5月6日 アフガンの医者

 同じプログラムにアフガニスタンから医者が参加していた。この彼が不思議な存在だった。ホームシックといえばいいのか、アメリカ嫌いといえばいいのか、ほとんど誰とも口を利かず、毎日アパートにこもったまま、自分のオブリゲーションが終わるとすぐに帰国してしまった。誰の目にも「不可解なアフガン人」と印象だけが残った。

オサマ・ビン・ラディンを見てもわかるように、アフガン人たちは男女を問わず美しく、実年齢よりも上に見える。彼も軽く30代半ばに見えていたのだが、実は29才だった。だったらいいとは思えないのだが、彼の行動は結果的に、すいぶん子供っぽかったのは事実だ。ルーマニアの同僚も、アメリカの仲間も、彼は医者だからエリートで大人のはずだと思ったらしい。職業柄、医者が成熟しているというのはまったくの幻想で、それは日本をみれば明らかである。50代以上のことはわからないが、40代以下だったら、まず医者は社会性がない。医学部に入る前に受験勉強に追われ、入ってからも実験につぐ実験である。そうした彼らが患者と向き合うために必要な人間性をどう養えばいいのか。患者の命をあずかる身である医者を人間として豊かにするにはどうしたらいいか。それを目指して日本では医学教育改革が行われたほど、日本では事態が深刻だった。

かの地ではホームステイの経験がないので詳しいことはわからないが、アフガニスタンのような部族社会では、長男だと、それだけでものすごく大切にされるのだと思う。何をやっても彼が一番という家族関係なのではないかと推察する。しかも医者であり、流暢な英語を操る彼は、かなり地位の高い家族の出のはずだ。救急病院で働きながら、彼はありとあらゆる分野を任されていたという。その分、自負も強い。

そんな彼がアメリカにやってきたら、ただの人になってしまった。彼が主役という流れにはならない。それも居心地が悪かったのだろう。とにかくアメリカ人が嫌いで、ストレスからか、救急病院に運ばれていた。

女子大生が肌を露にするのも耐えられなかったらしい。ジョージタウン大学の卒業生であるクリントンの肖像画を見て「彼は嫌いだ。悪い奴だ」とつぶやいていた。その理由は「モニカと変な関係になったからだ」という。

彼の人の評価は独特だ。一番のお気に入りは、ロシア人元外国官だった。リタイアしているくらいだから、もうそれなりのお年だが、彼は最初にアフガンの医者のところにやってきて、こう言ったという。「本当に申し訳ない。私の国がしたことを許してほしい」。以来、彼の中でそのロシア人はとてもいい人となった。

その彼がいよいよ帰国するというので、我が家で小さな食事会を開いた。帰国の1ヶ月前から急に元気で明るい人格に変わった彼は、アメリカ人抜きのその会で、初めて祖国について語った。私が知りたかったのは、彼がタリバンについてどう考えているかだった。

彼はオサマ・ビン・ラディンには2回会ったそうだ。といっても、じっくり話をしたわけではない。とてもカリスマ性があり、いい人という印象だったという。またタリバンから解放されたのはうれしかったが、北部同盟はタリバンよりも残忍で嫌いだ。北部同盟は何でも奪った。美しい妻がいれば奪い去り、すばらしい家があれば略奪した。少なくともタリバンは、略奪はしなかったのだそうだ。

――どうして彼はこの話をアメリカ人にしなかったのか。

実はこうした話は日本人ジャーナリストには知られていたが、ワシントンでは誰に話しても信じてもらえなかった。タリバンは悪者。アフガン人の自由を奪う野蛮人。そこから解放したアメリカは正しい。政府やメディアにこう刷り込まれた彼らの考えを否定するつもりはない。しかし、北部同盟はもっとひどかったという事実をも、アメリカの人々は理解すべきだ。タリバンを取り除けば終了ではなく、複眼的なまなざしを持ってアフガンの復興に取り組んでいれば、治安維持がいかに難しいか想像できたはずだ。

だが、当事者である彼が沈黙する限り、アメリカには何も伝わらない。せっかくのチャンスだったのに、実にもったいない話である。