2003年8月9日

京都薬剤師会のお招きで、京都に講演にでかけた。文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議の委員でいらっしゃる京都大学の乾先生のお声がけで、日ごろ会議で発言していることなど、薬剤師の方々に発破をかけ、エールを送るのが目的だ。

 夕方からの講演会だったので、その夜は宿泊することになっていた。会場の隣にあるホテル・グランビアに 5時にチェックインという予定だったが、台風による新幹線の遅れが心配されたので、少し早めに到着した。

 で、レセプションでの出来事である。頂いた書類に「秋尾沙戸子さまのお名前で予約を入れていますので、その旨受付にお申し出ください」と書かれていたので、その旨を訊ねると、名前がないのだという。あれこれ探して貰っても駄目。そこで書類に書かれていた番号や乾先生の番号、講演会会場などに電話してもらったが、どこも誰も出ない。実は他のホテルの間違いだろうか。私の後ろには何人も列を作って待っているのに、そんな作業で20分が過ぎた。時間通りに5時に来ていたら、さぞかし苛ついたに違いない。

 結局、名前はみつからないが、勝手にチェックインしてしまうことにした。本当にこのホテルでよかったのかどうか確かめるべく携帯で電話をかけ続けていると、部屋に着いてすぐ電話が鳴った。

「申し訳ございません。こちらの手違いで秋尾さまのお名前がありました」

「どういうことですか」

「秋尾様が青木様で入っておりました」

私の名前がアオキと聞き違いされることはよくあることだ。しかし、JR西日本経営の、京都駅に聳える一流ホテルがどうしてそれをみつけられないのだろうか。ましてや京都は観光地だ。もてなしの心が生きているはずの京都で、この扱いはひどすぎる。海外からの客の場合、名前と苗字が反対に登録されることもある。アキオでみつけられなければ、サトコで検索するのはレセプショニストとしては常識ではないのだろうか。だんだん腹が経ってきた。私の貴重な20分を返して欲しい。海外ならすぐにグラスシャンパンでも持って謝りに来るのに。

「どうしてこういうことが起きるのでしょうか。お宅では名前で検索する教育はしていないのですか」

 電話口に出たレセプションの責任者に私は続けてこう尋ねた。

「経営はどちらでしたっけ」

しばらくして、レセプションの責任者がドアをノックした。

「申し訳ございません。このフロアのもう少し広いお部屋をご用意しまいしたので、よろしければ、そちらにお移りください」

 これは意外な展開だった。ホテルはサービス業だ。クレームをつけることは私にとって世直しの一環。不手際の原因を突き止め反省してくれれば、それで私は満足なのだ。しかし、少し広めのお部屋がどんなものか興味があったので、その申し出を受けることにした。

 なるほど、いきなり部屋の数がひとつ増え、数もワンランクアップ。バスルームの窓から空が見える。ちょっと得した気分である。

 講演の冒頭で私はこの話をした。病院の中でも同様に、もうひとつ機転を利かせれば、もうひとつ違う角度からチェックをすれば、事故を防げたのに。これまでの医療過誤でもそういうケースは多々あったはずだからだ。

 会場に集まった薬剤師の方々は、非常に熱心に話を聞いてくださった。ただ、もったいないのは彼らの熱意が世間一般に伝わっていないことだ。調剤薬局はともかく、病院では薬剤師の顔が見えにくい。ようやく病院によっては病棟薬剤師として病室の患者と薬剤師が向き合う試みがなされるようになったが、入院経験がないとその努力が伝わらないのがもったいないと思う。

 講演会の後に一部の方々とお食事をした。ベテランの女性薬剤師2人がそろって口にしたのは、処方箋をみると開業医の力量がわかるのだという。これこそ医薬分業の妙だろう。医師免許をとって、以後ろくに勉強もせず、のんびり開業をしている医師へのいい刺激になる。

 部屋に戻って、お風呂に入った。そこからは向かいのビルの屋上しか見えない。京都の町はフラットだ。高層ビルは滅多にない。そんな中で町の薬局の姿も目立つ。夜遅くまで明るすぎるほどの灯りを放つドラッグストアとコンビニに占拠された街とはわけが違う。

コツコツと一人一人の営みが生かされる町でもある。サービス業としてはあるまじき失態を演じた大きなホテルでさえ、申し入れれば対応し改善できる余裕がある。日ごろの乾先生のお言葉どおり、京都の薬剤師会から日本の薬剤師の意識を変えるということは、あながち夢でもないなあ。窓からネオンの少ない夜空を見ながら、ふとそう思った。

2003年7月24日

小さな引越し

突然、家具を移動しようと思い立った。

いまのところに移ってから6年。この間に修士論文を書いて本を書いて、気づいたら本と資料の中に埋もれてしまった。もとより衣裳部屋はクリーニング屋さんのように服が詰まっている。しかし、仕事場とリビングは当初、整然としてたが、いまや寝室にまで文献資料があふれているのである。

かくなる上は、引越しモードにして、強引に片付けるように自分を追い込もうではないか。どうせなら、運気があがるレイアウトにしよう。

実はここに引っ越すときもコパの本を熟読した。いや、読み比べたのである。彼は著書によって言っていることが微妙にずれる。最大公約数的に、彼の説に従わねばならない。

西南にあったピアノを東南に動かし、東南にあったサイドボードを西に置いて窓をふさぐことにした。だが、トラックの必要な引越しとはわけが違う。家具の移動だけだ。とはいえ、ピアノの運搬となると、然るべき業者にお願いせねばなるまい。

日ごろ、ポストに入っているチラシに片っ端から電話した。1日に4軒、見積もりをとってもらったが、各社個性があって面白い。3万円から14万円まで。先方が提示した値段はいろいろだった。ピアノも含めて3万円は胡散臭いが、10万円は取りすぎである。ここへ移ったとき、お任せパックとトラックの輸送費、2日間の人件費を合わせても18万円だったのだ。せいぜい7万円台が妥当だろう。

面白いのは、見積もりを取りに来た人が即決で答えを欲しがることだ。気持ちはわかるが、朝一に来たところが3万円だから具合が悪い。思いきり無理をして8万円弱と言われても、やはり3万円には未練が残る。それに、せっかく4社のアポ入れをしたのだから、すべての対応を比べてみないと、決められないではないか。

最後にやってきたところは、やはり8万弱を提示した。一瞬、そこに惹かれた。見積もりに来た人のキャラが明るく、分りやすかったからだ。しかも彼が正直だと思われたのは、「これだけ荷物が多いのだから、時給で計算しませんか」と提案したことだ。しかも彼は当日自らが来て陣頭指揮をとるのだという。事前に段取りをシミュレーションした上にこの提案だから、説得力がある。

それにしても気になるのは3万円だ。そういう業者がいるのに、2倍半かける気には人間なれないものである。再度電話で確かめて、本当に可能かを確かめて、結局、そこにお願いすることにした。

驚いたのは当日、大の大人が4人も来たことだった。お任せパックで引っ越したのは過去に2回。一度は手馴れた主婦が食器などを梱包した。二度目は茶髪の若い男女が梱包を担当した。50前後の男性が4人、一度期にやってくるとは想像だにしていなかったのだ。しかも、ため息ばかりつくうるさ型も一人いたが、なんだか皆いい人たちで、下町で近所のおっちゃんたちに助けられているような錯覚を覚えた。

なにせ我が家は物が多い。家具を移動させるには、まず床に積んであった本と雑誌をダンボールに入れて外に出さねばならない。ピアノの移動もシャーリングの布を使って床に傷つけることなくずらしてくれた。いやあ、お見事。子供のころにピアノの運送というと、肩にかつぐものと相場が決まっていた。あれでは腰を痛めるだろうなあ、といつも眺めていたものだが、いやあ、お見事。ピアノを動かした段階で、2人は別のクラインアントにシフトし、残った二人がダンボールを部屋に運んで積み上げてくれた。

終わったころには、へとへと。アミノ酸の取材でお試しモードの私は「アミノバイタル」プロを飲んで引越しに臨んだから、屈伸運動の後にもかかわらず、筋肉疲労は一切なし。だが、神経がくたびれているのだ。何をどこにどう効率よく入れて運ぶか。その集中力、瞬発力は、半端ではない。骨の髄まで疲れている。もう頭がまわらない。

寝室のベッドの上に臨時に置いたグラスが残っているけれど、これは明日にまわしてもいいかしらん。

リビングの床にふとんを敷いて、どっ。なだれ込むように眠った。

2003年7月8日

日本一の米作り職人

7日から活性酸素消去米の取材で昨日から仙台に行ってきた。そのプロジェクトの一人、石井さんの田んぼも拝見させていただいた。

世界各地で畑や田んぼを訪れ、その風景にある種の郷愁を抱いてきた私だが、この年齢になって日本の農家を訪れると感動を覚える。これこそ日本の原風景だと思えるからだ。

みずみずしい緑の田んぼに、白い鷺が降り立った姿は実にすばらしい。しかし、鷺はどこにでも宿るわけではない。石井さんのところのように、無農薬で稲を育て、微生物が存在する田んぼにしかやってこないのである。

石井さんの作る米が他を圧倒する理由のひとつは、田植えの時期にある。他より一ヶ月ほど遅いのである。いや、正しくは他が一ヶ月早めてやっつけ仕事にしているのだ。いまや大半の農家は米作りだけではやってゆけない。そこで勤め人となり、その間に田植えを行う。つまり、ゴールデンウィークに終えてしまうというわけだ。

そうした田んぼは全面が緑である。ところ狭しと葉が生い茂っているのだ。そうなると、葉が養分を吸い上げ、化学肥料を与えざるを得ない。しかも稲の穂に栄養分がいかなくなる。

それに比べて、石井さんの田んぼの稲はまばらに映る。葉が少ない。しかも水面は藻の緑に覆われている。こういう稲こそ、おいしい米を育むのである。

毎年、金賞に輝く米作り日本一の石井さんの作る米は、低蛋白米だ。正確には、低蛋白米を作ろうとしたのではなく、発酵米糠でおいしい米作りを追求した結果、低蛋白米ができたというのが正解である。

その石井さんが今年から活性酸素消去農法を取り入れることになった。こちらも無農薬で低蛋白米だが、1年経っても味が落ちないのが特徴だ。つまり、一年中「新米」で、老化現象が起きないというわけだ。

活性酸素消去農法で育てた作物は簡単に「錆びない」。たとえば、石井さんが育てている韮。畑から葉をちぎって食べていると、あまくてびっくりする。刈り取った後も、普通の韮の倍は葉が元気な状態である。生の韮なんて・・・と思うかもしれないが、本当にあまいのだ。これは中華の炒め物にしてはもったいない。和食屋で「生のまま」食べるべきである。

だとすれば、人間もこれを食べ続ければ、「錆びない」わけだ。そう信じて、昨年できた活性酸素消去米と納豆にわかめのお味噌汁を食べている毎日。この半年、家にいるときにはシラタキ・ミートソースで体重をキープしてきた私だが、お米がおいしすぎて、1キロ増えてしまった。その分、運動しろということか。

2003年7月3日

月下氷人

夜9時から六本木ヒルズの個室で食事をした。建築家の隈さんとEZTVの矢野さんをお見合いさせるためだ。

最近、こうした月下氷人役を買って出ることが多い。仕事柄、大勢の人々に会う機会に恵まれてきた私だが、才能のある人々を引き合わせることも自分の任のような気がするからだ。新たなコラボレーションに喜びを見出すのは年老いた証拠かもしれない。

隈さんがトイレに行った隙に関西弁で矢野さんいわく、

「目茶目茶、頭いい人ですね。質問に対しての答が明確だわ」

隈さんの建築に対しての考え方を聞けば、彼が時代をどう捉えているかよくわかる。その目線の鋭さと深さに感動したのだと思う。

食事の後、隈さんが設計した図書館を見に行った。二ヶ月ほどまえ前に会った新聞記者がプレオープンで図書館を見学して、メンバーになろうか検討中だと話していたので、一度入ってみたいと思っていたのだ。

なるほど、自分の仕事場では得られない空間。東京の街を見下ろしながら、あらゆるオブリゲーションを全部投げ出して、読書三昧してみたくなるのは頷ける。デスクも椅子も非日常的なのがいい。サラリーマンだったら、家や職場を離れて、ここで小説のひとつも書いてみたくなるに違いない。いや、狭いマンションに住む主婦にとっても、家事や育児、介護からの逃避行的空間になりうるのだが。

そうだ。そんな二人の恋の物語もあるかもしれない。そういえば、「恋に落ちて」の始まりもNYの本屋さんだった。

帰りのタクシーの中での会話によれば、隈さんも矢野が気に入ったらしい。西麻布で私を降ろすと、外苑前の事務所へ戻っていった。売れっ子は夜中も仕事に忙殺される。

彼らが恋に落ちるかどうか。残念ながら、私の任はここまでである。

2003年7月2日

午前中は文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議に出席。

午後はぴあ・フィリムフェスティバル表彰式の打ち合わせ。昨年もお声をかけていただいたのだが、早稲田大学でメガワティの講義をすることになっていたので、お受けできずにいた。なんと今年で25周年だそうだ。継続は力なり。このフェスティバルから大勢の映画人を輩出してきた。打ち合わせをしながら、ウズベキスタン映画に出演した経験を熱く熱く語ってしまった。

赤坂サントリービルの1階ペンディオロッソ(赤坂のスペイン語訳)にいたので、広報部長の浜岡氏を訪ねた。彼は私の同期。あのままサントリアンでい続けたら、今頃私も課長くらいにはなっていたのだろうか。

その後、別の友人からお呼び出しがかかり、新しいプロジェクトの話を聞かさせる。郵政公社でも序々に動きがあるらしい。

 「スパモニ」が終わったら、打ち合わせ攻めの日々が続いている。

2003年6月27日

明るい未来

久しぶりに上智大学の寺田ゼミに出席。アジアからの留学生が多い今年はアンダーソンの『想像の共同体』を購読している。学生の発表そっちのけで、先輩の笹川君が重箱の隅をつつくように、白石隆・さやさんの日本語訳と読み比べていく。

フィリピンの調査から辰巳頼子さんが帰国していた。新しいグラントの面接のために帰国、無事、審査に合格したのだという。上智の大学院に行って一番の収穫は、この辰巳頼子と出会ったことではないかと思ったことが何度かある。とにかく頭がいい。あらゆる面で天才肌。将来はイスラーム研究者の大家になっているだろう。

30歳になったばかり。なんだか痩せて顔が小さくなっている。大人の女性として内も外もますます磨きがかかっていく。こちらも明るい未来にまっしぐら。40までは、たし算の人生だ。

2003年6月26日

終わりと始まり

「スーパーモーニング」は今日で最終回。前田吟さんがキャスターの時から1年3ヶ月。自分が座長を務める番組が終了するときは、大きなプロジェクトを終えた組が解散するのに似て、感無量だ。だが、こうして脇役の自分が途中下車するときは、別の寂しさを伴う。自分がいなくても番組も会社もまわっていく。自分は歯車のひとつにすぎないのだと思いしらされる。放送終了後、花束を受け取りながら、サントリーを結婚退職した日を思い出した。

反省会の後、出演者の皆さんと全日空ホテルで食事をとった。7月から司会を担当する赤江アナも一緒だ。

とにかく顔が小っちゃい。目が大きくて鼻が高くて歯がきれい。無駄な肉もしわもない。明るい未来にまっしぐら。そういえば、私が初めてテレビに出たときも、このくらいの年齢だったよね。なんだかお母さんの心境で、まじまじと珠ちゃんを眺めたのであった。

夜は句会。急いで4句考えねばならない。辰巳君が新幹線の最終で京都に向かうというので、東京駅のユーハイムでドイツ料理を頂きながらの会となった。金沢から陶芸家・大樋年雄さんも参加した。彼も相変わらずエネルギッシュ。今日の句会は増田明美さんの句が妙に艶っぽくて話題になった。もしかして、恋の始まり・・・?

その後は某編集部で打ち合わせ。土砂降りの雨の中、タクシーに乗り込んだ。これまでコミットしたことがないテーマに取り組むことになる。久しぶりに国内取材であちこち飛び回ることになりそうだ。

2003年6月24日

母校に寄付

夜はエンジン01の教育委員会。メンバーである林真理子さんの取り計らいで、会合は六本木ヒルズの上となった。

三枝成彰さんが『ダイヤモンド』で私立中学校のランキングを特集した号を持ってやってきた。ご本人がそこにコメントを寄せているからだ。それを眺めて、母親である林真理子さんが奇声を発している。

 「国士舘って今、こんなに上なんだあ」

これを聞いて驚いたのは私だった。小学校5年生から世田谷区若林に住んでいた私には、どちらもご近所であり、いわゆる不良と呼ばれる怖いお兄さんたちが行く学校だと認識していたからだ。

こんな感想をもらすと、隣にすわった藤原先生いわく、

「僕たちの時代と全くランクが入れ替わっているんですよ」先生も実は世田谷のご近所、ほぼ同世代であることがわかった。 

子供がいないと、ついつい昔の目線で学校を判断しがちだが、学校も生き物だ。30年も経てば、教育方針も変わる。校長先生の情熱次第でいかようにも、である。ということは、どこの公立中学だって、その気になれば、改革は可能である。

公立校に寄付すれば税制で優遇されるようにしてはどうか。母校に寄付する大人はいっぱいいるはずだ。

今夜はそんな話で終わった。

2003年6月23日

メガワティ大統領来日

インドネシア現大統領のメガワティが日曜日から来日している。せっかく東京に来るのに、挨拶に出向かないとご機嫌を損ねる。だが、国賓で来日する大統領にどうやって接触すればいいのか。

私がメガワティに初めて会ったのは、1996年夏。7・27事件(ジャカルタ暴動)の直後であった。スハルト政権下で「民主化のシンボル」だったメガワティ。翌年の選挙の前に民衆の核である彼女を政治の舞台から排除しようと政府が画策したことがきっかけで民衆と国軍が衝突した事件がジャカルタ暴動である。

当時はスハルトの独裁体制で言論活動にも縛りがあった。ほとんどのジャーナリストが政府についている中、メガワティのところに足しげく通った現地ジャーナリストたち。彼らに混じって彼女に接触したジャーナリストは多くはなく、特派員を除けば、はるばる日本からやってきた私の存在を彼女は強烈に覚えていたらしい。

早晩、スハルト政権は崩壊する。体制崩壊を直感した私は、以来インドネシアに通い続け、その都度、彼女の自宅を訪れたものだが、常に長い時間待たされた。そのことに疲れていた私は、ある時、彼女には会見を申し込まず、周辺取材だけ続けていた。それがご本人の耳に入り、近しい人物に一言。「あなたはサトコに会ったんでしょ。エロスも会ったらしいじゃない。なぜ私のところには来ないのかしら」。そこでメガワティの自宅に出向いたのだが、例によって長い間待たされた上、短い時間の会見で終わった。メガワティだけではない。宗教家のトップなども思わせぶり会い方をする。これはアジアの権力者のスタイルのようといえるだろう。

その際、オレオレ(おみやげ)を何にするのかが頭痛の種だった。2回目くらいに会ったとき、「日本からのおみやげを忘れないでね」と言われてしまったのだ。アジアはどこの国でも菓子折りは必需品だ。もちろんそれまでも手ぶらでは会っていないのだが、問題は何を選ぶかだ。インドネシアは常に暑い。ケーキも生菓子もチョコレートもだめだ。本人お好みの天津甘栗とて2日経てば風味が落ちる。三越まででかけて真空パックにしてもらわなければならないのだ。

オレオレを届けながら、そうやって気軽に会話できた日々が懐かしい。

国賓待遇の今回はやはり敷居が高かった。2年前、就任直後にアメリカでブッシュに会い、帰りに日本に寄った時とはわけが違う。

前回は帝国ホテルに滞在していたので、SPやインドネシアから同行してきた番記者に顔なじみがいるので、機会は何度もあった。博士号を早稲田大学から受けたときにも、娘のプアンとともにファミリーカーに同乗したくらいだ。

しかし今回は迎賓館に滞在。経団連との食事会と日本記者クラブの会見以外に接触の機会はない。結局、日本記者クラブ講演の際、入り口で会話をするのが限界だった。

私をみつけると、無防備で可愛らしい笑みを浮かべて手を差し伸べてきた。「ちゃんと来たわね」といわんばかりだ。

講演が始まる前、顔なじみのSPが私を呼びよせ、

「2年前と全然違う。僕たちがハンドリングできた時代は終わったんだ」とささやいた。

権力の中枢に入った途端、人間は変貌する。人民へ注がれていたはずの目線もエネルギーも、インナーサークルの権力闘争に向かっていく。

「スハルトが30年かけたことをメガワティは2年でやってしまうところが問題なんだ」

インドネシアの知識人はメガワティのスハルト化をそう嘆く。夫タウフィックの汚職問題、一族の優遇。それでも他にめぼしい候補のいないインドネシアでは、来年も大統領選挙でメガワティが選ばれるに違いない。日本の小泉人気と似ている。 

丸投げということでも小泉総理といい勝負である。インタビュー嫌いも手伝って、メガワティは記者からの質問も大臣に答えさせるとして知られているからだ。

ところが、今回の会見では、すべて自分で答えたのだ。

就任から2年。あらゆる面で自信がついたのだろう。一般にはスピーチ能力がないと言われているメガワティだが、党大会などではアドリブで党員を笑わせる瞬間を、私は何度か見てきた。それを党外でも披露したのだから、国政についても学習し、自分でハンドリングできる自信がついたのに違いない。慎重なあまり殻にこもっていたメガワティが脱皮して大きく羽ばたこうとしているのか。

来年の春再選されて、あと5年続ければ、期待以上に大きな指導者に化けるかもしれない。私が追いかけていたころは、研究者の間では誰からも見向きもされなかったメガワティ。父スカルノに近づくべくインドネシア安定のために本気になってほしい。かくなる上は、汚職で足元をすくわれないことを祈るばかりだ。

2003年6月17日

何年学べばプロになれるの?

昨年秋から「薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議」の委員を務めている。今朝はその会議に出席した。

焦点は薬剤師の質向上のため、医学部と同様、薬学部を6年制にするかどうかにある。医薬分業が進み、新薬も次々開発される中、薬剤師の役割が大きくなっているのがその根拠だ。

しかし6年一貫教育とするのは学生にとって選択の幅が狭すぎる。進路志望の多様性を踏まえるなら、薬学士として4年で卒業することを認め、薬剤師や創薬研究を目指す人は修士に進学し臨床実習を経て薬剤師の資格を取得してはどうか。4年で社会に出て修士課程から再入学できる仕組みを残すのは生涯教育にとっても必要だと私は主張している。

それに、一番大切なことは、薬剤師の人間性だ。薬品を扱う以上、キレル人であっては困る。病棟薬剤師も調剤薬局で働く人も、全人医療を志す人でなければならない。

こうした会議にジャーナリストを加えて意見を取り入れ、公開にした文科省の決断は評価されるべきである。一般に日本の制度改革は一部の人の思惑や執念で方向が決まり、有力な議員を巻き込んで法案を通してしまうからだ。

しかし、所詮、私は社会に対しての目線がかけているとか、理にかなう説明ができていないとか、薬学教育だけに目を向けてきた人々に、別の角度から光をあてることくらいしかできないのだ。文部科学省サイドで教育の問題だけ議論しても、国家試験を通して資格を与えるのは厚生労働省なのだから、本来は二つの省庁が合同でこうした会議を進めていくべきであろう。

薬学教育をさらに充実させても、薬剤師の質が向上しなければ意味がない。質の担保として、コア・カリキュラムと共用試験の実施は言うまでもないが、同時にライセンス更新を義務付けるべきではないか。5年に1度は研修を受け、医療現場を遠ざかっていて昨今の流れについてゆけない者は、調剤薬局に立つこともできないとすべきである。

この問題については書くべきことが山のようにある。機会をみつけて、時々書いていこうと思う。

午後は「文明の衝突」と銘打ったシンポジウムを聞き、雑誌の女性編集者とイタリアンを食した。イラク戦争中、中東取材を敢行した彼女はひとまわり大きくなっていたし、旦那と別れて自由の身になったレストランのマダムは、とても美しく生き生きとしていた。

人間を大きくするのは高等教育の年限などではない。現場で修羅場をくぐることこそ大切なのだ。薬学教育もただ年限を延ばすのではなく、臨床実習の段階で、救急医療の現場で人が生死をさまよう瞬間にこそ立ち会わせるべきだと私は考えている。