震災から1ヶ月

「戦時体制と同じじゃない」

震災の翌日だった、友人がそうつぶやいたのは。実家の近くで小学生が防災頭巾をかぶっているのを見て、そう感じたというのだ。

やっぱり来たんだ。巷で言われるように、地球に大変動が起きるという説が、いよいよ始まったのだ。そして、それが人類にとって大きな試練になることも、どうやら現実になるらしい。

しかし、なぜ日本が最初なんだろう。それが私たちの最初の疑問点だった。ほかの国の事例がないまま、日本人の力量が試されることになった。よりによって、民主党政権の折に。

友人の直感は当たった。二転三転する計画停電や日々報じられる放射能の数値に振り回され自粛しながら、爆発しないとも限らない原発の恐怖に怯えるなんて、65年前と同じではないか。サイレンのたびに防空壕に入り、大本営の発表を疑いながら耳を貸していたあのころ。テレビや携帯の地震予報のたびに身構え、東電や保安院の発表する数値に怯え、政府の発表を疑いながら、水や食糧の備蓄に備えている私たちの日々は、当時の日本と変わらない。

原発をもつことは、戦争を始めることと同じなのだ。なのに、破損して「見えない敵」と化した原発と戦えるだけの武器も作戦も持たずに半世紀も過ごしたことに、呆れ返るばかりだ。せめて無人で操作ができるロボットくらいは開発されているものだと思っていた。

私は戦争には反対である。原発にもアレルギーがあった。同じ匂いがしたからだろう。問題は、具体的にどう危険で、それが戦争に匹敵するものであることを、私は具体的に調べて反対しなかったことである。チェルノブイリもスリーマイルも、対岸の火事で見過ごしてきた。福島とどこが同じで、どこが違うのか、あわてて調べ始めている自分も罪人の一人ではある。

もしも私たちにチャンスがあるとすれば、発想の転換しかない。これまでとは全く違うシステムを構築することだ。大自然に対して、謙虚な生き方。この2年、経済が落ち込んでも、その先に人々を幸せにする生き方。それをどうみつけるかである。一瞬、不安になるかもしれないが、これから地球全体が天変地異にもだえ苦しむのだから、日本が先に新しい生き方を提示すればいい。そこに気づくことが求められている。