんと面識のある私だが、彼をずっと陰ながら支えていらしたのは妻のみつまめさんだ。パーティでお目にかかることはあっても、じっくりお話するのは今日がはじめて。馴れ初めをきっちり聞き出して、またまた感動してしまった。

2003年5月25日



晴れてうれしいオークスの日

25日の日曜日はオークスにでかけた。JRAのご招待で、熟女集団が馬主席で美しい馬にみとれつつ賭けるのである。

新宿西口で集合し、貸し切りバスで府中競馬場に連れて行ってもらう。目的地は私たちの世代はユーミンの「中央フリーウェイ」でおなじみの「右に見える競馬場」である。ちなみに「左はビール工場」のビール工場には、サントリーに入社が決まった12月、研修をかねて工場にでかけている。

私はサントリーに入社するまで、ビールが大嫌いだった。小学校5年生のときに社会科見学でアサヒビールの工場にでかけ、死ぬほど臭くて強いホップのにおいに、頭が痛くなったのだ。以来、父が食卓でビールを飲んでいるだけで、ホップの匂いが私の鼻を直撃し、不快になったものだ。

しかし、サントリーに入社した以上、ビールは宴会のイニシエーションみたいなものだ。恐る恐る工場に出かけたのだが、行ってみて驚いた。工場内でホップの不快な匂いはほとんど感じられないし、出来立てのビールの美味しいこと!11年も経てばブリワリーの技術が進んだのか、それともサントリーが特別だったのか。おかげで今でも私はビール党、お腹は大きくなるばかりである。

さて、オークスに話しを戻そう。昨年、エコノミストの紺谷典子さんにお誘いいただいて初デビューを飾った。木元教子さんと高木美也子さんもいらしていて「スパモニ」の女性コメンテーター勢ぞろいモードだった。他には神津カンナさんや山東明子さんなどがいらして、馬を見ながら紺谷さんに小泉政権の経済政策が正しいかどうかを聞いていらした。

チケット売り場で柳瀬さんにお会いした。「フィネガンス・ウェイク」を翻訳されたばかりの柳瀬さんには「ナイトジャーナル」にご出演いただいた折にご縁ができた。『レーニン像を倒した女たち』の出版記念会にも来ていただいたが、お目にかかるのは実に久しぶり。版画家の山本容子さんも石川せりさんと一緒にいらしていて、みなで寿司屋に繰り出したのだった。

で、今年はというと、紺谷さんはお忙しく欠席。句会のメンバーから黛まどかさんと増田明美さんに声をかけたが、二人ともスペインと北海道でNG、姫野カオルコさんは欧州に行かれる前で、高見恭子さんも日曜日はベビーシッターの都合がつかず、結局、女性編集者を誘ってでかけた。

前日間で心配された雨にふられることなく、今年のオークスはスタートした。中村うさぎさんが競馬に強いホストを連れてきていたのが目立った。彼の賭け金は5万以上で、我々とは桁が違う。最終的にはどのくらい稼いだのか摩ったのか、ちゃんとは教えてもらえなかった。小林カツ代さんもいらしていた。最近はいろいろな会でよくお目にかかる。女優の富士真奈美さんと吉行和子さんがいらしていた。吉行さんがお召しになっているジャケットは鳥居ユキさんのものだ。それに高木美也子さんの姿が・・・。

「今年もまた変わったスカート穿いてんのね」

と例の大きな声で豪快に笑われた。

今年、私が穿いていたのは、ミラノで調達したモスキーノのピンク・ストライプのバルーンスカートだ。彼女が「また」と呼んだのは、昨年はイッセイ・ミヤケの赤いバルーンスカートだったからだ。これは何箇所もつまむ形の縫製で、どこに着ていっても、年配の女性たちが「面白いスカートね。どうやって作ったのかしら」と触りにやって来る代物である。

で、高木さんに帰り際、尋ねてみた。

「どうでした?」

「4万円!」

「え、4万円儲けたのですか?」

「違うわよ、摩ったのよ」。

ちょっと安心。私も1万円ほど摩ったので、落ち込んでいたからである。来週のダービーに賭けて今日の分を取り返せないかな。

家に戻って占いの本を見ると、「今年は浪費がちになり、ギャンブルに走る年」とある。まずい、まずい。日本のみならず自分も不景気なのに、すでに消費行動が例年になく激しい。賭け金は小額にしておかねば・・・。

2003年5月16日



大人になろうよ

金曜日は東京新聞コラムの原稿の締め切り日である。いつも余裕を持って提出したいと考えているのだが、刻々と変わる情勢の変化や事実関係の確認作業に追われて、どうしても締め切り間際に提出することになってしまう。

今回もそうだった。SARSは“有事”であり、内閣に対策本部を置くべきだという提案をするにあたって各省庁に電話取材を重ねたら、果てしない時間を費やすことになってしまった。

その最たるものが厚生労働省とのやりとりだ。私の考えが杞憂にすぎず、すでに策が講じられていては申し訳ない。そこでいつくか確認をとろうとしたのである。たとえばSARSと疑わしき症状が出た患者はどこにアクセスしたらよいのか、現状では不親切なのでわからない。空港で各都道府県の窓口リストを配ってはどうかと聞いてみると、「それは検討しているが、間に合っていない」という。他にも質問を投げかけると「素人に余計なことを言われたくない」と怒り出す始末である。この高圧的な対応は、懇切丁寧な都道府県の窓口とはあまりにも対照的だ。厚生労働省は中央から行政指導する立場であって、民意を反映しようという意識はないことが露骨に伝わってくる。

細かい事実関係の確認が終わってようやく解放された私は、友人との待ち合わせ場所に急いだ。私が会おうとしたのは、大学時代から縁があった恵さん、現在は某女性誌の副編集長を務めている。彼女と私は同じ大学に通っていたわけではない。けれども、学生時代それぞれESSに属していた私たちは、あるイベントを通して知り合った。たしか「オープン・ディス」と呼ばれていたと記憶しているが、他の大学のESSと交換でディスカッションをするイベントが定期的に開かれていた。たとえば「安楽死」などをテーマに、英語で自分の意見を述べて話し合うというものである。

ESS に入る人のほとんどは、留学経験などはなかった。むしろ今は話せないが、英語を手段として自分の考えを伝えられる人になりたいという志を掲げて入部する。大学に席を置くのだから、クラブ活動を通して英語力を身につけたいという人々が集まっていたのだと思う。少なくとも東京女子大QGSはそうだった。

「オープン・ディス」は年に数回開かれていた。8人ずつくらいに分けられるので、同じテーブルにならない限り深く話すこともない。特に一年生のときには不慣れで不安。新参者同士、軽いライバル意識も含めた不思議なシンパシーを抱いて、一年生の存在が記憶に鮮明に残るものだ。中でもはっきりと覚えているのが恵さん。あとは俳優の塩谷君とも別の機会に同席した。あのうつろな眼差しと、何かあったらいつでも「SHIOYA」を思い出してね、と寄せ書きに書いたメッセージが個性的で印象に残った。現在、二人ともがメディアの中で活躍しているところを見ると、当時から原石はすでに輝きを放っていたということになる。

恵さんと友人としてじっくり話すのは実は19年ぶりかもしれない。3年前に一度、時間を共有したときは仕事の延長だった。20代半ばで彼女が大きなおなかを抱えていた姿は記憶に鮮やかだが、その時の息子さんがカナダに留学しているとは。人を育て上げた彼女の余裕が、私にはとても眩しく思えた。

この年齢になると、子育てを経験した女性はどっしりとしていて圧倒される。そして、どこか温かい。自分を犠牲にして子供の欲求を引き受けざるを得なかった日々が彼女たちを強く大きくしたのだと思う。もっとも誰もがそうした包容力を持ち合わせられるものではなく、恵さんは志が高く、年齢とともに上手に成熟していったからに違いない。副編集長というポストも彼女に別の忍耐力を与えたのかもしれない。本人も「私って意外と後輩を育てるのが好きかもしれない」と語っていた。

高校や大学の同級生の中には、他人の評価でしか自分を測れず、子供を見栄の道具にしてしまっている人も少なくない。そう女性たちと話すと、自己中心的で疲れてしまう。彼女たちが求めているのは、自分を肯定し、自分の生き方正当化してくれる存在なのだ。

7年ほど前、こんなことがあった。もう何年も話していなかった友人から夜中に電話が入り、夫を非難する話を一通り聞かされたのだ。子供のお受験に自分が必死になっているのに、旦那が同じボルテージにならず冷たかった、受験の失敗は夫の不熱心さにあるというのである。

こういう時、私の任は別の角度から光をあてて楽にしてあげることだと常々考えている。その夜も彼女が発想を変えれば、夫への不信感を払拭できると信じてこう話してみた。

「そんなことでご主人を責めちゃかわいそうよ。お受験は宗教みたいなところがあるから信者にならなかったご主人と貴女の間にはギャップがあるのは仕方ないよ。オウムの例でもわかるじゃない。麻原を信じている彼らを、外にいる私たちは理解できないでしょ」。

この瞬間、彼女はいきなり怒り出したのだった。オウム信者と自分を一緒にしたというのが、怒りの理由である。挙句の果てに「子供のいない貴女に話をした私が間違っていた」とまで言われてしまった。じゃあ、最初から私に電話してくるなよ、と思わず言い返したくなる。なんて失礼、“自己中”きわまりない人だろうか。

以来 7年、私は彼女が出席する会合を遠ざけ、電話も長くならないようにしている。どうやら彼女は他の友人たちの間でも重たい存在になっているようだ。

あの電話で彼女は自分が否定されたと感じたに違いないが、思えば「素人に余計なことを言われたくない」と怒った厚生労働省の役人も同じだ。自分が肯定されなかった時にいきなり牙を向く点では、昨今起きている不可解な犯罪と通じるものがある。悲しいことだが、日本人はどんどん幼稚になっている。

できれば友人たちには素敵でいて欲しいと思う。だから、もしも夫を亡くした友人がいれば、彼女のために仕事を探して奔走するし、ハンディを背負いつつ前向きに歩こうとしている人たちのことはいつでも応援する用意はある。けれども、お子チャマたちの自己正当化に付き合うのは御免だ。私ももう若くはない。残された人生、成熟した人々とお付き合いしたいと考えるのはワガママだろうか。

40 代も半ばなんだから、せめて同級生にはこう言いたい。

「みんな、そろそろ大人になろうよ」

2003年5月5日



ピアノの発表会

まもなく6歳になろうとする姪のピアノの発表会を聞きにいった。場所は新宿中央公園の近くにある区民会館だ。最年少で習い始めて一番日が浅い姪の名前はプログラムのトップに載っている。

迷ったのは花束をどうするかである。私の時代にも、弟の時代にも、子供の発表会ごときに花束は渡さなかった。愛すべき姪のためには演奏後、小さなブーケを持ってステージに駆けつけてみたい気もする。しかし、一番手の彼女だけが受け取って、他の子供が追随し泣ければ、姪だけが浮いてしまい、後でいじめられるかもしれない。子供のいない私には迷う瞬間である。

結果、ビデオ片手に花束は購入せず、会場に向かった。すると、後からやってきた人々は手に花を持っている。ブーケと呼ぶには簡易な数本の花を持っているのだ。どうしよう。

そこへ義妹の妹が小さな花を持って入ってきた。演奏後、ステージで渡してもいいかどうか確認している。どうやら、この先生の発表会では花を贈るのは恒例らしい。一番手とはいえ、これで姪は

驚いたのは、みながそれを受け取ることに、あまりに慣れていることだった。演奏が良かったかどうかに関わらず、儀式化していることさえ気になる。

本来、ピアノのお稽古は演奏を楽しむことを教えるべきであり、発表会は演奏を通して人を感動させるものだということを体験させるべきものだと思う。しかし、日本では頑張って練習したものを発表する場になっている。まる暗記を奨励する勉強の成果を競う受験の前哨戦のように存在している。

先日、ミラノで会った友人によれば、欧州の教育は全く違うという。フランスの小学校では、美術の時間に名画について、その画家の人生と絵のテーマについて論じた後、美術館に本物を見に行くのだそうだ。もちろん、それだけの名画が常に美術館に存在するフランスと日本の違いはある。けれども、私が小中学校で受けた美術の授業では、作者の人生や時代背景についての解説を教師から教えられた記憶はない。

NHK で放送されている「課外授業ようこそ先輩」で、その道を極めた人が母校で教える様子は教育の理想だとは思う。しかし日本の学校教育がそこまで到達するには数十年を要すると思うが、少なくとも芸術などのお稽古事は、表現することの醍醐味を教えるべきであり、親も先生を選ばねばなるまい。

そうは言っても、初の姪の晴れ舞台。他の生徒が演奏中に花屋に走り、第二部・連弾の演奏後、私は舞台の姪に花を渡したのだった。

2003年4月23日



六本木ヒルズ

六本木ヒルズのプレ・オープニングに行ってみた。あまりの人ごみに圧倒された。正式なオープンは2日後だというのに恐ろしく大勢の人々が押し寄せている。エスカレータの乗り降りでさえ、すし詰め状態だ。景気がよかった時代、お中元商戦真っ盛りのころのデパートに匹敵する。

かくも大勢の人々を集めたのは、各店舗が一斉に関係者を招待しているからだ。しかし、その招待状を持たない人間は、六本木ヒルズの中には入れない。入場者のチェックは厳重に行われている。そこに集まっているのは、「選ばれた人」なのである。人によっては、数箇所から招待状が届いていて、それをこなすのが大変なのだという。昨日、アントワープ・ダイヤモンド銀座店のオープニングに呼ばれた際、そこに集った著名人がそんな話をしていた。高見恭子さんのところには 10通近く、デイブ・スペクター夫人はホテル・グランドハイアットのレセプションに行くのだそうだ。その言葉どおり、六本木ヒルズを歩いていると、高見さんにばったり会った。彼女の紙袋は、招待状を持つ人にのみ贈られる記念品でいっぱいだ。同じく安藤和津さんもにも遭遇した。「8時から仕事なの。それまでに全部こなすの大変なんだから」と言いながら、招待を受けた店をすべて駆け巡っていた様子だ。

なにせ六本木ヒルズは広い。東京ドーム8個分と言うだけのことはあり、歩きまわるだけで十分に痩せられる。レイアウトがよくわからない分、余計に広く感じるのかもしれない。初めてディズニーランドにやってきて地図を片手に迷ったときと似ている。よその大学の学園祭に呼ばれて、あちこちの模擬店を訪れた学生時代も思い出される。そう、ここは一種のテーマパークなのである。

壮大な映画館には、多くの芸能人が招待されているらしい。椅子の作りなど贅沢にできていると評判だ。しかし、私自身は深夜上映もしていた「シネ・ヴィヴァン」が存在していたときの六本木のほうが好きだ。WAVEの地下にあった「シネ・ヴィヴァン」は知る人ぞ知るヨーロッパのいい映画をたくさん上映していた。グルジアの奇才・パラジャーノフ監督の映画を見たのも「シネ・ヴィヴァン」だった。たしか放送大学の高橋和夫先生も一緒だった。イランに詳しい先生が、パラジャーノフのことを教えてくれたのである。

森ビルは17年前からこのプロジェクトを進めていたという。ある日突然、WAVEがなくなると告知されるまで、恥ずかしながら私はそのプロジェクトを知らなかった。旧テレビ朝日も壊され、麻布十番からつながるのだと聞かされても、どれほどの変貌を遂げるのか、当時は検討もつかなかった。ここまで未来都市さながらの空間になってしまうとは。再開発とは聞こえがいいが、私の知っていた風景はすっかり消えてしまったのである。高層ビルにさえぎられ、ここのエレベーターホールから眺めることができた東京タワーはもうない。六本木駅から西麻布交差点に向かうまで、地上をまっすぐには歩けない。途中、エスカレータで二階に上がらないと、道を渡れないのである。麻布警察の向かい側にあった鈴木酒店は六本木ヒルズに移動すると貼り紙があった。繁華街にありながら、どこか下町の匂いを残していた六本木の人々の営みをすべて飲み込んで、六本木ヒルズは誕生したというわけだ。

丸の内や汐留の再開発に比べ、六本木ヒルズは宣伝が上手く、ずいぶんと話題になっている。昨夜の式典には小泉総理や石原慎太郎東京都知事も招かれている。その様子はニュースでも流されたが、それ以外にも式典があったそうだ。

「うちの主人は8時からなのよね」とは、最初の式典に出席した建築家の友人が隣に座った大宅映子さんから聞いた発言だが、どうやら式典の招待客にもランクがあるらしい。

森ビルの立ち退き要請を承諾した六本木の住民たちは、どの式典に招かれたのだろう。そんなことを思いながら、昔のたたずまいを残す店を一軒一軒確認しながら、西麻布へと歩いた。

2003年4月19日



金毘羅で句会デビュー

かねて俳句に興味があった。アートディレクターの浅葉克己さんが娘さんと開いた個展のオープニングで辰巳琢郎さんに会い、ある句会に参加することにした。彼とは20代から縁があり、幼なじみのような存在だ。

百夜句会と名づけられた、その句会は恋愛の句を詠むことが条件で、主宰者は黛まどかさんだ。メンバーは辰巳さんのほか、増田明美さん、わたせせいぞうさん、坂東三津五郎さんなどである。今回は坂東さんが「四国こんぴら歌舞伎大芝居」に出演中なので、皆で金丸座にて「三人吉三」を観た後、句会が始まるころになっている。特別の日に参加できて、私にとってはなんとも幸運なデビューとなった。

国の重要文化財の指定を受けた金丸座は金毘羅宮のある象頭山のふもとにある。1835年(天保6年)に立てられ、現存する歌舞伎劇場としては日本最古の建物である。1976年に現在の場所に移転・復元。人力で動かす「廻り舞台」や「せり」などの舞台装置が江戸時代のまま残されている。昔ながらの観客席と舞台が「高窓」と呼ばれる明かり窓から差し込む光の中で浮かび上がり、「三人吉三」にはぴったりだ。通し狂言『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は同じ「吉三」という名前を持つ三人の盗賊の因果を描く、黙阿弥の名ぜりふに彩られた名作だ。市川團十郎を座頭に、中村時蔵がお嬢、坂東三津五郎がお坊を演じる。お坊吉三は三津五郎さんにはまり役だ。

いやあ、歌舞伎はこうでなければいけない。

「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の切符は旅行会社に買い占められ、正攻法で切符を手に入れることはかなり難しい。かぶりつきの席で観られるのも、ひとえに三津五郎さんのおかげだ。せっかくだから江戸の町娘風の着物を着て楽しみたいもの。翌朝には金毘羅詣を控えているので軽装姿でやってきていた。日ごろ運動不足の私が1500段も上って奥の院にたどり着けるものかどうか。讃岐うどんもたらふく食べたい。高松までやってきたのだから、やってみたいことがいっぱいだ。東京近郊にこんな芝居小屋があれば、もっと落ち着いて楽しめるのに。

さて、観劇の後はいよいよ句会である。事前に4句、芝居を観て1句考えておくことになっていた。恋の句であることが、この句会の特徴だ。なにせ新人なのだから、その場で考えるなどと器用にはこなせない。朝早く起きて考えることにした。恋をテーマにといわれれば、作詞を手がけていたころを思い出す。5・7・5におさめる作業は、曲を渡され、言葉をはめ込む作詞と作業が似ている。春の季語が入れば成功だ。

句会では作者を伏せて句を書き出し、各自がお気に入りの8句を選んでいく。その行程が一番楽しいのだと思う。そして発表――。私のデビュー作はいずれも人気だった。これもビギナーズ・ラックというべきか。正確な結果は2ヶ月後の句会で渡されるので、その際に公開しよう。 

今日は生まれて初めて作った、記念すべき5句をここに披露する。

春の季語で恋の歌を4句

    くちびるを重ねし髪に花吹雪

    君の香をしばしとどめん春の雷

    逃げ水を追うて二人のフェルマータ

    声かなた見上げて同じ春の月

こんぴら歌舞伎を見て一句

    盃や因果はめぐる朧月

2003年4月14日



モスキーノ

モスキーノの新しいショップが表参道骨董どおりにオープンし、そのレセプションパーティに出席した。

久しぶりに高見恭子さん、久保京子さん、秀香さんにお目にかかり、思う存分「フェラーリ」を味わった。やはりスプモンテはこれが一番だ。

朝の情報番組の一番は「スパモニ」、と言いたいところだが、視聴率トップの裏番組は「特ダネ」だ。その取材をかねてドン小西さんもいらしていた。彼は西麻布の住人で、コンビニや横断歩道でよくみかけていたが、今回、初めてじっくりとお話させていただいた。実に愉快な人だ。

「モスキーノもね、昔はもっと個性があったんだけどね」

と少し残念そうな口調で話したかと思うと、

「モスキーノは僕と同じ歳なんだよね」と自慢げに語る。

たしかに昔のモスキーノはもっと冒険があったように思う。それにもう少し、大人の服だったと記憶している。それが若者にも気軽に着られるデザインになって裾野が広がった。定番のハートに加え、ポップな花柄も種類が豊富になって、スーツなら仕事でも着られるのは楽しい限りだ。可愛いのに大人の色気を漂わせるモスキーノはお気に入りである。

私は子供のころから着道楽で、我が家は靴と洋服であふれている。玄関の下駄箱と寝室の棚にはパンプス、ブーツ、サンダル、草履がぎっしりと詰まっているし4畳の部屋にポールを5本打って、クリーニング屋さんのように服をつるしている。そこへ母の遺品の和服を桐の箪笥2棹とともに置いているというのだから、クローゼットを通り越して、テレビ局の衣裳部屋状態だ。

かつて西麻布の13畳半のアパートに住んでいた頃も大変だった。寝室はベッド以外、すべて洋服と靴やバッグで埋め尽くされていたのだ。衣裳部屋にベッドを置いているという表現が正しいかもしれない。当時、番組で共演していた森永卓郎が一言、「じゃあ、一部屋が芸能人で、もうひとつが作家の部屋なんだね」。実にうまく言い当てている。もう一部屋は、台所兼仕事場で、食器棚と本棚デスクでいっぱいになっていたのだ。おかげで洗濯機を置くスペースはなく、下着などは手洗いで、シーツなどの大物のために、六本木のコインランドリーに通っていた。その後、代々木のマンションに移って洗濯機を手にしたときには、嬉しくて嬉しくて毎日洗濯に明け暮れたくらいだ。

靴は木型との相性からシャルル・ジョルダン以外は受け付けないのだが、洋服の好みには変遷がある。流行に左右されないつもりだが、テレビに出るようになってからは、やはり時代の空気を反映している。

80年代半ば、「CNNデイウォッチ」でデビューした頃はノーマ・カマリとインゲボルグに、 NHK「ナイトジャーナル」の頃はT・ミュグレーとアイスバーグにはまっていた。ノーマ・カマリとミュグレーは、肩パットが大きくてウエストがしまっているのがお気に入りの理由だった。

ショルダーバッグがすぐに落ちるほどなで肩で童顔の私には、年齢を上に見せ、キャスターとして信頼されるためには肩パットが必需品だったのだ。子供のころから「お月さまにみたいにまん丸のお顔ね」といわれて傷ついてきた私は、テレビでの苦労が耐えない。ただでさえ横に広がるのだから、縦長に見せるために、前髪を立て、あごより下まで毛を伸ばし、襟のつまった服は絶対に着ない。何度か洗剤のCMオーディションに呼ばれたことがあるが、モニターに映った自分に驚いた。ライトのせいで実物以上に映っているのに、まるでアニメなのである。生活感がまるでない。これじゃ、選ばれるわけがない。そんな私がニュースを伝えるのだから、髪型と肩パットで迫力をつけるしかなかったのである

バブルがはじけてしばらく90年代前半まで、日本経済はまだまだ強気だったと思う。それを反映して、女性キャスターも、前髪を立てて肩パットの入った服が主流だった。いかにもバブルの象徴であるこのスタイルは台湾や東南アジアに飛び火して、日本で飽きられた後も数年、あちらの女性キャスターは一様にそのスタイルを踏襲していた。

一方でフェレッティやインゲボルグの花柄と、ディズニーのキャラクターをモチーフにセーターを作っていたアイスバーグにも惹かれていった。背伸びをした反動もあって、私にとっての癒しのアイテムだったのだ。 

イッセイ・ミヤケのプリーツプリーズを着るようになったのは、関西テレビ「ワンダラーズ」で大阪に通うようになってからだ。それまでプリーツプリーズというと、広告やデザイン系のパーティで、40代以上の女性たちが制服のように来ている服という印象しかなかった。誰もがあのプリーツ地の黒一色でその身を覆っているのが気持ち悪かったのだ。ところが、「ワンダラーズ」のスタイリストだった山崎氏がイッセイの鮮やかなオレンジのシャツを用意してくれて考えを改めた。実はプリーツプリーズには恐ろしい多くの色やデザインが存在したのである。しかも、皺にならずに洗濯機で洗えるのだ。いや、むしろ熱に弱いためドライクリーニングは良くない。洗濯機を購入したばかりの私が入れあげるには、十分すぎる条件が整っていたというわけだ。

最近はプリーツプリーズよりイッセイ・ミヤケ、それにモスキーノ、アンナ・モリナーリ、ユキ・トリヰにはまっている。サイズがぴったりというだけでなく、アーティストとしての技術にほれ込んで投資しているという感覚である。

とはいえ、デザイナーのこだわりも、経営が成り立たなければ続かない。T・ミュグレーが今年の春夏コレクションで引退したというニュースを知って衝撃を受けた。LVMHの傘下に入ったブランドとは対象的だ。モスキーノもユキ・トリヰも若者路線に転じていることと無関係ではないのだろう。

20年前の服も捨てることなく、ひたすら溜め込んでいるのだから、我が家は狭くなるばかり。食道楽は年齢とともに控えめになりつつあるが、着道楽だけは誰にも止められない。私が預金に向かない理由は、どうやらここにありそうだ。

2003年4月10日



SARS②  成田の検疫

帰りの便で再び要注意モードに切り替えた。機内で配られた英字新聞にはSARSを細菌兵器に見立てた記事が掲載されていた。

パリから東京へ帰る便もいっぱいだった。4月15日まではエアフラが格安料金で利用できるせいだろう。パリを夜中に出る便にはフランス人も少なくない。彼らは東京で乗り換えてニューカレドニアに向かうのである。

「マスクはSARS対策ですか」

隣にすわったお嬢さんが聞いてきた。彼女はパリに留学してそのまま現地企業に就職した日本人だ。広州の友人とメールでやりとりしたところ、公式発表よりもずっと感染者が多いそうだと教えてくれた。

「臭いものには蓋をしろ」とは旧ソ連の体質だった。そこは中国も同じである。自分の責任を問われるのが怖い官僚たちは、情報公開など考えない。ところが、一歩外に出れば、グロバリゼーション。経済活動だけでなく、SARSもあっという間に世界中に飛び火する。恐ろしい時代だ。

SARS パニックを通して現在の中国が抱えている矛盾が露呈した。中国はグロバリゼーションの波をつかみ、すさまじい勢いで経済発展を遂げている。一方で、国内、とりわけ地方の官僚体質はそのスピードから取り残された感がある。2008年のオリンピックを控え、常に国際社会に目が向いている北京の中央政府とは対照的だ。地方の村々では衛生事情も悪い。人と物の往来が激しい分、SARSも自由に移動する。なのに医療体制は世界水準からほど遠い。日本でさえもアメリカよりも10年は遅れているといわれているのだ。半年前、 SARSが最初に欧米社会で発見されていれば、いまごろワクチンも開発されていた可能性が高いという。

いずれにしても人の流れは誰にも止められない。ならば水際でどう止められるかにかかっている。だとすれば、一番重要なのは空港だ。厚生労働省がどう対処しているのか、私は非常に興味があった。

ところが、機内アナウンスを聞いて驚いた。「今回の旅行で東南アジア、アフリカを回られた方は検疫所で申告してください」。ちょっと待って。これではいつものアナウンスと同じだ。香港、台湾、中国は入っていない。SARSを意識するのであれば、東アジアに言及すべきではないのか。

検疫所も静かなものだ。いつものイエローカードを渡されるだけで、何も言われない。いくら欧州便だからといって、それ以前に中華圏をまわっていない保障はない。水際で止めずしてどうするのだ。こんな調子では、もう日本人の中にもSARS感染者は存在しているに違いない。

そもそもイエローカード自体がいい加減なのである。何か症状が出たら、どこの病院に行けばいいというリストが記されていないのだ。これには苦い経験がある。

1996 年夏。インドネシアから帰国してからしばらくして、私はおなかを下した。私の体質から、こういう事態は滅多にない。あるとすれば海外での水が原因だ。最初はセネガルの旅で、次は中国沿海部の旅の途中、次はバリ島から帰った時である。少しでも現地の人の生活に近づこうとする姿勢から、現地の人々の家庭で食事をするうち、水でやられてしまうようだ。

その夏もジャカルタでメガワティに初めて会い、帰国したばかりだった。現インドネシア大統領のメガワティは当時、民主化運動のシンボルで、ミャンマー(ビルマ)のアウンサンスーチーさんのような存在だったのだ。一方で日本国内ではO157が流行していた季節である。私は『ワンダラーズ』収録のため週に一度、大阪の関西テレビに通っていた。私のハラグアイが悪くなったのは、水が原因だけとは限らない。

とりあえず、病院に行こう。と思い立って向かったのが、港区広尾にある日赤病院だった。

無知だと笑われるかもしれないが、日赤はどちらに対しても万全だという思い込みがあったのである。以下は初診の受付で、若い女性の事務員とのやりとりだ。

「あなたはインドネシアに行っていたんですね。じゃあ、成田でイエローカードをもらったでしょ。風土病の可能性のある人を、隔離病棟のない日赤で見るわけにはいきません。都立荏原病院に行ってください」

「荏原病院ってどこにあるのですか」

「五反田です」

「すでに11時になろうとしていますが、今から行っても受け付けてもらえるのですか」

「そんなことは、こちらの知ったことではありません。自分で調べてください」

「じゃあ、今から行って、もしも診察できないと拒絶されたら、私はこの週末どうしたらいいのでしょうか。風土病という保障はないのですよ。O157だったら、私はこの週末、薬ももらえずに七転八倒しなければいけないのですか。風土病と診察されたなら、私の責任で荏原病院に向かいます。なので、診察だけでもしていただけませんか」

「できません。厚生省の指導で、イエローカードの人を診ることはできないのです」

「イエローカードには、日赤が受け入れないとも、荏原病院に行けとも書いてありませんよ。言わせていただきますが、厚生省の三文字を振りかざすことが私たちにはいかに無意味か、おわかりではないのですか。あなたたち病院関係者には絶対でも、私たち国民には何の威力もありません。むしろ薬害エイズ問題で、不信感のかたまりです」

ここまで私が言った段階で、近くにいた男の事務員が「じゃあ、診察だけ」と手続きを促した。診察を担当した医師も看護師もきわめて手際よく、O157の検査を行い、結果、風土病でもO157でもなかった。ただ水にあたっただけだったのである。しかし、タイミングが悪かった。当時の関西におけるO157ショックは、SARS恐怖に陥っている中国の状況に似ているように思う。

問題は成田の検疫である。イエローカードには、帰国後、何か症状が見えてきたときには、どこの病院に行くべきなのかを明記しなければいけない。日赤が受け入れないなどと誰が想像できたであろう。次に人が思いつくのは、東大のような国立大学の病院だ。都立荏原病院の名前を知らない人々も大勢いるのだ。空港の検疫所では各都道府県の受け入れ病院に電話番号書くべきだし、検疫所でもポスターとアナウンスで、受け入れない病院があることを知らせなければいけない。

SARS については、国立国際医療センターが受け入れ病院として名乗りを上げた。今日の放送で私はその名前を連呼したが、

おそらく他人事としてしか捕らえていないうちは届かないだろう。こういう事象に対して自分が無縁のうちから、シミュレーションする癖がつくようになると、日本人ももっと強くなれるのだが。

2003年4月4日



SARS①  成田発

SARS が流行っているというのに、イタリアに行ってきた。

3日の放送が終わった日、夜21時50分発のエアー・フランスでパリヘ向かい、ミラノに入ろうというものだ。

ここまで遅いと、他にフライトはほとんどない。成田空港の売店がシャッターを下ろしかけているところに滑り込み、マスクを購入。SARSも怖いのだが、飛行機は乾燥する。どこへ渡航するにも機内でマスクは必需品だが、万が一のために、余分に持っていくことにした。

用心深い私の考えでは、もしかしたら搭乗の際、マスクが配布されるのでは、と淡い期待を抱いたのだが、全くその気配はなし。それどころか、空港内でマスクをかけている人が一人もいないのである。この無防備が恐ろしい結果を生むのではないかと心配しつつも、搭乗ゲートに向かうと、もう一人だけ、日本人女性がマスクを着用していた。

機内が込んでいて驚いた。この便にはもともと欧州人が多い。くわえて観光客風の日本人もたくさんいて、ほぼ満席だ。この中でマスク着用者は二人だけということになると、感染者だと疑われそうで所在無い。こう発想してしまう私は、つくづく日本人だと思う。障害者に寛大な欧州やイスラーム社会とは違って、日本のような差別社会ではSARSにかかった人が名乗り出るのに勇気がいるだろう。らい病やエイズの時と同様、自分が社会から締め出されるに違いないと不安になるからだ。そんなことを考えつつ、朝5時から起きていた私は、飛び立つとすぐに深い眠りに落ちた。

エアフラの夜便は仕事が終わってから出発できるので便利だが、そこからの乗換えとなると、空港の指定された場所で時間をつぶすことになる。早朝の空港は気が抜けた炭酸水のようだ。くたびれた夜の終わりとやがて明ける朝をつなぐ2時間を、水底のようなカフェで過ごす。今回は機内で隣に座っていた日本人女性と会話をするうち、あっという間に時が流れた。

やがてセキュリティチェックを受けなおし、搭乗ゲートへと向かうと、空港はもう新しい顔に変わっている。早朝便で旅をしようとする人々で活気に満ち溢れている。ここは完全にEU。マスク着用者は一人もいない。

さすがの私もミラノの空港から市中へのマルペンサ・エクスプレスに乗った段階で、マスクをはずすことにした。イタリア滞在中、私の頭からSARSへの恐怖はすっかり消えていた。

2003年3月20日



開戦

ついに戦争が始まった。

それはきわめて奇妙な状況だった。今日は木曜日。私が「スーパーモーニング」に出演する日だ。当初、日本時間10時の開戦直後、ブッシュ大統領が演説をする予定であり、それを見込んで「スパモニ」は番組の枠を延長、特別番組の様相を呈することになっていた。演説に時間によっては、11時あるいは11時半までと、終了時間はワシントンの状況を見て番組中に決定することになっていた。

おそらく各局、特別番組の準備をして、それぞれキャスターが待機していたに違いない。戦争の始まりを見越して、それを待っているというのは異常である。軍事ジャーナリストの田岡さんによれば「戦争はすでに始まっている」にも関わらず、トマホークなり派手な攻撃をきっかけにブッシュが意味づけを行うという。メディアの性とはいえ、戦争を止めることもできず、ここまでアメリカに振り回されている現実を私たちは恥じなければいけない。

12年前、まだ30過ぎだった私は、友人と戦争が起きないことを祈念し、どこかでその可能性を信じていた。レギュラー番組を持たなかった私は、あの朝、友人からの電話で開戦を知って涙した。「どうして人間は愚かなことを繰り返すんだろう」。同じ言葉を12年後に再びつぶやくとは・・・。ジャーナリズムに身を置いて、国際政治を研究しても、私には何もできなかったのかと思うと、悔しくてならない。

そもそも9.11の直後、アフガニスタンを攻撃すると言い出した段階で、ブッシュ政権の内情を検証をすべきであったのだ。ワールドトレードセンターが崩れる映像を見た瞬間から、日本国民もアメリカ人のショックを共有してしまったらしい。外務省と日本政府はといえば、湾岸戦争のトラウマからアメリカ支持をすぐに表明した。今度こそアングロサクソン社会に評価されたいというのが彼らの本能だったらしい。

その日、日本にいなかった私は、9.11の悲劇をモスクワのイミグレで知った。旧ソ連時代よりも官僚的になったイミグレでさんざん待たされて不愉快な思いをしていた私は、後ろの男性3人組の一人が携帯を見ながら、英語でこう話すのを聞いて耳を疑った。「すごいニュース速報が入ってきたよ。WTCとペンタゴンがやられたらしい」。悪い冗談だと聞き流した。

しかし、ホテルに到着してみると、レセプションに設けられた大型のテレビにはWTCが崩れていく様が映し出されているではないか。ここでも散々待たされたあげく、私は混乱したまま部屋に入り、TBSモスクワ支局に電話した。そして何が起きたかを知ったのである。

私がロシアに渡ったのは、自分が主演したウズベキスタン映画が、キノショック映画祭に出品したからである。黒海沿岸のアナパという町で開かれるその映画祭の挨拶のために現地にしばし滞在。その間にロシア語のニュースしか聞けず国際世論から遠ざかっていた私は、日本に帰ってきて驚いた。飛行機の中と成田で眼を通した新聞によれば、みなが官邸詣でをして、アメリカへの全面支持を進言したと答えていたからだ。全世界がアメリカに同情して、すべてアメリカに都合よく進んでいる。

ウサマビンラディンが首謀者だという証拠はどこにもないのに、なぜ報復攻撃に誰も反対しないのか。もしもイスラーム過激派の仕業だとして、アメリカがなぜ標的になったのかという議論はどこにもないではないか。翌朝5時にはTBS「いちばん!エクスプレス」が控えている。この「アメリカだけが正しい」空気で覆われた日本のメディアで私はどこまで自分の意見を言えるだろう。

結局、翌朝は控えめにして、翌翌朝の番組から、イスラームへの誤解をなくすことに力を注ぎ始めた。過激派の異常さは否定しないが、一般のイスラーム教徒はアメリカ人が忌み嫌うような考えの持ち主でないこと、アメリカの中東政策に問題があること、アフガン攻撃は間違っていることを、数は少ないが同じ論調の新聞記事を使って解説していった。

おかげで「反米がすぎる」というお叱りの電話をもらった。

メールを通して友人にそれを伝えると、報復がなぜいけないのかという反論メールが返ってきて、友人を失ったこともある。アメリカが変質していくことに直感だけで言い知れぬ危うさを抱いた私は、論破できずに孤立していった。欧米社会だけを見てきた人々が何の疑問もなくアメリカ支持に走っていく中で、 通じ合えたのは、アジアや中東地域に精通した人々だけだったのである。

いま私が強く反省しているのは、あの段階でブッシュ政権の解析に手をつけなかったことである。いま言われているネオコン(新保守主義)が何をもくろんでいるのかは、当時から始まっていたのであり、私だけでなく、メディアもそこに目をつけるべきだった。東京には限界があったと思うが、ワシントン特派員ならできたのではないか。しかし、一端戦争が始まってしまうと、戦況を追うのに精一杯になるのがメディアの癖である。現場からの中継や戦況分析で、そのエネルギーのほとんどを費やしてしまった。

アフガン報復には反対しなかった連中も、今回は反戦を唱えている。今ごろ騒いでも遅いのだ。あの段階でアメリカの変容と真剣に向き合わなかったツケが、我々日本の姿勢に反映しているのである。ブッシュ政権との同盟のあり方について、昨年から議論を重ねていれば、我々がこんなに無力感にとらわれなかったに違いない。政治家やその取り巻きが愚かなのはどうすることもできないが、メディアと知識人には何かできたはずだ。

日本と韓国がワールドカップに沸いている間も、アメリカは着々とイラク攻撃の準備をしていたのである。

*ブッシュ政権については東京新聞のコラムに二回書いている。