7月17日 エドワーズ指名効果

私がジャカルタにいる間、アメリカのメディアはエドワーズ一色だったという。

 ジョン・エドワーズ。彼は魅力的である。3月の予備選の段階で、私はエドワーズが大統領候補になることをひそかに願った。民主党候補が一同に会してテレビ出演すると、彼の笑顔が眩しくて、アメリカの未来はこういう若者に託したいと感じたものだ。ブッシュ以外なら誰でもいいと考える人々のエナジーは、勝ち馬に乗る形で当時勢いのあったケリーへと傾いてしまったのである。

 1月にケリーが急浮上したときから、ケリーでは民主党は勝てないのではないか、と私はずっと疑問に思っていた。カリスマ性は皆無。演説がつまらない。世界を動かすには、あまりに「おじいさん」である。何度も整形、いやプチ整形を繰り返した顔が痛々しい。どこか誠実さにかける。アメリカの富裕層にしては品がない。

 それに比べてエドワーズは南部出身で、決して裕福な家族の出ではないのに、どこか品格がある。白い歯が眩しく輝く笑顔が爽やかな印象を与えている。本来、アメリカ人とはこうあるべきだ、と誰もが描くハリウッド映画に出てきそうな51歳の善玉系である。

 そうなのだ。ケリーはキャラが立たないのである。悪玉でもいいからキャラが立たないとメディアが取り上げない。日本でいうなら、小泉純一郎、田中真紀子、鈴木宗男といった人物はキャラが立つからテレビが追いかけたのである。

  アメリカで言うなら現大統領のジョージ・ブッシュ。いまや彼を善玉と呼ぶ人はいないだろうが(少なくともアメリカ以外では)、その彼ですら妙な愛嬌があるのだ。「モンチッチ」と私が呼ぶその表情は、アメリカでもモンキーと呼ばれているのだが、そう人が呼ぶ時には、どこか憎めないという響きがある。これが重要なのである。

 そういう意味では、お父さんのほうが魅力はなかったかもしれない。最初はレーガンの影に隠れ、自分が大統領になってからも、卒なくこなしているように見えて、実はブッシュよりも悪玉だった節があり、確信犯である分、大統領以前はロープロファイルにしていたのかもしれない。それがしみついて、大統領になった後でもいまひとつ、魅力が出てこないのかもしれない。

 さて、エドワーズに話を戻そう。彼は子どもを事故で亡くしたという経歴も持つ。その哀しみを乗り越えた人間は強くて深い。若くして親に死なれるのも、伴侶に死なれるのも、兄弟姉妹に死なれるのも、それぞれにトラウマを引きずると思うが、子どもに先立たれるということだけは、誰もが経験できることではない。しかも、まだ10代半ばの息子を事故で亡くしたのである。親にしてみれば、アメリカといえど、まだまだ十分に親の庇護の元にあると考えるものである。病気なら共に闘えるが、事故とあっては、親はどうすることもできまい。

 たとえ今回、彼が副大統領になれなくとも、 4年後はまだ55歳である。おそらく立候補するであろうヒラリー・クリントンと競い合うのは間違いない。ケリーに不満な民主党系の人々の中には、次期はゴアだと言う人が多いが、私はゴアもキャラが立たず、嫌味な部分が鼻について駄目だと見ている。それは92年の時点で私が感じたことであり、唯一、彼から嫌味が消えて輝きを持ったとすれば、2000年の大統領選挙の時であった。最近、アメリカでメディアを通して見ている限りは、太っただけでで、またまた嫌味具合に拍車がかかったと私には映っている。

 ヒラリーを落として大統領候補になるか、あるいはヒラリー政権の副大統領になるのか。

 早くも4年後を考えてしまう私である。