ワシントン素猫 2004

ワシントン素描 2004



アフガン攻撃以来、ブッシュ政権への批判を繰り返し、一部の視聴者からお叱りを受けてきた私ですが、一度は「ワシントン」の目線とメンタリティを知って発言したいと考え、ジョージタウン大学外交研究フェローとして昨年夏からワシントンに来ております。

アパートの近くにあるネオコンの牙城PNACを訪ねていけばやはり議論がかみ合わず、講演にやってきたウォルフォウィッツ国防副長官が自分がイスラームの理解者であると強調するのに抵抗を覚える一方で、大学のプロジェクトで一緒になったオルブライト女史のバランスのとれた考えに救われ、日本で想像するよりはるかに多くの米国人が平常心を取り戻しているのを知って安心したのも事実です。

情報の宝庫「ワシントン」で、旧東欧・ソ連、アジア諸国を歩いた私がどの角度でその集大成を書き上げられるのか正念場ですが、折しも今年は大統領選の年。民主党はケリー旋風で注目を集めながらも、しかし資金が豊富で悪運の強く、支持層の厚いブッシュには簡単には勝てないだろうとの予想しつつ、極右と極左に大きく揺れる米国の人々の選択も貪欲に観察して帰るつもりです。

ワシントンには地球の縮図。私が出向かなくても世界中から人々がやってきます。ここでは、アングロサクソン的思考を批判するだけでなく、日本がどうあるべきか、他国と相対化する作業を通して考えていきます。

3月に父が他界しました。私生活に吹き荒れたそんな出来事が故に、ワシントンの報告が遅れましたことを、この場を借りてお詫び申し上げます。

2004年3月 秋尾沙戸子

12月○日  2つの幕引き



 母校の校舎が壊される前にお別れの儀式が行われるというので、行ってみることにした。

 私が卒業した都立新宿高校は、渋谷区から新宿区に移転した。といっても、もともとグランドのあった土地に新校舎が建てられたので、すぐ隣に引越しただけのことである。

 旧校舎の校門は、明治通りをはさんで新宿高島屋の向かい側にある。日通とHISの間を入っていった、その奥だ。5階建ての校舎は昔のまま。遅刻ぎりぎりに5階まで駆け上ったことが懐かしく思い出される。1年生を5階で過ごし、1年ごとに1フロアずつ下がることになっていた。

――こんなに小さかったかなあ。

上から校庭を見下ろし、友人と感慨にふけった。図書館も狭く感じる。身長は変わっていないのに、どうやら目線が違っていたらしい。何もかも小さく感じるのは、人生経験のなせる技か。

30年近くも昔の記憶なので、蘇るのに少し時間を要したが、こうして校舎に足を踏み入れると、1枚、1 枚、思い出がフレーム入りのフォトグラフとして浮かんでくる。コンクリートをこだましたエレキギターの音が聞こえてくる。目にごみが入ってコンタクトレンズを入れようとしたとき、指先のレンズを風がさらっていったことも懐かしい。

式典の司会はニッポン放送の上柳アナが担当した。衆議院議員の塩崎氏がやってきてスピーチをした。坂本龍一さんも先輩の一人だが、姿は現さなかった。当時よりずっと低く見える朝礼台で、入学式の時に校長が話したことは妙に鮮明に覚えている。

「新宿南口から校舎にたどりつくまでに、たくさんの連れ込み宿がありますので、お父さん、お母さんは心配かもしれませんが、こうしたものを若いうちから見ておくことは免疫ができて却っていいのです。(中略)本校の卒業生には、共産党の不破さんと、木枯らし門次郎でおなじみの中村敦夫さんがいます」

そんな旅館街も高島屋の建設に伴う再開発でずいぶんと姿を変えた。店や旅館が閉めてしまう前に聞き書きを試みればよかったと少し後悔している。いよいよ、この校舎も壊されるのだが、さて、次は何が建てられるのであろうか。

陽があたっているとはいえ、吹きすさぶ風の中、校庭で行われた式典に和服で出席するのは、足袋を着用した足が凍えてつらい。3時をまわったところで、私は歌舞伎座へと向かった。

中村勘九郎さん最後の舞台は人気で、チケットを確保するのに苦労した。待ちに待った結果、土壇場になって1階の真ん中の席が手に入った。なんという幸せ。かぶりつきで最後の勘九郎さんの表情が見られるのだ。演題は次の通り。

御存 鈴が森

阿国歌舞伎夢華

たぬき

今昔桃太郎

  「阿国歌舞伎夢華」の玉三郎さんは、やはり美しかった。最近は福助さんの女形がお気に入りの私。二人のような艶っぽさは、どうやったら身につくのか。かつて「ナイトジャーナル」にゲストとしてベジャール氏をスタジオにお招きした時、事前に彼の稽古の様子を見に行ったことがある。その際、素顔の玉三郎さんも見学されていて、そのしなやかな座り方に感動した。別のテーマで笑也さんにご登場いただいたときに訊ねたところ、そうした所作を身につけるには、日舞を学ぶしかないのだと言われたのを思い出す。

 「たぬき」の三津五郎さんは見事だった。襲名以来、演技に深みが出てきたと感じているのは私だけではないと思う。勘九郎さん最後の挨拶でも、一足先に八十助さん卒業を経験した先輩として、隣で見守っていた温かいまなざしが印象的だった。

「桃太郎」は勘九郎さんの親友、渡辺えりこさんが脚本を担当。途中、過去の舞いを見せた中の連獅子は千秋楽のみで披露されたらしい。七之助君との連獅子をワシントンで見た私としては、感慨ひとしおであった。

そして最後の舞台挨拶。真ん中のかぶりつきだから、表情をリアルに観察できる。もちろん、スタンディング・オーベーション。30分くらい続いたであろうか。鳴り止まぬ拍手の中、勘九郎さん本人が自ら幕引きを行ったのであった。

12月○日 ゴルカル党首選の結果



 インドネシアには「ムシャワラ」という言葉がある。徹底的に話し合い、皆が納得して決めるという慣習である。党大会を見ていると、これがムシャワラか、と納得してしまう。各地方の代表が、ああだこうだと意見を言い出し、なかなか先に進まない。なかには、取っ組み合いの喧嘩をする場面もある。よって党大会はスケジュールを大幅に狂わせて進行していく。

 地元メディアがもっとも注目したのは、党首選である。開票は深夜にもつれこんだ。候補が4人いたために、誰も過半数に届かず、2回戦に持ち越された。決着が着いたのは朝6時。みな、ぐったりしていた。

 予想通り、副大統領ユスフ・カラの勝利だ。インドネシア財界から9人の富豪を従えて乗り込めば、勝てないわけがない。前夜には相当額の実弾を撃ったと噂されている。大統領選で民主化が進んだように見えたインドネシアだが、相変わらずの金権政治にがっかりだ。その日の午後に発表された人事が発表されたが、プラボウォやスピア・パロなど、ユスフ・カラが自分の支持者として連れてきた9人の財界の大物たちが、一斉にアドバイザーに名前を連ねた。かつては大統領スハルトが占めたその地位を、彼らは金で買い占めたのである。

 しかも、彼らはこれまでの経緯から、対抗馬の現役党首アクバル・タンジュンに恨みを持つ人々なのだから始末に悪い。

「みんなリベンジなんだ。一番のワルはウィラントだ。アクバル支持を装って、何もせずに彼を敗北に追い込んだ」

 こう語る人々は、アクバルに同情的であるが、彼らは自分の会派の方針からユスフに票を投じたのである。

「いまにゴルカルは政府の道具にされてしまう。スハルトの時と同じさ。党員が怒って再び選挙に持ち込むか、われわれがゴルカルを去るか」

 結局は、インドネシア政治はコップの中の嵐のまま。金を使ってのリベンジ合戦。直接選挙で国民が決定権を握る方法以外に、インドネシア政界の悪しき慣習は払拭できないという現実を目の当たりにすることになってしまった。

12月○日 ゴルカル党大会2日目



 4月にワシントンで党首であるアクバル・タンジュンに会ったときは、あまりに老いたその姿に衝撃を受けたほどだ。しかし、アカウタビリティ・スピーチとビデオ通して彼の党首としての尽力を示されて、その理由が痛いほど理解できた。スハルト政権崩壊以降、彼は国会議長としてその運営に心砕いただけでなく、ゴルカルを政党として再生させるために、インドネシア全国を奔走したのだった。

 インドネシアでは共産党をつぶした歴史がある。同じ轍は踏むまい。独裁者が去ったからと言って、その集票マシーンであったゴルカルをつぶしてはならない。ゴルカルとは職能グループであるのだが、実質、与党としての役割も担ってきた。しかし、32年にわたるスハルト政権が倒れて数年、インドネシア社会全体が熱に浮かされたように反ゴルカルにまわった。その逆風の中、アクバルや幹部がこの党を支えるために踏ん張ったのだった。99年に6万人だった党員を40万人にまで増やした功績は評価されてしかるべきだろう。

 彼は大統領の器ではないけれど、実務派の政治家としては優秀だと感じ入った。99年、ワヒドではなくメガワティが大統領になり、アクバルが副大統領になっていれば、インドネシアの歴史は少し違ったかもしれない。

 さて、いよいよ明日は党首選挙の日。焦点は副大統領ユスフ・カラvs現職アクバル・タンジュンの闘いだ。

 もしもカラがゴルカル党首におさまれば、SBY(スシロ・バンバン・ユドヨノ)政権は安泰、と思いきや、これがどうやら違うらしい。恐ろしいことに、彼は大統領よりも権限を持ってしまうため、SBYが窮地に追い込まれることになる。すでに正副大統領の不協和音が聞こえてきているのに、カラが党首になれば思うツボ。2年後には財界をバックにつけてSBYは大統領の座から追い落とされるかもしれない。

 インドネシアのテレビ局はオーナーの意向で論調が決まる危うさの中にあり、彼らがSBYのネガティブキャンペーンをはれば、追い落としなど容易いことだ。カラには大衆をひきつける魅力がないので、5年後に国民の直接選挙で大統領に選ばれることは、ほぼ不可能。ならば、大統領をはずして自分がスライドする以外にチャンスはない。彼が米国副大統領チェイニーのように「副」でおさまることに我慢ができなければ、フィリピンの女性大統領アローヨのように、ちゃっかり副大統領から大統領に昇格することを狙う可能性は十分にある。

 それを阻止するためにもアクバルを党首にという人々と、カラという勝ち馬に乗ってインドネシア社会でのし上がろうとする人々の闘い。これがバリで起きていることだ。ウィラントは自分の票をアクバルに渡し辞退した。

12月○日 山吹色の魔力



 一体これは何だ。黄色のジャケットの山。目がちかちか。頭くらくら。バリ島にいるというのに、私を襲ったのは太陽光線ではない。

 眩しい海外線の誘惑に目を覆い、会議場ロビーに足を踏み入れた途端、ゴルカル党のシンボルカラーである黄色が私を直撃した。自民党大会やアメリカの民主党大会など、いろいろな国の党大会を見てきた私としては、おみやげとして、時計やボールペンなど、ノベルティが売られている光景には慣れっこだ。しかし、ジャケットの大量販売は初めての経験。メガワティ率いる闘争民主党の大会でも、赤のジャケットがこんなに下がっているのは見たことがない。

 材質は綿や化繊が主流。中には革ジャンも売られている。こんなに暑い国で革ジャンなんか誰が買うんかい。こんなチープなデザインでは、場末のキャバレーのステージ衣装と相場が決まっている。などと冷ややかに見すごして会場に入って、またびっくり。 100%、全員が黄色のジャケット着用なのである。きゃあ、もしかして黒は私一人? 冷房対策はピンクのカーデガンだし、所在ないのなんのって。まぁずい。品がないけど、私もあのジャケットを買う?5日間着れば元がとれるかなあ。

 しかし、最前列の来賓席の名前をチェックして、一瞬の迷いから開放された。椅子の上にタウフィック・キマスの名を発見・・・。ということは妻である前大統領のメガワティも来賓?たしかに隣の隣にはPDIP総裁と書かれたカードが置かれている。ここでゴルカル色を着た折には、メガワティの顰蹙を買ってしまう。あくまで、中立を通さなければならない。

 思いがけず、バリでメガワティと会うことができた。大統領選挙に敗れてから初めての対面だった。大統領の座を退いてストレスは減ったのだろう。彼女はとても感じよく、にこやかだった。大統領選挙ではゴルカル党のアクバル派がメガワティ支持にまわったのだから、党大会に出席するのは自然だが、しかし、敗れた身としては、辛い試練でもあったはずだ。

 時間は前後するが、早々と会場に着いた私は、党の幹部に呼び込まれて前から2列目に座る羽目になっていた。な、なんと、そこは党首候補たちのすぐ後ろ。しかも、そのお隣には、あのスハルトの娘婿プラボウォが座ってしまった。98年5月にジャカルタを混乱に陥れた張本人。しかし、この人もインフォーマントの一人にしたい私はついつい、こちらから挨拶してしまった。実に節操がない。

 それにしても、ゴルカル党の山吹色。宗教チックで不思議な魔力を持つ。これが党のシンボルカラーである限り、金権政治と決別できないのではないだろうか。弔事に喪服ばかり集うと、デザインで差別化を図りたくなるように、なるほど、同じ山吹色でも党員によっては工夫がなされている。部外者の私でさえ、皮ジャンも悪くないと思えてきた。冷房でからだが冷えてくれば、思わず買いたくなる。さりとて、こんな色のジャケットは東京に帰れば無用の長物。そういえば、我が家には山吹色の服があれもあった、これもあった、一着くらい持ってくれば良かったと、同じ色を着ながらにして、自分らしさを強調しようとする私がいる。会場にいると、山吹色に染まることに抵抗なくなっていく心理は、我ながら怖いと思った。

11月○日 はからずもターキー



 久々にワシントンにやってきてリサーチをしている。街路樹はすっかり黄金色に染まり、冬支度。家々はすでに庭先や玄関にクリスマスデコレーションを施し、電飾トナカイや電飾ツリーに彩られて夜は華やかなかぎりである。

 ある日本人女性に会うために、アムトラックでデラウェアに向かった。アメリカ人男性と結婚したその女性はもう、80歳になろうとしている。彼女に取材した内容は現段階では明らかにできないが、彼女は古きよき時代の日本を振り返ってこう嘆いた。

「戦争も経験したけど、その前も後も、日本は大らかで余裕がありましたよ。歌舞伎を観に行ったって、客層が違いましたもの。みな粋で、芸者さんも綺麗でね。その空間に自分が来た、というのが嬉しくてたまらなかった」

 もちろん、階級もはっきりしていた時代、彼女はアッパークラスに属していたからこそ出来たのである。そうしたクラス分けがいいとは思えないが、しかし、戦後の悪しき平等主義が日本文化の継承の妨げになったのもまた事実である。そして再び日本が貧富の差で二極化しようとする今、残念ながら新しいお金持ちは日本の文化を知らずに終わっていく。

 ステイ先をメリーランドからワシントンDCのジョージタウンに住む日本人留学生宅に移した。仕事で貯めたお金を投じ留学中のMさんは、木曜日に日本人仲間を家に招き、ターキーを焼くという。昨年はこの休みを利用して日本に戻ったので、私には初めてのサンクスギビング体験。昨夜から熱を出して寝込んでいたのだが、結局、一緒にターキーを焼くことになってしまった。

 アメリカのサンクスギビングは、かつての日本の正月に似て、独り者には所在無い。店は前日の午後から閉められ、都会に住む人々は家族が待つ故郷へと急ぐ。留学生は友人の家族の集いに入れてもらうか、お互いに集うしかないのである。

 大家さんのキッチンには備え付けのオーブンがあり、ターキーを焼く自体、そんなに苦労はなかったのだが、問題はグレービーソースである。Mさんはカリスマ主婦マーサのレシピを片手に悩んでいる。最初の壁は、ターキーの首と内臓を野菜と一緒に煮込んでしまっていいものかどうか。次の壁は、色である。われわれが日ごろイメージするグレービーソースよりも、赤く見えるのが玉に瑕。それに、たくさん出来上がったスープの一部に小麦粉を入れたところ、ダマが出来てしまったところで頭を抱えた。まずはインスタントのグレービーソースを作っておいて最悪の事態を避ける。そして、残りのスープを二等分し、水溶き片栗粉でごまかしたものと、正統派小麦粉でとろみをつけたものを作ったのだ。結果的に3種類ものソースが出来上がり、皆に食べ比べてもらうことにした。

 やってきたのは、省庁や企業から派遣された人々が中心。私はワシントンにいる間、日本の学生たちにほとんど会わずに終わってしまったが、はからずも、帰国後にご対面となった。さすがジョージタウン大学に来るだけのことはあって、皆、個性があって日本のことをよく考えている。一度でも日本を離れる経験を持つと、祖国を相対化する目が養われて、ものの見方に深みが出るものだ。憲法改正や自衛隊のあり方など、日本の将来について議論を重ね、お姉さま、ちょっとご満悦。必ずしも私とは意見が一致しないのだが、こうして酒の席でポリティカルな会話をしていくことが大切。彼らなりに深く考えていることがわかり、日本の将来は少し大丈夫、かな?と思わされた次第。でも、日本で組織に戻ると、この才能が埋没してしまうのだろうか。だとしたら残念。

 さて、ターキーの出来は上々。冷凍だったが、柔らかくてジューシーだった。おそらく朝には39度近く熱があったはずなのだが、調理場に立つと、ついつい仕切り屋の血が騒ぎ、ずっと肉きりおばさんをしてしまった。

 で、問題のソースだが、もっとも人気が高かったのは、な、なんと、水溶き片栗粉でとろみをつけたもの。きゃあ、マーサおばさんに教えてあげたい。でも、裁判でそれどころじゃなかったっけ。

11月○日 ブッシュ再選



 やっぱりブッシュだった。接戦の末ブッシュが勝つ――。今回は私の予想通りだった。

 ディベートで失態を演じなければ、ここまで接戦にならず、楽勝だっただろう。それほど、アメリカ人はブッシュが好きなのである。

 もちろん、ケリーがもっと魅力があれば、結果は違っていたかもしれない。92年のクリントンのような存在が登場すれば、ブッシュの勝利は微妙だった。ヒラリーでも違ったであろう。

 だとしても、民主党圧勝ということはあり得なかった。

 ワシントンに1年滞在しなければ、見えなかったアメリカの保守化傾向。ワシントンやNYなど大都市で「反ブッシュ」感情が勝っても、地方に行けば、食卓で「ブッシュ万歳」

と言うのだ、という話はアメリカにいる間によく耳にしていた。

 共和党について調べれば調べるほど、その支持者からアメリカ社会の保守化は垣間見えた。特に若者を中心としたモラル低下を嘆く中高年はこう考えるのである。

 「アメリカ社会がモラルを取り戻すにはキリスト教の力しかない」

 いわゆる「キリスト教原理主義者」だけでなく、まじめにこう考える人々は大勢いるのである。そういう人から見て、ブッシュが魅力的に映るのは、彼が真面目で信仰心が厚いからである。

 アル中から立ち直るのにキリスト教の力を借りたブッシュは、以来、お祈りを欠かさない。ホワイトハウスでも週に一度、ブッシュを中心に聖書の会が開かれる。彼は真剣に、キリスト教で全世界の人々が救えると考えているのである。この真面目さが根底にあるために、イラク戦争もややこしい。あまり考えたくないが、ハンティントンの『文明の衝突』がますます鮮明になるということである。

 おそらく日本でニュース映像を見ていると、ブッシュのモンチッチのような容姿と表情に子供っぽさを感じるに違いない。そして、一国の大統領としてはどこかドンくさい空気を嫌いだと感じている人も多いと思う。しかし、それが全米では重要なのだと思う。都会的でもなく、超エリートでもなく、けれどもキリスト教を真面目に信じるブッシュだからこそ、とても支持されるのである。実際、ブッシュ自身、学生時代から東部のエスタブリッシュメントの人々がアメリカ政治に支配的であることに対して強い抵抗感を持っていたという。そこがまた、地方の人々には共感を持たれるゆえんである。

 くわえて、そうしたキリスト教右派の人々を取り込むことを目論み、4年かけてそれを実行した選挙参謀カール・ローブの存在が大きいと考えるべきであろう。インドネシアでさえ、ユドヨノの背後に賢い選挙参謀がついただけで、メガワティは大敗したのだ 。選挙は人望や政策能力だけで勝つことは不可能である。アメリカの民主党はこの点でも失敗した。

 しかし、最後に敗北宣言をしたケリーは、やはりそれなりの人物だったと思う。夜中に登場して粘り宣言をした副大統領候補エドワーズには、親近感を覚えることができず、まだまだ青いと思わせるものがあった。それに比べて、ケリーは大人だった。

 ケリーが口にした「アメリカ分断」という表現。それを受けて、世界中の報道機関がアメリカ分断にこだわって大統領選挙を分析していたが、実は、これは全世界的な傾向のように思っている。そして日本もまた、分断されつつあることを私は強く感じている。

        注 ユドヨノの選挙参謀については、サンデー毎日10月30日号の拙稿参照。

10月○日  ユドヨノ圧勝とスハルト回帰



 久しぶりに私の予想がはずれた。おかげで毎晩眠れない。

 本人の能力とは別に、メガワティが大統領になる日が来る――と考えていた私は、当時、多くの研究者から顰蹙を買った。だが、1998年2月、その日はやってきた。インドネシアの人々がそれを望んだからである。

 今回、しかし私は彼らの反応を見抜けなかった。ジャカルタで人と話した印象では、SBY支持者と反SBY(反軍人)が約半々で存在した。そして地方では、金権政治がまだ力を持つと予想した。だから、メガワティが負けるとしても僅差だと考えたのだ。

 しかし鍵を握っていたのは、実は地方の人々だった。

 地方では、スハルト回帰が始まっていたのだ。つまり、スハルト政権崩壊後、地方で何が起こっているかといえば、「プレマン」がはびこっているのである。彼らは、昼間は不動産屋で夜の顔はカジノを仕切るヤクザなのである。彼らが地方の人々を恐喝したり、マッチポンプ的立ち回りをして、地方の政治家を登場させるのに大きな役割を果たしたりするのである。

 このプレマンは、スハルト政権下では、軍によって抑えられていた。ところが、ハビビ政権ではハビビ派プレマンが、ワヒド政権下ではワヒド派のプレマンが、メガワティが大統領になると、闘争民主党派のプレマンが登場して、地方の農民などは辟易していたのである。スハルトの時代は良かった。彼らを止めるには軍の力が必要だ。だから、軍人の大統領がいいのだ、と考える人々が潜在的に存在していた。

 だったら、7月の大統領選挙でSBYが最初から圧勝しても良かったのだが、他にも元国軍司令官の候補が存在していたし、各候補者からお金が配られたことで迷いが出たのだ。相互扶助の精神が基礎にあるインドネシア社会では、頂いた以上報いないといけないと考える。スマトラに住むある人は、各候補からお金を受け取ったばかりに、投票用紙の候補全員にアナを開けて、その投票が無効になったそうだ。

 しかし、4月の総選挙、7月の大統領選挙、そして今回の決選投票は3回目である。そうなれば、彼らもいろいろと学習し、すでに義理は果たしたのだから、自分たちの選びたい候補を選ぼうということになったらしい。やはりプレマン対策には文民の女性大統領では駄目だ。軍人であったSBYにひと肌脱いでもらおうではないか。ここが私の計算間違いだった。

 ジャカルタでは、3回の選挙に飽きていた。99年には参加することで政治が変わると考えたのだが、結局、この5年間、言論の自由は得たものの、生活が向上したわけでもない。集会に行ったところで大差はない。新聞を読みテレビを見て判断しよう。誰が大統領でも変わらないのであれば、現職のメガワティではなく、新人のSBYにチャンスを与えてみようじゃないか。これが大半のSBY支持者の判断だった。

 メガワティが大統領の資質を十分に持ち合わせていたかどうかとは別に、彼女が大統領に就任して以降、911に始まり、世界中でテロの嵐が吹き荒れた。これは彼女にとって不運だった。88%のムスリムを抱えるインドネシアでは、フィリピンのアローヨのように、徹底したテロ対策を打ち出せなかった。アメリカの要望に応えて強攻策に出れば、国内のイスラーム勢力を敵に回すからである。

 事実上の勝利宣言をしたSBYはこうコメントした。

「民主化の基礎を築いてくれたメガワティに感謝する」と。

 このコメントを言わせたのは誰だろうか。決断が遅くて有名なSBYがそこまで計算できるとは思えない。彼の裏には、ものすごく賢い仕掛け人がいると私はにらんでいる。その存在を突き止めて、そのカラクリを知りたいと考えているのだが、いずれにせよ、インドネシアは大きくハンドルを切った。スハルトによる32年にわたる独裁政権に決別し、民主化と言う名前の下に試行錯誤を繰り返した日々が終わろうとしている。棄権をした人々を抜かせば、国民が自分の手で大統領を選んだのである。ユドヨノが大統領になるとすると、この先、スハルト的統治に戻るのか、欧米型社会になっていくのか。ハビビ、ワヒド、メガワティ。スハルトに印籠を渡したか、政権末期に反体制として闘ったかした3人の役割が終わり、インドネシアは新しい時代に突入した。

10月○日 ブッシュの失敗 



インドネシアの大統領選挙では、ユドヨノの圧勝がほぼ確定し、次なる焦点はアメリカの大統領選挙である。

 今日は第一回目のディベートだった。朝からCNNに合わせて中継を見たが、ブッシュがなんともブザマであった。決してケリーがいいわけではないのに、ブッシュがひどすぎて、かなり不利になると私は確信した。

 1年間アメリカに滞在して、この二人が話す場面をしばしば見てきたのだが、今日のブッシュはとりわけ出来が悪かった。彼の言葉がすべったり、カツゼツがいい加減で噛んでしまうのはよくあることだ。そうした拙さがお茶目に映るほど、ケリーの演説がつまらない。それが地元記者の評価であり、これまでの支持率に反映されてきたのだった。

しかし、今日はひどすぎる。こんなに幼稚な大統領にアメリカを任せて大丈夫かしらん、と誰もが思ったと私は感じた。あまりに国民をなめている。なんにも考えていない人、と見えてしまった。これでは愛嬌でカバーできる限界を超えている。

ブッシュを支持するのは、富裕層など古くからの共和党支持者にくわえて、メディアを通したイメージに左右されやすい人々なのである。少々舌ッ足らずでも、テレビで見て明るければ許してしまう。いかにも楽観的であれば嬉しくなってしまう人々である。

 その彼らでさえ、今日のブッシュを見て、アレ???と思ってしまったに違いない。あまりにお子チャマで、あまりに思慮深くないと映ったからである。

 一方のケリーは、ひたすら真面目だった。真面目すぎて何の魅力もなかったのだが、しかし、一生懸命お勉強してきた彼に好感を抱いてしまった私である。これでは「人生いろいろ」と発言した首相の不真面目さに嫌気がさして、生真面目な岡田党首率いる民主党に思わず投票してしまった日本国民と同じことがアメリカでも起きそうな気がしてきた。

 今回、ブッシュにとって不幸だったのは、テレビ画面が二分割されたことである。1ショットでも十分に危なっかしかったのに、ケリーと並んで映し出されたのだから、たまらない。狼狽して落ち着きのないブッシュと、終始落ち着き払って静かに対応したケリーとの対比が際立ってしまったのである。

 今回のブッシュの怠慢ぶりは、メガワティのそれと重なる。話すのが苦手なメガワティにしては、テレビ討論にも応じて、めずらしく検討したが、初日の準備不足から来る狼狽ぶりは現職大統領としてはお粗末だった。現職の大統領が初心を忘れて社会の空気を見誤ることはよくあることだが、選挙前の怠慢は命取りである。相手を倒すことだけを考える挑戦者の鮮度とエナジーを突き放すには、よほど心してベルトを締めなおさねばなるまい。

 決してブッシュがいいとは思わないが、ケリーになったからといってイラクもイスラエルも情勢は変わらない。一番の違いは、北朝鮮とは絶対に戦争をしないことだろう。日本にとっては市場開放を迫られて、財界が辛い思いをするだけだ。

 うーん、ディベートの季節到来。午前中は外出を辞めてCNNに釘付けである。

9月○日  投票日の明暗



 早朝、南ジャカルタにあるメガワティの家に向かおうとするタクシーの中で、突然電話が鳴った。

「サトコ、メガワティの投票は11時らしい。だから、先にSBYのところに向かったほうがいいよ。彼は8時に投票所に現れる」

軍人だからという理由で反SBYの人々が投票しないのであれば、やはりSBYの勝算は高いとみるべきであろう。勝ち馬に乗るつもりはないが、一応、その空気はつかんでおかねばならない。

 SBYはメディアの扱いが本当に上手だ。前日も家にジャーナリストを招待し、投票所では取材中の記者やカメラマンのためにスナックとミネラル・ウォーターが配られた。8時20分に現れるという噂どおり、彼はその時刻に現れ、カメラマンのリクエストに応えて、あちこちに人工的な笑みを振りまいた。軍人として滅多に笑うことがなかったであろう彼は、キャンペーンのために無理して笑って見せているように私には見えた。しかし、こうして愛想を振りまくことで、彼は株を上げるのである。権力者の成功の秘訣はまず、メディアを味方につけることだ。

 メディアが一斉に味方するこの空気に中で、メガワティに勝算はないと私は見た。しかし、せめて僅差で負けさせてあげたいというのが私の心情だった。

 私につきあってSBYの投票行動の一部始終を見ていたタクシードライバーは、それでも頑なにメガワティ支持だという。彼は単純にメガワティが好きなのだ。今でも、あの母のような笑顔に癒されるらしい。

 メガワティの投票所付近では、ジャーナリストだけでなく、近所の人々であふれていた。本来の家があるクバグサンからジャカルタ中部のメンテンに居を移したメガワティが、地元に帰ってきて公の場に姿を現すのは久しぶりだから、なんとか握手をしたいのである。メガワティの支持者とは、こういう人々なのである。

 投票の後、メガワティは(正確には夫のタウフィックだが)記者団を家に招いた。前日に記者を集めたSBYに比べ、こうした行動は遅きに過ぎるが、かつてメガワティが反体制のシンボルだったころ、ここに集まった記者たちが何人かやってきて、同窓会のような空気に包まれた。各地の選挙結果を電話で問い合わせ始めた。

 大統領になってからというもの、彼女はこういう場を設けなかった。はっきり言えば、これが敗因である。ブレーンを含めて、反体制のシンボルだったころの自分を支えた人々を大切にしなかったのだ。屋根が拡張され、天井にファンがとりつけられ、以前より大勢の人が日差しや雨をしのぎながら過ごせる環境になっていた。庭の奥に目を転じると、雑魚寝のできるスペースが設けられていた。大統領付きのガードマンを泊めるためらしい。これが、より多くの庶民を嵐から守るために設えられたのであったら、どんなに良かったであろう。メガワティ敗北の理由を象徴しているようで哀しかった。

 側近も記者も電話で全国の投票所に問い合わせを始めた。各地の得票率が入ってくるにつけ、夫のファウフィック・キマスの表情が暗くなっていった。組織票で取れると考えていた彼にとっての誤算が次々と明らかになり、ついにはタバコに手を出した。メガワティ本人は現役の大統領としてキャンペーンに集中できなかったのだから、夫である彼の読みの甘さや闘争民主党の怠慢に敗因があるのは確実である。とはいえ、負けつつある陣営の傍についているのは辛いものだ。

 私の携帯にも友人から電話が入った。

「テレビでは各局、SBYの勝利宣言よ。メガに勝ち目はないわ」

 5時すぎのことだ。わずか4時間、5%の開票で勝利宣言はこの国では早すぎる。

 しかもメトロTVが開票速報として流した数字と、選挙管理委員会が発表している数字に開きがあることだ。速報だと30%の開きがあるのに、公式の発表だと19%に縮まる。

この後、選挙対策本部のメガ・センターを訪れると、早すぎる勝利宣言と速報が問題視されていた。ここは、闘争民主党の人々だけでなく、全国からメガワティ支持者がボランティアで集まっているのだ。元軍人、学者、NGOなどいろいろである。とても誠実そうに見えるのだが、不器用そうで仕事の運びが効率的でない。SBY陣営のスタッフと比べると、時代遅れという空気がみなぎっている。

この2年ほどでテレビ番組の作りは洗練された。メトロTVなど、ほとんどが欧米の血が混じったハーフを女子アナ揃え、男性視聴者の獲得の成功している。それが選挙に大きく影響したことは間違いない。ジャカルタの街並みもピカピカに変わった。ショッピングセンターにはブランドショップが並び、お米好きのインドネシアになぜかその場で焼くパン屋いきなり3軒も出来て大流行、本屋には分厚くて高いインテリアの写真集が並んでいる。少なくともジャカルタでは、「洗練」はトレンドである。メガワティ陣営はそこを見誤った。

 宿に戻ってシャワーを浴びると、ベッドになだれ込んだ。私なりにメガワティの最期を看取る覚悟はあったのだが、友人ともども、なんだがとても疲れてしまった。

9月○日  投票を拒否する人々



 まずいことになった。明日の選挙ではゴルプット(白票)がたくさんでるかもしれない。昨夜から日曜日の今日、別件の調査でいろいろな人の家を訪れえているが、そこに集うご近所さんは、みなゴルプットだというのである。これでメガワティが負ける確立が高くなった。

先日、TBSのニュースバードで電話レポートをし、勝負は五分五分で、メガワティにもまだ勝つ可能性が残されていると話してしまったというのに、どうしよう。

今回の選挙はイメージ戦略だ。対抗馬のSBYが世論調査で高い数字を示しているのは、イメージ戦略が成功しているためである。思い出してほしい。3年前に小泉総理が登場した時、彼によって日本は変わると信じたし、メディアはそれを煽った。SBYも全く同じなのである。森前総理がメディアに対して愛想が悪かったように、メガワティもメディアにオープンではない。そこを逆手にとったのが、小泉総理の秘書飯島氏であり、SBYのブレーンたちなのである。まずはメディアの取り込みに成功し、SBY旋風を作り上げた。

今回の選挙は、こうしたイメージ戦略にたけた候補者vs古い金権政治を行使する現役大統領との戦いといっても過言ではない。金権政治といえば聞こえが悪いが、考えようによっては、これは相互扶助の精神から来る伝統でもある。かつての日本の自民党政治を想像してもらえばわかりやすい。

アメリカと日本の機関が行った世論調査によれば、常にSBYが約60%でメガワティが約30%、SBYが圧勝である。こうした調査は主に都市部ではそのとおり反映されるものだ。しかし、実際にジャカルタに来て見ると、意外にメガワティ支持者が多い。 7月の選挙を見る限り、あたかもメガワティとSBYの差は調査で30%はあったものの、結果は10%に縮んでいる。この差は何なのか。

7月の選挙に関してみれば、調査を行った時から実際の投票までの間に、メガワティ陣営からの働きがあって変わるというものだ。調査の時には流行に乗って「SBY」に投じると答えても、たとえば、前日に村長さんから電話が入り、「メガワティさんのおかげでわが村にも道路ができたじゃないか」。そう言われて、SBYからメガワティに変えたと言う人が少なくないらしい。つまり、伝統的手法が効を奏したということになる。

国内外のメディアは、世論調査を反映してSBY優位というのだが、ジャカルタの人々に聞くと、「うーん、わからない」というのが答えなのだ。これは市井の人々から元政治家にいたるまで、すべて共通している。つまり、欧米的メディア戦略が、相互扶助の精神で彩られたこの国の伝統的慣習をぶち破るのかどうか、見極めがつかないというのである。

もうひとつは、ジャカルタで聞いて歩くと、SBYは軍人だから駄目だという人たちが結構いることだ。そういう人たちは、反SBYから「メガワティに投票する」と答えるか、「どちらにも満足していない」と答えるのである。つまり、再び軍人支配になるのは敵わないけれど、メガワティにあと5年任せていいのかどうか疑問だというわけだ。

こういう人たちは、前日になってゴルプットにすると言い出したのだ。これは計算外。その分、反SBY票がなくなるのだから、メガワティの勝算は消えるわけである。

彼らはこう考えるのだ。どちらかに投票すれば、ムスリム(イスラーム教徒)としては自分の選択に責任を持たなければいけない。だから投票しないのだ、と。

個人的には、ここでメガワティが勝って5年のうちに評判を落とすよりは、僅差で負けて、惜しまれて引退するほうが、本人にとってもスカルノ家にとっても幸せだと私は考えているのだが、スハルト政権が倒れてわずか6年で、再び軍人の手に国家運営を委ねるのも抵抗がある。正直、私がインドネシア人でも難しい選択である。

9月○日 大使館爆破事件とインドネシア大統領選



  ジャカルタで開かれたある日本人研究者の講演に足を運んだ。
 「今回の爆破事件は大統領選挙に影響するのでしょうか」
 会場からの質問に、彼はこう答えた。
 「この時期の爆破事件はインドネシアの風物詩のようなもの。選挙に影響を与えるとは考えにくい」
 しかし、私の友人である地元記者は別の見方をする。この事件のおかげで、やはり力強い軍が必要だ。メガワティでは駄目で、SBYが大統領になるべきだ。そう思う人が増えるのではないかというのである。
 さらに、彼はこう続ける。これは軍が仕掛けた可能性が高い。ジュマ・イスラミアが首謀者としても、軍の関与があったはずだというわけだ。
 たしかに、このシナリオは否定できない。スハルト政権崩壊後、インドネシアではさまざまな改革が行われた。諸悪の根源と言われた国軍改革では、警察と国軍を分離させた。
 警察が国内治安を、国軍は対外的なものを担うという構図だ。それまで最もおいしかった特権は、交通違反の罰金などである。ここが警察に持っていかれた。しかもメガワティ政権になって、警察が優遇され、国軍は冷や飯を食わされた格好だ。彼らがスハルト政権時代の過去の栄光を懐かしむは誰にも止められまい。
 もしSBYが大統領になれば、再び国軍の天下の可能性が出てくる。軍人たちがそう考えても不思議はないし、この可能性にかけるしかないだろう。2年前、学生活動家から、こういう噂を聞いたことがある。国軍内に流通したSBYによるペーパーはこう語っていたという。インドネシアの治安維持のためには、一度軍人の手で政権を担う必要がある。そして安定を確保した段階で、文民の政権に戻せばいい、と。
 SBYの真意はわからないが、このペーパーによって、軍人たちが喜んだのは想像に易い。だから、なんとかして、SBY大統領になってほしい。一部の軍人たちにとって、これは悲願ともいえる。
 そして、彼はこうも疑うのだ。アメリカが陰で関与していたのではないか、と。
 ワシントンではメガワティは評判が悪い。SBYになってほしいと心から願っている。私は1年の滞在を通して、それを痛感した。主な理由は、彼女がテロ対策に積極的でないからであり、もうひとつの理由は、父スカルノが大嫌いだからである。
 ワシントンではマハティールに対して感情的な批判をよく耳にした。公然とアメリカを批判する彼が疎ましかったからである。それと同様のことが、かつてインドネシアのスカルノ大統領に対してもあった。彼を倒すために、CIAが外島の反乱を誘発し、支援したことはあまりに有名である。
 そうした経緯から、インドネシア人は、すぐにCIAの関与を疑う傾向にある。スカルノの失脚とスハルトの浮上は、アメリカのバックアップがあってのことだという説は、この国には根強く存在している。その目線が消えることはなく、バリのディスコ爆破事件のときも、CIAの関与が取りざたされた。アメリカ人の犠牲者が少なかったからである。
 彼の考えにそって見ていくと、たしかに、メガワティの留守を狙ったところが怪しいのだ。彼女がブルネイ王室の結婚式に出席するために国を出た翌日に事件は起きた。この国では、大統領の留守を狙って不穏な動きがあったことは珍しくない。
 スハルト政権時代から、反乱の影に国軍の誘発ありだったのだが、国際テロの時代になって、ますます本当の首謀者が見えにくくなった。こうした話を続けていくと、向に水を実は裏でスハルトが指示を出しているという見方をするインドネシア人も少なくない。
 一体誰が真の首謀者なのか。イドネシア人が常に猜疑心でいっぱいになるのも、スハルト政権の負の遺産のひとつである。

9月○日 オーストラリア大使館前爆破事件



 ジャカルタに着いた翌日、爆破事件があった。最初はオーストラリア大使館そのものだと報じられ、テレビで現場が中継されたが、結局、大使館そのものはガラスにヒビが入った程度で、むしろ被害は周囲のビルに及び、死傷者もインドネシア人だけであった。
 「バリのディスコでもそう。なぜオーストラリアだけがテロリストの標的になるかしら。アメリカは無事。  これは急進派イスラームの仕業だと思う?」
 と宿でテレビを見ていた数人のインドネシア人に、私は無邪気にこう聞いてみた。
 「急進派イスラームかどうかはわからない。でも反豪感情は皆に共通しているからね」
 「東ティモールの独立以来?」
 「それが始まりだけど、いまの首相の言うことが我々インドネシア人の気持を逆なでするんだ」
 反豪感情――。私にはよく理解ができる。
 ハビビ政権になって、東ティモールがインドネシアからの独立を達成した。1973年に併合された東ティモールは、スハルト政権が倒れたのだから独立する自由を彼らに与えるべきだという国際社会の潮流は納得できる。そこで住民投票を行ったのだが、インドネシア中央政府およびジャカルタの人々は、彼らが独立を選ぶとは考えていなかった。スハルトの圧制で苦しんだのはジャカルタも同じ。しかし、彼のおかげで病院や学校が建設されたのだから、インドネシア人として生きようとするはずだというのが共通認識だったのだ。
 ここまではインドネシア人の傲慢である。自分たちの利権に固執して、武力で独立の動きを封じ込めようとした一部国軍の行使した暴力にも問題はあった。しかし、彼らが許せなかったのは、ハワード首相が「我々がアメリカに代わってアジア太平洋地域の保安官になるのだ」と東ティモールに軍を送ってきたことだった。これにインドネシア人が切れたのである。
 スハルトが東ティモールを併合したとき、オーストラリアはすぐにこれを認めたのである。なのに、手のひらを返したように、「いい子ぶる」のは許せないというわけだ。
 当時、ニュースに映し出されたオーストラリア国軍の兵士たちの勝ち誇った顔。それは、イラクに乗り込んだアメリカ兵と重なる。中東や東南アジアにいきなりアングロサクソンの兵士が武器を携えてやってくる光景は、植民地時代を思い起こさせるのだ。これが、ASEANの兵士だと、そんなには抵抗がない。この違和感について、欧米諸国はあまりに鈍感である。
 もちろん、地政学的に考えれば、東ティモールの行く末は、オーストラリアにとって深刻な問題だった。大量の難民がでれば、引き受けなければならない。そのくらいのことがわからないインドネシア人ではない。しかし、蓋を開ければ、いまの東ティモールはオーストラリアの植民地状態である。ホテルもレストランも、ほとんどがオーストラリア資本、オーストラリアドルを持たないと入れない。これでは、宗主国がインドネシアからオーストラリアに変わっただけだ。インドネシア人はこの現実を知っている。
 ハワードは野心家だ。彼はなんとかして「アジアのアメリカ」たろうとしている。イラク戦争にもアメリカに全面的に協力した。だから、共和党大会でのブッシュの演説でも、同盟国の中でオーストラリアの名前が最初に読み上げられた。
 しかし、ハワードの野心をよそに、アジアはそれを認めない。もちろん許しがたいアメリカのイラク派兵であったが、百歩譲って、あれだけ国力があれば、誰も文句がいえないという要素がある。戦後の国際社会秩序における貢献度、軍事力、経済力、それに機軸通貨ドルの圧倒的な強さには、どこか諦めももてようというものだ。
 オーストラリアにはそれほどの国力はない。まずは自国の経済力をつけて勝負しろと言いたいのだ。ただ、アメリカの真似をして、アメリカに媚びを売って寄り添って、軍隊だけ送り込んで、はい、アジアの保安官です。こんなやり方は卑怯だとインドネシア人には映るのである。
 くわえて、バリのディスコ爆破事件が火に油を注いだ。多くのオーストラリア人が犠牲になったのだから、彼らが犯人割り出しに躍起になるのは当然だった。だが、遺体を確認する際、白人を優先し、インドネシア人を後回しにした姿を、多くのインドネシアのメディアは目撃している。彼らが潜在的に抱く白人至上主義を、人々は見逃さなかった。
 10月の選挙で、ハワードの敗北を祈るのは、アジアの共通の見解かもしれない。

9月○日 ラミー人形



  迂闊にもラミー人形を買いそびれてしまった。
 ラミー人形を初めて見たのは、昨年の秋のことであった。ワシントンのダレス空港で、箱に入ったGIの人形の隣に置かれていた。
 「ラミー人形」
 まさか、ラムズフェルドの人形が存在するなんてことはないよね。イラク戦争の諸悪の根源の一人なのだから。
 しかし、顔の作りがどう見ても、ラムズフェルドなのである。しかも、ラミーはアメリカでのラムズフェルドの愛称だ。GIと並んで国防長官の人形があっても、おかしくはないけど、なんだかなあ。  その時はあまりのおぞましさに、つい買いそびれてしまった。買うことが恥ずかしいとさえ感じた。いまとなっては、話の種に買っておけば良かったのだが・・・。
 日本なら、悪玉の人形といえば、ニュース番組でキャスター席に並べてあるセットのひとつに存在するのがせいぜいだ。いやあ、待て。イスラーム圏にはオサマ・ビン・ラディンの人形が売られているという。アメリカ人なら、それを見て気色悪いと感じるはずだ。私の反応はそれと同じだったのかもしれない。
 人形が存在するくらいなのだから、ラミーはやっぱり人気者なのである。だが、一体、誰が買うのだろうか。ラミー人気を支えているのは、中年のオバサマたちだと認識していたのに、こんな身長30センチ以上もの大きな人形を買って飾るのだろうか。
 911直後にNYを訪れた時、友人はこう言ったものである。
 「ラムズフェルドってさ、カッコいいと思わない?アメリカの理想的なおじ様っていう感じよね」
 彼女のこのコメントは、周囲のアメリカ人の評価を反映してのものだったらしい。ワシントンに来てから、彼が全米の中年女性の憧れの的であることを知る。
 捕虜収容所における虐待問題が出てきた時でさえ、タクシードライバーはこう語っていた。
 「ラミーがすべて悪いのさ。彼が大統領を動かしていたんだから、もちろん、虐待の話だって全部知ってい るはずだ。でも、そのこととは別に、彼は エレガントなんだよ。アメリカの男性はこうあってほしいというエレガンスを持っている。見てくれだけでなく、話し方もね」
 虐待問題が表面化した裏には、アメリカ軍内部での彼に対する反発が存在する。彼は軍の予算を減らし、改革を進めてきた人物だ。アメリカ軍のアウトソーシングが進んだのも、この改革と無関係ではない。それにより、国軍内の士気が下がったことも事実だし、彼に対する反発が現場で広がっているのも想像の範囲だ。
 しかし、虐待問題が取りざたされてもなお、ブッシュ大統領は彼の首を跳ねなかった。そして彼を支えるようにペンタゴンには指示した。ある国軍関係のセレモニーでラミーが演説をした時には拍手が鳴り止まず、テレビの中継を見ていた私は面食らったものだ。
 これも昨秋のことだが、あるシミュレーション・プラクティスに大統領役でやってきたオルブライト女史が、学生の質問に答えてこう語ったのを思い出す。
 「私が大統領だったら、ラムズフェルドかチェイニーを辞めさせて選挙に臨む」と。
 しかし、結局、ブッシュはそうはしなかった。共和党大会に登場させなかっただけでも、意味があったとしておこう。同時に、パウエルも登場しなかったのだが。
 プリンストン大学時代、レスリング部に所属し、政治に携わってきてからはニクソンに楯突いてNATO大使に送られたこの男は、何度も大統領候補を志し、現在にいたる。

9月○日 共和党大会



  なんともノーテンキに見えるブッシュ大統領だが、実のところ共和党の中は一枚岩ではない。それをまとめあげるのに大きく貢献したのが、チェイニーとシュワルツネッガーだ。
 チェイニーは決して演説の上手な政治家ではない。力強いわけでもない。口が歪んで、見るからに冷たい感じがするのに、なぜ、こんなに共和党員には人気があるのか。
 ワシントンに着いたときから副大統領候補をジュリアーニにすべきだと何度も提案していた私だが、共和党関係者からの答は常にこうだった。
 「それは駄目だよ。チェイニーなしでは、ブッシュは共和党をまとめられないんだから」
 彼が裏の功労者というわけだ。
 ならば、持病の心臓発作で副大統領辞退というのはどうだろう。このシナリオも、しかし見事に打ち砕かれた。心臓発作で入院したある人を見舞った時のことである。
 「手術して機械をつけたんだけどね。これをつけると次に発作が起きても、自動的に電気ショック的マッサ  ージをしてくれて、心臓は止まらないんだ。だから死ぬことは絶対にない。350万円くらいするんだけど、  あのチェイニーも同じ機械をつけているらしいじゃない」
 と彼は不死身になったことを喜んでいた。
 もちろん、私の知り合いが元気でいてくれるのは嬉しい限りだ。しかし、チェイニーが続投ということになると、世界全体が迷惑至極。350万円なんて、彼にとっては、吹けば飛ぶような金額だ。イラクも北朝鮮も気が気ではないだろう。
 一方、俳優のわりにスピーチが上手とは思えないシュワルツネッカーは、今回の共和党大会の演出上、大きな意義があったというべきだろう。共和党員であることを強調し、だったらブッシュを支持しよう的な文言は、分裂傾向にあった共和党をひとつにまとめるのに効を奏した。イデオロギーや政策よりも、ポピュリズムで州知事になってしまったシュワちゃんだからこそ担えた役割だ。
 ワシントンに来てまもなく彼が州知事に選ばれたと記憶している、ワシントンでは
 「彼が当選するようでは世も末だ」
 と多くの人が嘆いた。
 また、小泉人気について聞かれるたび、私なりの分析を披露すると
 「あら、まるでシュワルツネッカーみたいね」
 と関心されたものだ。
 シュワルツネッカーはこうも語った。オーストリア人でありながらアメリカで大成し党大会でスピーチをする。これはまさにアメリカの度量の大きさの象徴である、と。このくだりは、アフリカ出身でハインツの御曹司と結婚してアメリカ国民となり、未亡人となってからもファーストレディになるチャンスを有しているケリー夫人のスピーチを食ってしまった感がある。
 で、肝心のブッシュの演説。あれ?小泉さんの名前はないの?
 おまけに、日本や韓国を差し置いて、あれれ、オーストラリアが同盟国のトップ?
 もっとも、オーストラリアのハワード首相は、東ティモールの独立をかけた国民投票のあたりから、「アジア太平洋のアメリカ」を目指してきた。ここは我らが領域。アメリカに待ったをかけて、同盟国として自分たちがその任を負うというわけだ。アフガニスタンでもイラクでも、名実ともにアメリカ支持のスタンスを貫きつつ、自分たちのアジア太平洋におけるプレゼンスを強調してきたのだから、アメリカからみれば、可愛い子分だ。
 この破格の扱いは、アメリカの配慮なのか、ハワード首相の根回しが効を奏しているのか。同じアングロサクソンの血はシンパシーを呼ぶのであろう。そういえば、東ティモールに乗り込んで勝ち誇ったように戦車から顔を出したオーストラリア軍の兵士と、イラクで銃を持ったアメリカ軍の兵士の顔とは、私たちからみれば同じだった。
 日本も軍隊を持って同様の顔をしようなどとは、どうぞ考えないでいただきたい。どんなに頑張って貢献したところで、所詮、アジア人を仲間とは見なさないのだ。アメリカ社会では黒人より低い。そのことを忘れず、小泉さん、慎重にお願いします。

8月○日 アメリカ幻想の崩壊



 おそらくイラク戦争をきっかけに、アメリカは国際社会からの信頼を喪失した。それまでアメリカに抱いていたイメージの悪化は誰にも食い止められない。アメリカ国内に存在する反ブッシュ感情は、そうした現象に対するブッシュ政権への怒りと、わが子を戦場に送り出している親たちの怒りがない交ぜになっているのである。
 私自身、ワシントンで1年暮らしてみて、アメリカへのイメージを変えざるを得なかった。外交についてだけではない。20年以上前、カリフォルニアの青空の下、UCLAでノーテンキに英語を学んだ時には抱いたアメリカへの印象が音を立てて崩れたのである。日本社会のように否定されることがなく、チャレンジ精神を刺激し、誰もが応援団になってくれる寛大な社会。これが私の得た印象だった。それを規定したのは、LAのホストファミリーであり、UCLAのエクステンションの先生たちであり、このプログラムのために働いていたアメリカ人の先輩たちであった。
 しかし、社会人として実際に肌で感じたアメリカは、十分に閉鎖的だった。なにより大学院のブランドで若者の将来が決定づけられ、結果、アメリカ社会が用意したシステムにうまくビルトインされた人間にはきわめて居心地よく、それがなければカネとコネでのし上がるしかない社会。逆にいえば、お金さえあれば、アフリカ人でもアジア人でも、それなりの教育を受けてアメリカ人として生きていく方法が残されている。だが、貧しければ、一生、皿洗いで終わらなければならない。
 アメリカ的システムに寄り添って出世した人たちには露骨にあることだが、自分たちは正しいと言われないと機嫌が悪い。大学教授、元大使、外交官、官僚といった人種である。自分を称え、媚びる人間は可愛いということだ。これは外交においても同じ。アメリカを尊敬し、感謝し、媚びる国には親切だ。だから、小泉政権は評判がいい。しかし、少なくとも経済力の上では脅威となりうる日本は、民主化途上国ほど可愛くはない。アメリカの方針に逆らえば、とことんそれをつぶしにかかる。
 どの組織も日本よりもはるかに官僚的で融通がきかない。最初にイエスと言ったからといって信じてついていけば、最後にノーと言われて、それまでの努力が水の泡ということはめずらしくない。
 入り口では、にこやかに迎え入れられ、機会均等に見えて、実は持てる者が持たざる者から「剥ぎ取る」アングロサクソン的弱肉強食社会なのである。結果、相手を信用できず、自分を守るために攻撃的にならざるを得ない。一人の人間の性格をゆがめるのに十分な社会である。いい人でいると火傷を負う。常に二重三重のチャンスを張り巡らせ、一方を取り逃がしても、他方を生かすくらいの覚悟がいる。
 これが実はアメリカ社会の本質だったのか、社会が変容した結果アメリカの寛大さが失われつつあるのか―。少なくとも、冷戦終結からアメリカ社会が大きく変容したことは否めない。
 問題は、グローバリゼーションの名の下、そうした価値観を国際社会に普遍化しようとしていることだ。小泉・竹中改革の果ての弱肉強食社会が日本のあるべき姿なのか。さりとてアメリカのパワーに抗する術はなく、その中で日本のとるべき道を早急に模索しないと、取り返しがつかなくなるように感じている。

8月○日 アメリカのセレブ



  「ジョージタウンに来ればね、アメリカのセレブと友達になれると思ったのよ。でも、全然出会わないのよ、どうして?」
 ある時、ルーマニアの女性外交官Nはこうつぶやいたのだった。
 「御曹司ってこと?ワシントンではなくて、ハーバードやイエールに行くんじゃないの? ボストンは若者 の町だし、親元からも隔離されるから、便利なんじゃない?」
 Nはジョージタウンにいる間に30歳になった。どうやら結婚生活はうまくいっていなく、国に帰ると離婚ということになるらしい。そんな含みもあって、白馬の王子との出会いにも期待があったようだ。なにせケリー夫人のように、ハインツの御曹司に見初められたケースもある。彼女の中では、モザンビークよりはルーマニアのエリート外交官だろう、と思っていた風である。
 Nは実に英語が堪能である。ゆっくりと明瞭な発音で、言葉の選び方もアメリカ人好みだ。いや、正しくはアメリカの官僚好みというべきだろう。すなわち、彼女はアメリカ人の自信過剰に対し、決して威信を損ねるような発言をしない。その意味ではきわめて外交官向きである。
 たとえば、ルーマニアの立場について説明をする時、こう表現してみせる。
 「あなたたちのクラブ『NATO』のお仲間に加えていただけたことで・・・」
 こう表現をされた折には、元大使のおじ様方は、(失礼、いまでも大使と呼ばないと機嫌が悪いが)、目を細めて喜んだものである。「アメリカのおかげで我々は幸福になりました」的な表現は、アメリカの外交官がもっとも好む。彼女はそのことを知っているのだ。だから、彼女はその英語力で、アメリカのセレブともお近づきになれば、自分は信頼を勝ち取れると考えるのである。
 さすがに私の年齢では20歳そこそこの御曹司との結婚がありうるわけはなく、そういうまなざしでセレブを探したことはない。だが、会えるものならお会いして、得意のホームステイなどをしながら、しばし観察してみたいところではある。
 この話をアイリーンにしてみた。香港で生まれて6歳からアメリカに住んでいる21歳だ。同世代の彼女は射程内にあるはずである。
 「何もわかっていないのね。セレブのお嬢もお坊ちゃまも、キャンパスには滅多に来ないのよ。来てもすぐ  に帰る。彼らには彼らのサークルがあって、その辺の人とは遊ばないの。ましてやアジアやルーマニアの  女子学生なんて、相手にされるわけがないじゃないの。だいたい、いくつなの?その人は。30歳のオバサンでしょ。そん  な人となんで一緒に過ごさないといけないわけ」
 おっしゃる通りである。私などはお母さんの年齢だ。ま、それでも、お家に招いてくれて、パーティなどを覗かせてくれれば、それも楽しかろうに。
 Nがこう話したことがある。
 「私たちはブッシュ大統領が嫌い。いまの政権も嫌い。でもね、クリントン時代にはかなわなかったことが  ブッシュになって達成できたの。わかる?NATOのメンバー入りよ。この点にだけは感謝しているわ」
 外交上、NATOクラブに入れていただくことまでは現政権の思惑で可能だが、Nがアメリカの社交クラブに入れるかどうかは、彼女個人のラックにかかっていると言わざるをえない。まだ、入り口にも行き着いていないのだから。
 彼女も8月にルーマニアに帰国した。

8月○日 危ない「冬ソナ」現象



 朝、K子から突然電話が入った。
 「昨日から東京にいるのよ、実は・・・」
 で?
 「今日、ランチでもどう?Mにも連絡とりたいんだけど、電子手帳をアメリカにおいてきてさ」
 Mもその日は仕事がオフで、13時から井戸端会議パート2を開いた。
 「どう?久しぶりの日本は・・・」
 「なんだかさあ、アメリカのテレビも公正さを欠いていて問題多いけど、日本のテレビ、どうにかなんない  の?オリンピックばっかりで、見るものないのよね。一回見たらわかるんだから、どこの局でも同じこと  を放送するのは止めて欲しいなあ。他にも語るべきニュースがあるでしょ」
 そうなのである。私も同様のことを感じていた。オリンピックの感動は味わいたいが、朝から晩までプロ野球ニュース状態では息がつまる。先日でかけた秩父の温泉宿でも仲居さんが「どこ回してもオリンピックばーっかりでしょ」と話しかけたのを思い出す。終戦記念日にあたって、どんな特番があるかと期待していたが、このテーマについて考えさせてくれた局はなかった。
 「それとさあ、この『冬ソナ』ブームは何?一回みたけど、どこか面白いか、さっぱりわかんない」
 「私もなの。かったるくってさ。母親の世代が昔の日本を思い出して、はまっているらしいんだけどね」とMも同調した。
 昼ドラの「愛の嵐」やかつての「おしん」に見られるように、自分たちが超えてきた時代設定での苦労話が高視聴率を誇る素地はある。だが、このブームは決してノスタルジーだけではないと私は見ている。どこかで、先進国日本で暮らす人間として余裕、とでもいえばいいだろうか。あるいは、近代化を遂げて、日本が儒教社会の呪縛から解き放たれたことに対する確認作業。それは駐在員の妻としてアジアに滞在したときに私の同世代たちが抱くある種の優越感とも似ている。最初は隣国韓国の生活を覗くくらいの感覚で、見ているうちに同情を覚え、昔の日本社会と重ね合わせ、同時にそこを超えてしまった安心感にも似た優越感に浸る。
 それと、我々3人ともヨン様は好みでないのだ。なんとなく頼りなく、正統派のハンサムに何の魅力も感じない。しかも、私たち3人は、彼が韓国の男性の典型でないことを知っている。
 彼は日本でいうジャニーズ系だ。韓国の若者が皆あんなにナイーブでフェミニストか、といえばさにあらず。あと10年もすれば大量生産されるかもしれないが、いまは我々が目にする俳優とサッカー選手くらいで、実際の韓国の男性は、日本の中高年サラリーマンと似た要素が多いのが実情だ。儒教思想に裏打ちされた男尊女卑的考えが染み付いている分、かつての日本男性よりはるかに女性には辛くあたることを知っておくべきである。趣味もなく、女性を喜ばせる術も知らない。少なくとも、私の知る40代、50代の韓国の男性は皆、女性の心がわからない連中ばかりである。
 日韓の壁がドラマによって取り除かれるのは喜ぶべきことであるが、ヨン様一人がすべてと錯覚するのも危険である。韓国の男性=あんなにナイーブな男性と信じてはいけない。思い出して欲しい。イラクで人質にとられ、泣き叫んで命を落とした人の映像を。ああいう表現の仕方は彼らにとっては非日常ではないのだ。
 ヨン様をきっかけに韓国に興味を抱いたのなら、あらゆる側面から韓国について勉強し、日帝時代の日韓関係を知ってほしいと思う。そして、彼らの中に流れる熱い血、どろどろとした憎しみ、日本に対する複雑な感情について熟考すべきである。
 みかけだけの優しさに翻弄されず、内に秘めた民族の血をしっかりと受け止めるだけの強い女性でいてくれればいいと思う。免疫のない日本人女性が韓国人男性と恋に落ち、ヨン様との落差に、傷が深まらないことを祈るばかりの姉たちである。

8月○日 アンタ、所詮、天下りでしょ!



 今日は私の誕生日だ。大学生のころから誕生日を尋ねられるたび、こう答えてきた。

 「8月10日、八頭身と覚えてくだされば簡単です」

  これを聞いた人のほとんどが苦笑したものである。私の世代では八頭身は美人の条件、希少価値だったからだ。八頭身なんて、いまどきの若者の間では既に死後。こんな受け答えじゃ、「サムッ」と言われて終わりだろう。

  しかし、それ以前に、こういう会話も久しくしていないような気がする。率直に年齢を聞かれるのも困りものだが、誕生日を尋ねられないのも寂しいものだ。こういう何気ない変化が、実はオバサン度を証明しているのだ。誕生日を尋ねあって会話が盛り上がったのは20代の特権だったのかもしれない。

  アメリカでは、誕生石から会話のきっかけが生まれることがある。私が「ペリドット」の指輪をしていると、

  「あなた、8月生まれなのね。何日?」

  と地下鉄で隣り合わせになった人でさえ話しかけてくることはめずらしくない。彼女たちは「ペリドット」が8月の誕生石であることを知っている。それほどに誕生石を身につけることがポピュラーなのだ。

  昔は8月の誕生石は、「めのう」だったと記憶している。少なくとも日本ではそうだった。小学生の時だったか、友人と誕生石の話になり、自分の誕生石が「めのう」という地味な石でがっかりした。輝かしいダイヤモンドや真っ赤なルビーが誕生石という友人を羨ましいと思ったものだ。

  いつ、どのタイミングで「ぺリドット」が浮上したのかは定かではない。どちらも8月の誕生石には違いなく、グローバルマーケットにおけるトレンドとして、「ペリドット」が優勢なのかもしれない。

  私自身は90年代に香港の青空市場で初めて黄緑色の石をみつけ、それが「ぺリドット」とのいう名前だと知った。注意していると、母のジュエリーボックスには存在しなかったこの黄緑色の石は、日本でもファッション誌などを賑わすようになる。しかも、これが8月の誕生石とわかったために一昨年、つい大枚をはたいてフランス製の指輪を購入してしまったのだ。おかげで、それにあわせて、黄緑色の服や小物を買いそろえる羽目になった昨今である。

  さて、誕生日といえば、今年は免許書き換えの節目にあたる。ゴールドメンバーの私は書き換えの頻度が低い。知らない間に手続きをとる場所が内幸町から神田に移っていた。神田にそんなところがあったっけ。ようわからんその場所に、炎天下の中、向かうこととなった。

  受付締め切りの16時5分前にたどりついた私は、額に汗しながら窓口に並ぼうとすると、態度だけ偉そうなオッサンがこう言って私を急かすのだった。

  「いまごろ来たの?時間がないから早く並んで」

 16時が受付締め切りということは、お店でいえばラストオーダーである。それまでに受付を済ませれば、なんの問題もないはずだ。退屈な仕事をさっさと終えて、早く帰りたいという怠惰な心根がみえみえだ。

  所詮、天下りのくせに・・・。そう、彼らは警察からの天下りなのだ。税金で働いているのだから、もっと腰を低くしろッつゥの。

  ここの天下り役人はいくら受け取っているのだろう。公証役場では一日に2人しか人が来ないのに、2千万円も受け取っているのだそうだ。本来、天下り役員は子育ても終わっている年齢だ。退職金も受け取っているのだから、年収は500万円でも十分である。名刺と肩書きがついてまわるのだから、メンツが保たれるだけでも有難いと思うべきだろう。なのに、この怠惰な勤務態度。我々の血税をこんな奴らに2千万円も支払うなんて、とんでもない。義務教育の予算を削る前に、こういうオッサンたちの給与を下げるようじゃないか。

  メディアは天下り役人の給与リストを作って公表すべきだ。そして、怠惰な奴を見かけたら、皆でこう罵声を浴びせよう。

  「あんた、所詮、天下りでしょ!」

  誕生日にこんなに怒っているなんて! 歳を重ねるたびに、社会への怒りが増えるのは私だけだろうか。

8月○日 成田井戸端会議



 1年もワシントンにいたというのに、NY在住の友人に一度も会わずに終わってしまった。

 会おうね会おうねと言いながら、気がついたら私の帰国である。で、お別れの挨拶をしようと電話したら(会っていないのにお別れもないのだが)、彼女も同じ日に帰省するというので、成田で同窓会をすることにした。

 アメリカ便はスーツケースを2個チェックインすることが可能だ。これはファーストでもエコノミーでも関係ない。もしもマイレージのステータスがゴールドなら、たとえエコノミーでも3個まで運んでもらえる。この特権を利用しない手はない。

 69ドルで買ったスーツケースを加えて3つ。チェックインまでは順調だったが、問題は成田に着いてからである。日本の小さな台車に3つ載せれば、さすがにトゥー・マッチ。どうにか重ねてみたものの、前が見えない。それにPCの入ったキャリーバッグもある。

 小さなからだで右往左往。税関の質問に答えていると、

 「トコォ」

 誰かが私の名前を呼んでいる。この呼び方は学生時代の私を知っている人物だ。だが、K子の到着は1時間後。一体、誰?

 振り返れば、K子が手を振っている。

 「派手な服だと思えば、やっぱりトコだった。早く着いちゃったのよ」

 本人にとっては派手というほどでもなく、イッセイミヤケのプリーツ・ワンピースである(プリーツ・プリーズとは違う)。ピンクや抹茶色がほどこされ、いかにもアジア的な色使いなのが目立つだけだ。飛行機の長旅では、プリーツ素材に限る。

 「すごい荷物ね。宅配便で送るの?」

 「もちろん、リムジンで運ぶのよ」

 「そんなに一杯、載せてくれないわよ。一人につきの制限があるんだから」

 ――えぇぇ!そんなぁ。こんな大きいのを送ったら、いくらかかることか。

 思えば、リムジンにはマイレージ制度がない。私が頻繁に乗っているからといって、それを証明する術もない。

 窓口で説得して、どうにか3つ載せてもらうことが決まった。優しいオジサンで良かった。切符にサインをもらって交渉成立。

で、台車にスーツケースを3つ載せた状態で出発ロビーに上がり、スターバックスの前のソファに腰を埋めた。募る話があるはずだったが・・・・

 「今回の党大会、どう見た?在米20年だもんね」

 「ケリーの演説は聞きそびれたのよ。お客さんが来ていたから。でもさ、だからといって、逃して悔しくもない」

 「日本にいたときはブッシュに本当に腹が立ったし、ブッシュ万歳っていうアメリカ人も嫌だったけど、ケリーを見ていると、まだ、あのブッシュのモンチッチ顔のほうが愛嬌あってマシに見えたりするよ」

 「そうなのよ。オツムが空でもさ、なんか憎めないとこがあんのよね」

 「どうせケリーになったって、イラクから引き上げるわけにいかないんだし、経済的には日本に不利だし。ケリーの奥さんもさあ、なんか好きになれないんだけど、どう?」

 「そういう風に言う人多いよ、私の周りでも。なんか下品なのよね」

 「チェイニーと違って、エドワーズはいいんだけどねえ。彼がもう少し早く注目されれば、彼が大統領候補になれたかも。おしかったよね」

 「でも、あの人には次があるからさ。南部出身で貧しさを知ってて。あの人はたしか子どもを事故で亡くしたんだよね。あの爽やかさには好感がもてるなあ。将来が楽しみ」

 「ヒラリーが立っておけば、いまごろ盛り上がって、民主党が勝てたかもね。彼女を嫌いな人が多くてもさ、反ブッシュが彼女を押し上げたよ。演説も力強いし」

 「ほんと。やっぱり、彼女は賢いんだと思う。ちゃんと議員としてやってから、4年後に立つのが賢明だとわかってんのよ」

 「民主党も人材不足。クリントンしかいないことを証明したみたいな党大会だったね」

 「うん、あの人って、なんだかんだって、やっぱりチャーミングだったんだよ」

 「私もアメリカでテレビ見ていて、つくづくそう思った。人の心の掴み方を知っている。あれは天性なんだろうねえ」

 周囲で耳をダンボにしていた人たちは、私たちの会話をどう聞いただろうか。20年続いた夫婦生活にピリオドを打った友人の話を除けば、なんともポリティカルな話題ばかりである。

 アメリカではめずらしくないが、日本の中年女の会話としては異常に響いたに違いない。

7月29日  民主党大会



 どうも私はケリー夫人が好きになれない。

だが、党大会でのスピーチは、彼女にしては上出来だった。いつもの彼女のテレテレしゃべりが、味わい深く聞こえた。いろいろな言語で挨拶をしてみせ(実際、挨拶だけなので、あれなら私にも言えるのだが)、ヒスパニックの共感を得ることに成功した。

 一瞬、彼女の成長に期待した私だったが、しかし翌々日、女性集会にやってきた時、すぐに、それが幻想だとわかった。だらだらと長いだけ。何も心に響かない。CNNのインタビューに答える姿を見たときに感じたとおり、やはり彼女には人をひきつける魅力がない。知性はともかく、心がない。彼女が話すのを聞くたびに、ヒラリーが輝かしく見えてしまうのは、私だけだろうか。

 アフリカのモザンビーク出身の夫人は、ジュネーブで通訳の勉強していたころ、ハインツの御曹司に見初められて結婚。夫が事故にあって未亡人となった。天文学的数字の遺産をうけついだのだという。その後、ケリーと再婚。本来はメディアが飛びつき、ヒロインに仕立て上げるのに好都合のヒストリーの持ち主である。なのに、魅力がない。どこか下品。

アメリカの大金持ちの家に嫁いだのだから、もう少し品があってもいい。あるいは知性が匂ってもいい。逆にギラギラしていて嫌な奴でも不思議ではない。いわゆる日本でイメージする「セレブ」のかけらも感じさせないのだ。着るものも、着こなしも、ドンくさい。

ならば、素朴で温かくて思いやりがあるように映るかというと、さにあらず。本来はプチ整形をしたことを臆面もなく話す性格や人工中絶をしたことを正直に語ることが評価されてしかるべきなのだが、なぜか共感を覚えない。アメリカの金持ちの嫌らしい部分だけが、そこはかとなく匂うのである。つまり、貧しい人を引き受けない何か。自分たちだけ良ければいいという何か。成り上がり的な何か。偽善的な何か。まだ分析しきれていないが、ある種の冷たさが見えてしまうのである。

 くわえて、ケリーの娘たち。こちらはケリーの血統だが、彼女たちにも洗練された感じがない。家族のサポートを演出したいのだろうが、なんとなく若者に媚びる日本の風潮が逆輸入された感じだ。なんだかなあ。夫人のみならず、娘たちも引っ張り出してくる党大会の演出は、必ずしも成功していない気がする。大衆化がどんどん進んで、アメリカ社会がどんどん軽率になっていくのを象徴しているように映る。

 私が最初に党大会を見たのは、NYで開かれた92年の民主党大会だった。私が未熟だったことを差っぴいたとしても、もっと大人の世界が展開していたと記憶している。党大会の演出は、もっとシンプルで、議員たちのスピーチが心に染み入ったものだ。感動のあまり、泣かされたスピーチもあった。 ファイーストレディ候補はといえば、夫婦で女性集会に来ただけで、党大会にまでしゃしゃり出なかったと記憶している。

 最近は、クリントン前大統領を紹介する段階で、すでにヒラリーが登場し、エドワーズの紹介も夫人が行うという、ベタベタぶりである。挙句のはてに、大統領候補の娘たち。演出過多になればなるほど、中身がなく聞こえてしまう。

 とはいえ、エドワーズの爽やかさと、クリントンのスピーチによって、党大会は成功したと言うべきだろう。スピーチの内容は資金集めディナーの時と大差はないが、デリバリはさらに進化されていて説得力があった。

 ブッシュへの嫌悪感とクリントンの遺産に支えられているケリー。万が一政権を奪ったところで、彼が馬脚を現すのは時間の問題のような気がする。

7月17日 エドワーズ指名効果



私がジャカルタにいる間、アメリカのメディアはエドワーズ一色だったという。

 ジョン・エドワーズ。彼は魅力的である。3月の予備選の段階で、私はエドワーズが大統領候補になることをひそかに願った。民主党候補が一同に会してテレビ出演すると、彼の笑顔が眩しくて、アメリカの未来はこういう若者に託したいと感じたものだ。ブッシュ以外なら誰でもいいと考える人々のエナジーは、勝ち馬に乗る形で当時勢いのあったケリーへと傾いてしまったのである。

 1月にケリーが急浮上したときから、ケリーでは民主党は勝てないのではないか、と私はずっと疑問に思っていた。カリスマ性は皆無。演説がつまらない。世界を動かすには、あまりに「おじいさん」である。何度も整形、いやプチ整形を繰り返した顔が痛々しい。どこか誠実さにかける。アメリカの富裕層にしては品がない。

 それに比べてエドワーズは南部出身で、決して裕福な家族の出ではないのに、どこか品格がある。白い歯が眩しく輝く笑顔が爽やかな印象を与えている。本来、アメリカ人とはこうあるべきだ、と誰もが描くハリウッド映画に出てきそうな51歳の善玉系である。

 そうなのだ。ケリーはキャラが立たないのである。悪玉でもいいからキャラが立たないとメディアが取り上げない。日本でいうなら、小泉純一郎、田中真紀子、鈴木宗男といった人物はキャラが立つからテレビが追いかけたのである。

  アメリカで言うなら現大統領のジョージ・ブッシュ。いまや彼を善玉と呼ぶ人はいないだろうが(少なくともアメリカ以外では)、その彼ですら妙な愛嬌があるのだ。「モンチッチ」と私が呼ぶその表情は、アメリカでもモンキーと呼ばれているのだが、そう人が呼ぶ時には、どこか憎めないという響きがある。これが重要なのである。

 そういう意味では、お父さんのほうが魅力はなかったかもしれない。最初はレーガンの影に隠れ、自分が大統領になってからも、卒なくこなしているように見えて、実はブッシュよりも悪玉だった節があり、確信犯である分、大統領以前はロープロファイルにしていたのかもしれない。それがしみついて、大統領になった後でもいまひとつ、魅力が出てこないのかもしれない。

 さて、エドワーズに話を戻そう。彼は子どもを事故で亡くしたという経歴も持つ。その哀しみを乗り越えた人間は強くて深い。若くして親に死なれるのも、伴侶に死なれるのも、兄弟姉妹に死なれるのも、それぞれにトラウマを引きずると思うが、子どもに先立たれるということだけは、誰もが経験できることではない。しかも、まだ10代半ばの息子を事故で亡くしたのである。親にしてみれば、アメリカといえど、まだまだ十分に親の庇護の元にあると考えるものである。病気なら共に闘えるが、事故とあっては、親はどうすることもできまい。

 たとえ今回、彼が副大統領になれなくとも、 4年後はまだ55歳である。おそらく立候補するであろうヒラリー・クリントンと競い合うのは間違いない。ケリーに不満な民主党系の人々の中には、次期はゴアだと言う人が多いが、私はゴアもキャラが立たず、嫌味な部分が鼻について駄目だと見ている。それは92年の時点で私が感じたことであり、唯一、彼から嫌味が消えて輝きを持ったとすれば、2000年の大統領選挙の時であった。最近、アメリカでメディアを通して見ている限りは、太っただけでで、またまた嫌味具合に拍車がかかったと私には映っている。

 ヒラリーを落として大統領候補になるか、あるいはヒラリー政権の副大統領になるのか。

 早くも4年後を考えてしまう私である。

7月14日 家族再会実現の裏側



 9日にジェンキンスさんがインターコンチネンタル・ホテルに入ってきたのを見て、不覚にも涙ぐんだ私であったが、日本では素直に感動できなかった人が多かったと友人がメールに書いてきた。つまり、これは参院選のための小泉の陰謀、いや醜い悪足掻きだというのである。

 ある雑誌の編集部から、この裏話が知りたいというのでジャカルタで、そしてワシントンからも電話取材を続けた。日本では5月22日に再訪朝し、7月になって急に実現したのは参院選で形勢不利だからゴリ押ししたのだというシナリオだと考えており、その裏を取りたいということらしい。

 しかし、現実は日本のマスコミが考えるほど、直前のドタバタではなく、6月初めから着々と準備を進めていたのであった。そして、想定したシナリオでないとすれば、日本のメディアの記事としては魅力がないというので、この話は掲載されなかった。

 現段階でわかったことは次のとおりである。日本政府は北京の北朝鮮大使館と交渉を進めていた。よって再開は北京でというのは自然の流れであったが、曽我さんが強く抵抗したため、ジャカルタでという話になった。

 インドネシアと北朝鮮の親密な関係は、初代大統領スカルノ時代に遡る。彼は欧米の帝国主義に疑問を抱き、第三世界は一致団結して中立主義を歩むべきだと考えていた。そしてインドネシアのバンドゥンで各国のリーダーを集めたアジア・アフリカ会議を開き、欧米から敵視される。その中には周恩来と金日成がいた。西側諸国には共産主義者だというレッテルを貼られがちなスカルノだが、彼の中では第三世界の一員として中国と北朝鮮を位置づけていたのである。

 その10年後、9.30事件というクーデター未遂事件が起き、第二代大統領となるスハルトはその首謀者を共産党とし、党員とそのシンパの大虐殺を行った。結果、中国との縁も切ることになるのだが、なぜか北朝鮮との国交は絶たれることが無かった。あれほど共産主義の色を消してアメリカに追随したスハルトでさえ、90年代には北朝鮮と国際社会のパイプ役を担うべきではないかと考えていた時期があるのだという。

 32年にわたるスハルトの独裁政権が倒れて2年後に政権をとるのがメガワティである。彼女は、第五代大統領に就任した翌年、韓国と北朝鮮を訪問している。南北の架け橋になりたい――。戦略を持たないとされるメガワティの政治家として唯一の執念といってもいいかもしれない。スカルノの長女としてバンドゥン会議で父に同行した金正日に会っているし、彼女自身も父とともに平壌にも行っている。くわえてスカルノは子どもたちの中でもメガワティにはよく北朝鮮の話を聞かせたらしい。しかも来年はアジア・アフリカ会議50周年。これをインドネシアで開こうと着々と準備を進めているのである。

 そこへ舞い込んできたのが、家族再開の場をインドネシアにしたいという日本政府からの申し入れである。彼女がノーと言うはずがない。これで日本にも北朝鮮にも恩を売れるのである。しかも、これがきっかけで日朝関係が改善されるとすれば、ファザコンの娘(アウン・サン・スー・チーほどではない)とすれば、大統領になっただけでなく、国際社会でもスカルノ家の名前を再浮上させられるというものである。

 交渉は6月初め、大使がメガワティの了解を得るのと同時に、日本政府は北京の大使館を通して北への打診を続けていた。そして北京で開かれた6カ国会議で斉木審議官が北朝鮮側と交渉を詰め、その確認を6月末にジャカルタで開かれたASEAN外相会談で外相同士が行うという、まことにラッキーなシナリオが描けたというわけだ。これは日本政府にとって、なんとも好都合であった。本来、出席の必要がない北朝鮮の外務大臣が、メガワティの采配によってASEAN外相会議に出席していたからである。さらには、アメリカからパウエル国務長官が同席したことも日・朝・印尼3国を安心させることとなった。

 それにしても、お見事なのは金正日である。ASEAN外相会議の段階では23日の誕生日前に、とだけ言っていたのに、7月9日、参院選の前々日にぶつけてきたのである。どうせ日本の申し出を受け入れるなら、効果的に、思い切り派手に、小泉に恩をきせてやろう。経済支援を得られるなら、日程を繰り上げるなんてどうということはない。そうほくそえむ金正日の顔が浮かんでしまう。

 そもそも今回の交渉では、総理の野心のせいで日本が大きな借りを作ったと私は考えている。日本のマスコミが描く、参院選に勝ちたい自民党総裁としての悪あがきよりも、対北朝鮮外交における借りのほうが批判されるべきである。

 しかしながら、日朝関係改善が前進したことは評価されるべきである。たとえ、それがメガワティと小泉と金正日の3人の野心の果てに実現した再会だったとしても、である。金正日からみれば、この2人でなくなると、北の窓口がなくなるわけで、少なくともメガワティには暗に選挙に勝って北との親睦をますます深めて欲しいとメッセージを送ったそうだ。さらにアメリカの大統領がケリーに決まってくれれば、と祈っているに違いない。

7月12日 ファーストクラス、その天国と地獄 2



 911以降、アメリカの空港ではいろいろ面倒なことが多い。最初に降り立った都市でイミグレを通らなければならない。一端バゲージクレームでスーツケースを取り上げて、それから国内線でチェックインするのである。

 くわえてLAの空港では、SQとUAのビルが思い切り離れている。中ではつながっておらず、大型バスが行き来する外を歩かねばならない。エンジンの音がうるさい上に空気が悪い。アメリカの空港では、駐車場や近隣のホテルへのシャトルバスだけでなく、次々にレンタカー屋のバスがやってくるのだ。

 ようやくたどり着いたビルはなんとも簡素で、UAのラウンジも最悪だ。PCをつなぐことは「有料で」可能だが、食べものがクラッカーしかない。

 ファーストクラスのラウンジはどこか?と尋ねれば、こんな答が返ってきた。

 「SQがファーストならば、それも可能です。しかし、あなたの場合はビジネスでした。なので、ここしか使えません」

 ひどい。私はファーストクラスのマイレージを費やしたのだ。なのに、SQの飛行機が2クラス性だっただけではないか。しかもUAのマイレージである。ならば、そこを考慮してファーストに移してくれてもいいではないか。私はここに5時間もいないといけないのだから。

 「私も同情します。でも規則ですから」

 アメリカの組織がオープンでフレキシブルだと思うのは間違いである。時として日本よりはるかに官僚的なことはよくある。もっとも、このお兄さんの場合、電話でファーストのラウンジにかけあってくれての結果である。個人的にはいい奴だ。

 「SQのラウンジに行けば、食べ物が豊富にあると思いますけれどね」

 えー?冗談じゃない。また、あのビルまで延々と歩けというのか。それに、イミグレを抜けてからでは、中に入れないだろうに。いい加減なことを言わないでよ。

 しつこい私は、ファーストのラウンジを探し当て、もう一度交渉してみたが、無駄だった。こちらにくれば、アルコールも無料で飲めるし、サンドイッチやチーズ、フルーツがそろっているが、こちらでも規則と断られた。

 ま、いいか。国内線とはいえ、次はファーストだ。そこで何か食べられるであろう。さすがの私もあきらめて、ビジネスのラウンジでPCに向かった。

 ところが、である。この国内線のファーストクラスが地獄だったのだ。

 1Dという最前列の窓際のチケットを持っていた私は、PCと本の入ったキャリーバッグを持っていた。それを見たスチュワデスがすかさず、それを上げろという。しかし、一人で持てる重さではない。なので、一緒に手伝ってもらえませんか、とお願いしたところ、いきなりスチュワデスがこうまくし立てたのである。

 「それは私の仕事ではない。重い荷物を上げて体を壊しても会社は何も保障してくれないのだ。95年以来、組合で一切手伝うなと方針が決まった。誰か乗客の中で手伝ってくれる人をさがしてくれ」

 正確ではないが、こういう趣旨のことを一気に早口にまくし立てたのである。

 「私は上げてくれと押し付けているわけではない。私は背が低いので一人では持ち上げられない。なので、手伝ってとお願いしているだけです」

 「会社が保障してくれないから、仕方ないのよ」

 そこで私はこれ見よがしに隣の席のシートに、カバンを横にして置いておいた。

 すると、そこに50歳くらいの紳士がやってきて、それを上げてくれたのである。お礼を言うと、例のスチュワデスがまたやってきて、前回の何倍ものスピードで、息もつかずに2倍の量を話し続けた。まるで組合のプロテストのようだ。それがひとしきり終わった後、私はこう言い返した。

 「私はゴールドメンバーで、これまでも何度もUAに乗ってきたが、こうして断られたことは一度もない。どの飛行機でもスチュワデスが手伝ってくれた。むしろ先方から積極的にやってきて、あげてくれたくらいだ。組合の規定なら、なぜ彼女たちは手伝ってくれたのか理解できない」

  「手伝ったその人たちは、とても立派で偉いわ。会社が保障してくれないんだから、自分のことは自分で守らないと。私たちは組合でそう決めたの」

 そもそも労働条件が悪いからといって、客に八つ当たりするのは見当違いである。それもエコノミークラスなら、まだ理解ができる。しかし、ここはファーストクラスだ。一般にはいいサービスを受けるため、高い金を払って乗っているのだ。断り方にも礼儀というものがある。このような無礼な態度が許されていいのだろうか。

 やがて飛行機が舞い上がると、寒さに耐えられなくなった。深夜便だから冷えるのだろうか。私は毛布をもう一枚リクエストしようと、スチュワデス呼び出しボタンを押して、しばし待った。あまりに長きにわたり無視されたので、私はアイルに立って彼女たちが油を売っている後部をにらんだ。5分は経過したであろうか。ようやく気づいてやってきたが、それでも「毛布があるかどうかわからない」と言い訳し、機内で使われていない毛布を探し、1枚持ってきた。

 やがて1Aに座っていた男性が事態のひどさに気づいて彼女に忠告した。以来、彼女は私に媚を売り、コーヒーのサービス時には、名前をやたら連呼するようになった。

 トイレに立った時も媚びを売ったので、私はこう話した。

 「UAの経営が大変なのも理解できるし、労働条件がよくないことも想像がつく。でも、ここはファーストクラスでしょ。それなりのサービスを受ける権利はあると思うの」

 「あなたが怒るのももっともよ。私も前は国際線を飛んでいて、東京担当だったの。UAはね、国際線はいいの。でも、国内線はひどいのよ。これが現状。毛布だってね、私は地上スタッフに言ったのよ、もっと必要だって。でも、深夜便だから、これでいいって断られたのよ。これがUAの現状だから、覚えておいたほうがいいわ」

 なんだか妙な話である。深夜便を利用する私が悪いと言わんばかりだ。本来は、「次回もまた、UAをご利用ください」ではないのか。

 モラルの低下は日本だけの問題ではないようだ。

7月11日 ファーストクラス、その天国と地獄 1



  ジャカルタからワシントンへ帰ってきた。せっかくだから、シンガポールからNYへの直行便にトライしてみたかったのだが、6月末に始まったこの便には空席がない。それのみならず、東京―ワシントンも東京―シカゴもマイレージ枠には空席がないのである。唯一存在したチケットは、シンガポールからLAに飛び、国内線でワシントンへというコースであった。これが地獄のチケットだったのである。

 東京からシンガポールに飛んだ時は天国だった。さすがSQのファーストクラスである。やたらだだっ広く、椅子も大きくてクイーンのような気分。アメニティグッズにも少しワクワクさせられた。アイボリーのポーチに入ったブルガリのローション、ぶどう色のジバンシィ製スウェット上下。各航空会社のアメニティの質が下がっている中で、久々のお得感。これらは秀逸だったし、重宝した。

 くわえて食事も贅沢。なんといってもオードブルにキャビアがごっそりとお皿にもられているのを見た時は感激した。ウズベキスタン映画を出品して映画祭に出席するため黒海沿岸アナパに行って以来、キャビアを口にしていない。シャンペンも種類が豊富、ワインも年代物が用意されているではないか。ランチとは思えない豪華さに、眠ることは止めて、ひたすら飲むこととビデオ鑑賞に徹することにした。

 そしてシンガポールでの乗り継ぎ。いつものようにチャンギ空港の本屋で過ごしてもいいのだが、お膝元でのSQのラウンジを試してみたくて、寄ってみることに下。

 がっかりしたのが、ラウンジまでの距離。表示に従って移動していくと、これが複雑怪奇でようわからん。よほど長く時間をつぶす時でないと、本屋でいいか、になってしまう。しかし、ようやくたどり着けば、そこはビジネスとファーストは左右にきっちり差別化されていた。

 驚いたのは、その広さである。乗り継ぎのために空港のホテルで眠ったことは何度かあったが、あの不愉快なホテルで過ごすことを思えば、ここで夜を越したほうが、きっと楽しいに違いない。PCが何台も用意されている上に、読み物も食べ物も豊富である。お国柄とは飛行機でも登場したサテなどのマレー料理と中華の両方がそろっている。エコノミーのミールで我慢していたら、ここでガツガツ食べたに違いない。いや待て。そんな安いチケットで飛ぶ人間には、ここは立ち入り禁止区域である。やっぱり無駄だ。ファーストクラスだからといって一人の人間に限りがある。富める者は食事を捨て、貧しい者は常に飢えているか、まずいミールが相場である。なんだか弱肉強食社会の縮図のようで腹が立つ。それに、私は二度とここに入れないかもしれないのだ。そう思ったら、やっぱり何かを食して帰らないともったいないではないか。機内であんなに食べたのだから、もう入らないはずが、結局、ビールのつまみと称して、あれこれ試食してしまった。この卑しさが私をデブへと導くのである。

こうした夢見心地の体験は、そう簡単にはできないものである。夏休みにさしかかっているのに、ぎりぎりにブッキングした罰。帰りは悲惨な目にあった。

 まずはシンガポール-LA便。SQなのに、これがビジネスなのである。空席がなかったのではない。ファーストクラスを持たない飛行機だったのだ。しかも、そのことをUAの予約センターのオペレーターは告げなかったため、私がこの事実を知ったのは、ジャカルタでカンファームした時である。

 120000マイルも使い果たすというのに、この仕打ちはない。7日に帰るのであれば、東京―ワシントンDC直行便のファーストが押さえられたのだ。しかし、私は飛行機を選ばなかった。むしろジャカルタに少しでも長く滞在することを優先したのである。結果、曽我さんの家族再会の現場に居合わせたのだから、良しとしよう。ここでは、ひたすら眠ることを重視したのだった。

 しかし、本当の地獄は、LAに降り立った後に始まるのである。

7月5日  インドネシア大統領選挙



 久々のジャカルタはめまぐるしく変化している。埃まみれで今にも壊れそうだったぽんこつのタクシーはぴかぴかの新品に替わり、ガラス張りの新しいビルが次々に建てられている。日本の賠償金で建てられたホテル・インドネシアは改装中。プレジデントホテルは日航ホテルに替わり、その裏にはメルセデスのマークを配したドイツ銀行が聳え立つといった具合で、その一角を見るだけでも、アジア経済危機から6年半、インドネシア経済の立ち直りを象徴するかのようだ。

 しかし、裏を返せば、不良債権処理を急ぐあまり、外資にいいように叩かれ、買い占められたということだ。そう思うと、きゅんと胸が痛くなる。いまごろ東京の土地やビルも、同じように欧米人や中国人のものになっているに違いない。

 なにも外資に限らない。インドネシアのお金持ちも経済危機というチャンスをものにした。彼らも企業や不動産を買占め、思いっきり大金持ちになったのだ。そうした富裕層のおかげでメルセデスもBMWも、ジャカルタでは予約待ちだという。まさに竹中改革の果ての日本を見るようだ。つまり、そうしたお金持ちは一握りの人であり、庶民といえば、失業にあえぎ、物価高のジャカルタでは食べるのがやっとである。庶民の味方だったメガワティの人気が落ちたゆえんでもある。

 スハルト政権が崩壊してから6年4ヶ月。史上初めての大統領選挙は今日、投票が終わった。当選が危ぶまれるメガワティとその家族は、南ジャカルタの自宅近くで投票した。4月の総選挙では大統領公邸近くで投票して闘争民主党が大敗した。縁起かつぎのために「民主化のシンボル」時代の自宅に戻り、初心に帰って投票しようというものである。初心とは、庶民の味方だったころ、汚職にまみれたスハルト一族の弾圧に耐えて闘っていたころのことである。

 メガワティは真っ赤な服に身を包んで現れた。赤は闘争民主党のシンボルカラーだ。めずらしく上機嫌で、カメラマンにも笑顔で応えた。そして、スペイン風の大きな白い扇で

 煽りながら、家族の投票が終わるのを待った。

 今回の大統領選挙は特別である。空港では、 25ドルの入国ビザを請求される外国人だけでなく、インドネシア人も長蛇の列を作って待った。最近は仕事で頻繁にインドネシアに来ているらしい、若い日本のビジネスマンに話しかけてみた。

「ここまで混むのはめずらしいですよね。みな選挙で戻ってきたんでしょうね」

「そんなわけないでしょ」

 インドネシアをわかってない若者である。ここは日本とは違うのだ。32年間もスハルトの圧政に苦しみ、大統領も副大統領もすべて国民協議会の中で選ばれてきた。実質、そのメンバーはスハルトが決めていたわけだから、彼の再選は確実だったのだが、その政権が倒れてもなお、大統領は国民協議会の選挙で選ばれ、政党のかけひきで終わったのが1999年秋の出来ごとである。したがって、今回初めて大統領を直接で選べるようになったのだ。この歴史的瞬間にぜひとも投票したい。実際、私の知り合いも何人か帰国している。

 それにしても、面白いのが投票の仕方である。5組の正副大統領候補のバストショットに穴を開けるという方式だ。三方を囲まれた小さな投票デスクには紐でつながったアイスピックが用意されている。それで、候補の写真をブスっと刺すわけだ。日本人の私としては五寸釘を思い出して、何とも奇妙な感じがする。嫌いな候補を刺すならともかく、未来の大統領の写真を刺すのである。総選挙では政党のマークを刺せば済んだが、人の写真であるところが、なんとも寝覚めが悪い。

 それでも、二箇所に穴を開けた人もいたようで、これを無効とするために、開票には予想以上に時間を要するらしい。5年前に比べれば、コンピュータを導入して、はるかに早くわかるようになったものの、外島の状況まで把握するのは簡単な作業ではない。

 今夜の段階では、SBY=スシロ・バンバン・ユドヨノが圧倒的人気を誇るが、50%に満たないので決選投票にもつれこみそうだ。彼が最も新鮮で、汚職のイメージから程遠い。どうやら、そこに賭けた人々が私の周囲にも多いのだが、さりとて、元軍人にゆだねることに抵抗のあるのも事実である。決選投票の相手としてメガワティが残るのか、ウィランが残るのか。その行方を見守りつつ、それぞれの候補の分析と票読みを明日以降に書くことにする。

6月26日 ファーストクラス体験記



 これだけ飛行機で移動していながら、ファーストクラスというものに乗ったことがない。一生乗ることはないだろうと思っていた。しかし、ついにやってきたのである。生まれて初めてのファーストクラス。どんなセレブに出会えることやら。

 事の始まりはこうだ。インドネシア大統領選をカバーするためにジャカルタに行きたい。それにはマイレージを使うのが懸命だ。1ヵ月半前に予約を入れた。これが間違いだった。6月末といえば、アメリカはもう夏休みモードで、マイレージ枠はすべて一杯なのである。しかも先日、息子のマイレージ枠で訪米した父の友人夫婦などは4ヶ月前に予約済み。これでは2ヶ月前でも遅すぎるわけだ。結局、毎日しつこく電話をかけて、ようやく見つけ出したのがファーストでジャカルタに飛ぶというパターン。え?ちょっと勿体無い・・・。長旅だしマイレージを使うのだからビジネスが理想だが、ファーストはちょっとねえ。

 で、その場合は何マイルで乗れるのかしら。ワシントンージャカルタで、なんと120,000マイル。うーん。ビジネスとは 30000マイルの違いだし、ジャカルタまで飛べるのだから、ま、いいか。自分でマイレージを購入したとして、30万円の計算でしょ。ANAの直行便で東京に行き、SQでジャカルタに行くのをエコノミーで買うと、約14万円+約7万円。9万円の差でファーストが体験できるなら、これに越したことはない。思い切って挑戦してみよう。

 とはいえ、締まりやの秋尾のこと、前々日まで予約状態をキープし、なんとかビジネスにスライドしようと毎日のように電話をかけ続けたが、ついにギブアップ。そして初体験へとまっしぐら、となったわけである。

 おまけに8月には正式に帰国するつもりだから、荷物を少しでも多く東京に運んでしまいたい。ファーストなら少々のわがままは許されるはず。アジア中心の地図とバナナの木が描かれた、なんともオリエンタルな味わいのある額を、機内持ち込みで運ぼうという野心満々の私。とってもファーストにふさわしい優雅な乗客モードではない。

 しかも、チェックインは特権階級でも、セキュリティチェックはそうはいかない。PCが2台入ったキャリーバッグの上に、プチプチで包んだ額を載せて、てれんこ、てれんこ。シカゴまでは国内線だから、夏休みモードのダレス空港で長蛇の列に身を任せるはめとなったのである。

 さて、楽しみなのはラウンジだ。当然、ファースト専用の特別室のはず。さんざん日米を往復した私は、チケットはエコノミーでも、スターアライアンスのステイタスはゴールドだ。いつもビジネス客と同じラウンジで過ごす。ところが、このファーストのラウンジ、どう見てもいつもと変わらない空気なのである。ラウンジのサービスもこれといって特別ではなく、フルーツとチーズケーキなど食べ物とお酒のメニューが豊富なくらいだ。それに乗客の面々も同じだ。何一つ特別の空気がない。一抹の不安がよぎる。

 いやいや、きっと国内線の乗客がここにいるのであって、国際線で日本まで飛ぼうというセレブは、ぎりぎりにチェックインして、ラウンジなどに寄らずにシートに座っているに違いない。どんなナイスミドルに会えるのか、それともシルバーグレーの紳士との出会いが待っているのか、それとも若き実業家青年が待ち受けているのだろうか。あの、エマニエル夫人よろしく、艶っぽい出会いがあったらどうしよう。

 例の大きな額をひきずり、やや遅れて席についた私。さりげなく周囲を見渡し、唖然。

 ――ど、こ、が、どこがファーストクラスなの・・・。

 やっぱりラウンジと面子は同じだぁ。欧米人はみな普通のビジネスマン風だし、なんでアンタが、と、日本人4人は似たり寄ったり。つまりはお互いがっかりモードなのである。

 思うに、同乗者は経費で国際移動するビジネスマンでマイレージがたまってアップグレードしているか、私同様、マイレージ枠で探したらファーストしか空きがなかったという人々に違いないのだ。少なくとも日本人4人は後者と見た。だって、生成りのジャケットのお兄さんがラウンジで未開封のカップラーメンを二個、自分のバッグの中に入れるのを、私は目撃してしまったんだもの。どう考えてもファーストの常連客じゃない。

 えーん、セレブはどこにいるんだよぉ。

 気を取り直し、海老のフライにマンゴーソースのかかったオードブルを堪能し、あとは年相応に和食弁当にして、シャンペンだのワインだのを楽しんでみたけれど、なんだかなあ。真横になれるシートで熟睡し、自分で操作できるビデオで映画を鑑賞し、ま、思いがけずキルビルが面白いことを発見できてよかったことくらい。ひっきりなしにお水だのワインだのを注いでくるのが有難いような、常に見張られていて窮屈なような。

 ま、こんなもんです。なんともいえず、私らしい結末。これで50万の差額なら、ビジネスで十分。このことがわかっただけでも良しとしましょう。

6月20日 ジョージ・フォアマン、そしてグリル



 ワシントンに来て間もないころ、食器を買うためにデパートに赴いた。エスカレーターをあがっていくと、そこに積まれたダンボールの箱で微笑んでいる1枚の写真。スキンヘッドの男性はジョージ・フォアマンに似ているけど、まさか――。

 どう見ても、フォアマンである。しかし、ニッと笑うその笑顔が、どうも私の中のイメージと違うのである。彼は渋く戦う人でなければいけない。少なくともNHKのドキュメンタリーを見た人ならそう思うはずだ。沢木耕太郎の書いた(とされる)あの渋いナレーション。あのイメージからは遠すぎる。

 しかも、その箱の中の商品はグリルである。斜めになっていてハンバーグの余分な油が落ち、太らない電気グリルなのだ。その箱の中には、コーヒーメーカーとトースターまで入って29ドル99セントなのである。あまりの安さに私はしり込みをした。フォアマンの笑顔もチープ、3点セットもチープ。このチープには何か裏がある。そう疑って、家に戻った。

 そして3日後、再び出かけてみると、同じ箱が59ドル99で売っているではないか。あれは幻だったのか。なんだか夢から覚めたようなショックに思わず店員に尋ねると「あれは週末セールさ。またやるかもしれないから週末にくれば」とあっさり言われた。ほんとうかな。未練がましく土曜日にでかけてみると、なんと再び29ドル99セントで売られているではないか。しかも、とても肉づきのいい黒人のおばさんが、その商品を買おうとしている。彼女に写真の主を尋ねてみた。

「あら、もちろんフォアマンよ。ほらグリルのチャンプって書いてあるでしょ」

  たしかに、よく見れば、GEORGE  FOREMANと書かれている。この笑顔が情けない気もするが、どうせコーヒーメーカーもトースターも必要だ。3つで3500円なら試してみることにしよう。

 ところが、これが優れものなのである。電気代をどれほど食うのか知らないが、すぐに熱くなってハンバーグがあっという間に出来上がる。一人分のひき肉をラップに包んだものを冷凍庫から出して解凍し、そのラップを広げて玉ねぎ(急ぎのときはフリーズドライのねぎ)とドライにんにくの粒、ハーブ、パン粉、そしてチリパウダーを混ぜてこねたものをフォアマングリルで焼くと、これがいいツマミになり、いいおかずになるというわけだ。しかも簡単にできるので、ペーパーを書きながらでも用意ができる。サラダでも用意すれば食生活は万全だ。お弁当にも楽そうだから、日本で売れば必ずヒットすると思う。

コーヒーメーカーとトースターはおまけみたいなものだから、ま、最低限の機能しかなくてもよしとしよう。とにかく私はこの買い物に、いたって満足だった。

そして、これには続きがある。ひょんなことで知り合ったグリルだから、どれほどメジャーかもわからない。しかし、東京のマツキヨ的ドラッグストアCVSにも置かれ、デパートでも週末ごとにフロアに並ぶこの商品は、一人用から大家族用まで、実に種類が豊富なのである。夜中に放送されるテレビ・ショッピングではフォアマン本人が出てきて商品説明をする始末。どうやら彼は破格の契約金でこの商品に名前を売ったらしい。

商品は一押しだが、この笑顔を見たら失望する日本のファンも多いだろうなあ。いや、もしかして本当にコアなファンは、驚かないのかもしれない。今日はハムをグリルしながら、ふとそう思った。

6月15日 セミとホタル



 ワシントンは自然が豊かなところだ。四季折々の花の変化を見るだけでも楽しく、幸せな気分になるのだが、そこに動物までお目見えするからさらに楽しみが加わるというわけである。アパートメントの合間の芝の上をリスがかけめぐり、すずめに似た鳥が小さな虫をついばみ、最近はリスにまぎれてねずみまで走り回る。大学ではとくに、学生がいなくなるクリスマス休暇や夏休みになると、リスがキャンパスを我が物顔にとびまわる光景がやたら目立つようになる。これだけ身近に存在すれば、ディズニー映画でリスが主役になるのもうなずける。そのイメージからリスは茶色と相場が決まっていると思っていたが、グレーや真っ黒なリスも少なくない。最近は目が肥えてきて、木の幹を駆け下りるリスも発見できるようになった。

すずめらしき鳥が芝の間の虫をついばむ姿も日常の光景だが、先日は少し大きな鳥がある昆虫を食べる姿を目撃した。ジョージタウン大学病院の向かいにあるスターバックスに腰掛けてクリスプ&クリームのドーナツを食べていたときのことである。鶫くらいの大きさだろうか。地面を這っている昆虫をパクっと食べてしまったのだ。

餌食となったのはセミである。セミがアスファルトの上をゆっくりと這っている光景は、決してめずらしくないのだ。

今年はセミが大量発生した年だという。10階のアパートの窓からはすごい勢いで飛ぶ小さな物体が目に入り、よくみると、それはセミで、突然、窓や網戸に小さな茶色の点をみつけると、これがまた、セミなのである。しかもアスファルトの上にも小さな茶色がころがっていて、仰向けになっていれば、それは短い生涯を終えたセミであり、うつ伏せならば、ゆっくりと這い回る死期の近いセミだったりもする。下を見ないで歩けば、必ずや踏んでしまいそうでドキドキする。樹木の下を歩くときは殊に要注意。

その最期にさしかかったセミを、その鳥は食べてしまったのである。人間に踏まれるよりは鳥の餌食になったほうが自然の摂理にあっているのだろう。しかし、子どものころからセミの生涯のはかなさを教えられてきたことを考えると、なんとも悲しい光景だった。

ワシントンでみかけるセミは茶色で、羽が透き通っている。子どものころに図鑑でみたニイニイゼミが近い印象だ。養老孟司先生に聞けば名前を教えてもらえるのかもしれないが、小ぶりで羽の透き通ったセミにははかなさが加わるというものである。

しかし、その声の印象がない。東京ではセミがけたたましく鳴くのを耳にしたら晩夏という印象がある。自分の生きた証を示すかのようにセミが鳴き始め、その声がピークに達したころ、空を見上げると、ずっと高く上のほうにあったりする。だが、これだけ死骸をみつけるというのに、その声が記憶にないのである。

 この前の日曜日の夜、図書館にこもって資料を読み込み、本数の少ないバスをベンチで待っていたときのことである。目の前を小さな光が通り過ぎた。かなり強い光で、小さなフラッシュを見てしまったような感じだった。まさか――。

その光は左に行ったかと思うと、次は右。ものすごい勢いで移動している。

 ホタルである。たった一匹のホタルがすいすいとワシントンの空気を自在に泳いでいるというわけだ。恥ずかしながらホタルといえば、東京にあるホテル椿山荘のホタル祭しか記憶にない。もっと幼いころ、祖母に連れられ岐阜の川べりあたりで見たことがあったのかもしれない。その貧しい体験から、ホタルは一匹ということはなく、数匹まとめて行動すると思っていたのだ。しかも、もっと緩やかな光を放っていたと記憶している。ところが、私が見たホタルは一匹である。なのに、何匹もいるような錯覚に陥るほど、縦横微塵に飛び回る。その光の強さとスピードのすごさ。

 やがて闇に目が慣れてくると、ホタルが必死で羽を動かしているのがみえる。ものすごい回数である。ふわふわと、いかにも身軽に飛んでいるように見えて、実は必死で羽を動かしている。その生命力には思わず拍手を送りたくなる。

 地球儀片手に世界秩序を考え、自分たちが正しいと信じて世界を振り回し続ける人々が集うワシントン。私がこの街を結構気に入っているのは、こうした自然との出会いがあるからである。

6月11日 大統領レーガン追悼の日



 今日は朝から元大統領レーガンの国葬がテレビ中継されている。二晩議事堂に安置された遺体に別れを告げる国民は20万人だったといわれる。せっかくワシントンにいるのだから行ってみようと思いつつ、最初の晩は私が体調を崩し、翌晩は一緒に行こうと約束した21歳のアイリーンが頭痛であきらめた。

 指導者にはオーラが必要だといわれる。しかし、そのオーラにも「陽」と「陰」があるのだと、元大統領の追悼番組を見ながら改めて考えた。彼はまさに「陽」のオーラを持ち合わせた大統領だったのだ。

 彼の映像が次々流されるのを見ながら、なんだか日本人の私まで元気になってしまった。彼の政策に賛成できるかどうかの問題ではない。彼の存在そのものがハリウッド映画的であり、ディズニーアニメ的なのである。同時にそれは、80年代という時代の空気そのものでもあった。

 80年代といえば、私たち日本人がまだ、アメリカの価値を信じることができた時代だ。

自由の国アメリカの星条旗はそれなりに眩しく、コカコーラやペプシコーラ、マクドナルドやケンタッキーが色あせることもなく、リーバイスのジーンズ、バドワイザーのロゴ、アメリカの音楽やハリウッド映画は日本の若者を魅了するのに十分な輝きを放っていた。CNNやMTVを通してアメリカ文化を吸収するのに必死になったものだ。プラザ合意の本当の意味などわかるはずもなく、ひたすら円高に沸き踊り、企業が海外進出を果たし、アメリカを買いあさったのもこのころだった。

 この数日間のメディアを通しての盛り上がりを見ながら、アメリカ人は、少なくともアメリカのメディアは古き良き時代を懐かしんでいるのだと思った。レーガンの持ち前の明るさに加えて、共産主義というわかりやすい敵が存在したことで、アメリカは善になりきれた。正義という言葉が真実味を帯びることができた。彼は強いアメリカを訴えてアメリカ人を元気にすることが可能だったのだ。カーター氏が暗かっただけに、その落差たるや半端ではなかった。国葬に列席した元首相サッチャーに象徴されるイギリスもその点では同じだ。イギリスとアメリカの正義が国際社会の中で通った時代である。

 弔辞はサッチャーに生前から依頼されており、医師から公の場でのスピーチを禁じられた彼女は、ビデオにそれを収めて会場で流した。葬儀の演出については、カメラアングルにいたるまで本人の遺言としてあったのだという。実際には夫人ナンシーが決めていたのだろうとは誰もが考えることだ。82歳のナンシーは痛々しく、しかし、ファーストレディーとして立派に最後の勤めを果たした。弔問客が次々に挨拶にやってきて、それがまた、アメリカの理想の夫婦像を演出するのに役立った。もしも元大統領夫がアルツハイマーのまま、夫人が先立つような事態が起きていたら、国葬はどうなったのだろう。どう見ても子供たちではその任を果たしきれそうにない。その意味でも、レーガン元大統領は、愛される大統領として華々しい最後を飾る運命の下にあったのだとつくづく思った。

 「鉄の女」サッチャーは黒い帽子の下にメガネをかけ、終始うつむき加減だった。隣に座った旧ソビエト大統領ゴルバチョフも日本の元首相中曽根も、引退後、それぞれに老いを重ねていた。この3人が映し出されるたび、ひとつの時代が確実に終わり、世界の歴史地図が変わっていくのだと思い知らされた。彼らの頭を何が駆け巡ったのであろうか。自分たちの華々しい功績だろうか。冷戦終結後の混乱した世界を憂いているのだろうか。それとも俗っぽく、自分たちの葬儀のあり方であろうか。

 警戒されたテロが起きることもなく、国立聖堂で行われた告別式は、小雨の中、厳かに幕を閉じた。