2003年6月23日

メガワティ大統領来日

インドネシア現大統領のメガワティが日曜日から来日している。せっかく東京に来るのに、挨拶に出向かないとご機嫌を損ねる。だが、国賓で来日する大統領にどうやって接触すればいいのか。

私がメガワティに初めて会ったのは、1996年夏。7・27事件(ジャカルタ暴動)の直後であった。スハルト政権下で「民主化のシンボル」だったメガワティ。翌年の選挙の前に民衆の核である彼女を政治の舞台から排除しようと政府が画策したことがきっかけで民衆と国軍が衝突した事件がジャカルタ暴動である。

当時はスハルトの独裁体制で言論活動にも縛りがあった。ほとんどのジャーナリストが政府についている中、メガワティのところに足しげく通った現地ジャーナリストたち。彼らに混じって彼女に接触したジャーナリストは多くはなく、特派員を除けば、はるばる日本からやってきた私の存在を彼女は強烈に覚えていたらしい。

早晩、スハルト政権は崩壊する。体制崩壊を直感した私は、以来インドネシアに通い続け、その都度、彼女の自宅を訪れたものだが、常に長い時間待たされた。そのことに疲れていた私は、ある時、彼女には会見を申し込まず、周辺取材だけ続けていた。それがご本人の耳に入り、近しい人物に一言。「あなたはサトコに会ったんでしょ。エロスも会ったらしいじゃない。なぜ私のところには来ないのかしら」。そこでメガワティの自宅に出向いたのだが、例によって長い間待たされた上、短い時間の会見で終わった。メガワティだけではない。宗教家のトップなども思わせぶり会い方をする。これはアジアの権力者のスタイルのようといえるだろう。

その際、オレオレ(おみやげ)を何にするのかが頭痛の種だった。2回目くらいに会ったとき、「日本からのおみやげを忘れないでね」と言われてしまったのだ。アジアはどこの国でも菓子折りは必需品だ。もちろんそれまでも手ぶらでは会っていないのだが、問題は何を選ぶかだ。インドネシアは常に暑い。ケーキも生菓子もチョコレートもだめだ。本人お好みの天津甘栗とて2日経てば風味が落ちる。三越まででかけて真空パックにしてもらわなければならないのだ。

オレオレを届けながら、そうやって気軽に会話できた日々が懐かしい。

国賓待遇の今回はやはり敷居が高かった。2年前、就任直後にアメリカでブッシュに会い、帰りに日本に寄った時とはわけが違う。

前回は帝国ホテルに滞在していたので、SPやインドネシアから同行してきた番記者に顔なじみがいるので、機会は何度もあった。博士号を早稲田大学から受けたときにも、娘のプアンとともにファミリーカーに同乗したくらいだ。

しかし今回は迎賓館に滞在。経団連との食事会と日本記者クラブの会見以外に接触の機会はない。結局、日本記者クラブ講演の際、入り口で会話をするのが限界だった。

私をみつけると、無防備で可愛らしい笑みを浮かべて手を差し伸べてきた。「ちゃんと来たわね」といわんばかりだ。

講演が始まる前、顔なじみのSPが私を呼びよせ、

「2年前と全然違う。僕たちがハンドリングできた時代は終わったんだ」とささやいた。

権力の中枢に入った途端、人間は変貌する。人民へ注がれていたはずの目線もエネルギーも、インナーサークルの権力闘争に向かっていく。

「スハルトが30年かけたことをメガワティは2年でやってしまうところが問題なんだ」

インドネシアの知識人はメガワティのスハルト化をそう嘆く。夫タウフィックの汚職問題、一族の優遇。それでも他にめぼしい候補のいないインドネシアでは、来年も大統領選挙でメガワティが選ばれるに違いない。日本の小泉人気と似ている。 

丸投げということでも小泉総理といい勝負である。インタビュー嫌いも手伝って、メガワティは記者からの質問も大臣に答えさせるとして知られているからだ。

ところが、今回の会見では、すべて自分で答えたのだ。

就任から2年。あらゆる面で自信がついたのだろう。一般にはスピーチ能力がないと言われているメガワティだが、党大会などではアドリブで党員を笑わせる瞬間を、私は何度か見てきた。それを党外でも披露したのだから、国政についても学習し、自分でハンドリングできる自信がついたのに違いない。慎重なあまり殻にこもっていたメガワティが脱皮して大きく羽ばたこうとしているのか。

来年の春再選されて、あと5年続ければ、期待以上に大きな指導者に化けるかもしれない。私が追いかけていたころは、研究者の間では誰からも見向きもされなかったメガワティ。父スカルノに近づくべくインドネシア安定のために本気になってほしい。かくなる上は、汚職で足元をすくわれないことを祈るばかりだ。