8月○日 アメリカ幻想の崩壊

 おそらくイラク戦争をきっかけに、アメリカは国際社会からの信頼を喪失した。それまでアメリカに抱いていたイメージの悪化は誰にも食い止められない。アメリカ国内に存在する反ブッシュ感情は、そうした現象に対するブッシュ政権への怒りと、わが子を戦場に送り出している親たちの怒りがない交ぜになっているのである。
 私自身、ワシントンで1年暮らしてみて、アメリカへのイメージを変えざるを得なかった。外交についてだけではない。20年以上前、カリフォルニアの青空の下、UCLAでノーテンキに英語を学んだ時には抱いたアメリカへの印象が音を立てて崩れたのである。日本社会のように否定されることがなく、チャレンジ精神を刺激し、誰もが応援団になってくれる寛大な社会。これが私の得た印象だった。それを規定したのは、LAのホストファミリーであり、UCLAのエクステンションの先生たちであり、このプログラムのために働いていたアメリカ人の先輩たちであった。
 しかし、社会人として実際に肌で感じたアメリカは、十分に閉鎖的だった。なにより大学院のブランドで若者の将来が決定づけられ、結果、アメリカ社会が用意したシステムにうまくビルトインされた人間にはきわめて居心地よく、それがなければカネとコネでのし上がるしかない社会。逆にいえば、お金さえあれば、アフリカ人でもアジア人でも、それなりの教育を受けてアメリカ人として生きていく方法が残されている。だが、貧しければ、一生、皿洗いで終わらなければならない。
 アメリカ的システムに寄り添って出世した人たちには露骨にあることだが、自分たちは正しいと言われないと機嫌が悪い。大学教授、元大使、外交官、官僚といった人種である。自分を称え、媚びる人間は可愛いということだ。これは外交においても同じ。アメリカを尊敬し、感謝し、媚びる国には親切だ。だから、小泉政権は評判がいい。しかし、少なくとも経済力の上では脅威となりうる日本は、民主化途上国ほど可愛くはない。アメリカの方針に逆らえば、とことんそれをつぶしにかかる。
 どの組織も日本よりもはるかに官僚的で融通がきかない。最初にイエスと言ったからといって信じてついていけば、最後にノーと言われて、それまでの努力が水の泡ということはめずらしくない。
 入り口では、にこやかに迎え入れられ、機会均等に見えて、実は持てる者が持たざる者から「剥ぎ取る」アングロサクソン的弱肉強食社会なのである。結果、相手を信用できず、自分を守るために攻撃的にならざるを得ない。一人の人間の性格をゆがめるのに十分な社会である。いい人でいると火傷を負う。常に二重三重のチャンスを張り巡らせ、一方を取り逃がしても、他方を生かすくらいの覚悟がいる。
 これが実はアメリカ社会の本質だったのか、社会が変容した結果アメリカの寛大さが失われつつあるのか―。少なくとも、冷戦終結からアメリカ社会が大きく変容したことは否めない。
 問題は、グローバリゼーションの名の下、そうした価値観を国際社会に普遍化しようとしていることだ。小泉・竹中改革の果ての弱肉強食社会が日本のあるべき姿なのか。さりとてアメリカのパワーに抗する術はなく、その中で日本のとるべき道を早急に模索しないと、取り返しがつかなくなるように感じている。