9月○日 オーストラリア大使館前爆破事件

 ジャカルタに着いた翌日、爆破事件があった。最初はオーストラリア大使館そのものだと報じられ、テレビで現場が中継されたが、結局、大使館そのものはガラスにヒビが入った程度で、むしろ被害は周囲のビルに及び、死傷者もインドネシア人だけであった。
 「バリのディスコでもそう。なぜオーストラリアだけがテロリストの標的になるかしら。アメリカは無事。  これは急進派イスラームの仕業だと思う?」
 と宿でテレビを見ていた数人のインドネシア人に、私は無邪気にこう聞いてみた。
 「急進派イスラームかどうかはわからない。でも反豪感情は皆に共通しているからね」
 「東ティモールの独立以来?」
 「それが始まりだけど、いまの首相の言うことが我々インドネシア人の気持を逆なでするんだ」
 反豪感情――。私にはよく理解ができる。
 ハビビ政権になって、東ティモールがインドネシアからの独立を達成した。1973年に併合された東ティモールは、スハルト政権が倒れたのだから独立する自由を彼らに与えるべきだという国際社会の潮流は納得できる。そこで住民投票を行ったのだが、インドネシア中央政府およびジャカルタの人々は、彼らが独立を選ぶとは考えていなかった。スハルトの圧制で苦しんだのはジャカルタも同じ。しかし、彼のおかげで病院や学校が建設されたのだから、インドネシア人として生きようとするはずだというのが共通認識だったのだ。
 ここまではインドネシア人の傲慢である。自分たちの利権に固執して、武力で独立の動きを封じ込めようとした一部国軍の行使した暴力にも問題はあった。しかし、彼らが許せなかったのは、ハワード首相が「我々がアメリカに代わってアジア太平洋地域の保安官になるのだ」と東ティモールに軍を送ってきたことだった。これにインドネシア人が切れたのである。
 スハルトが東ティモールを併合したとき、オーストラリアはすぐにこれを認めたのである。なのに、手のひらを返したように、「いい子ぶる」のは許せないというわけだ。
 当時、ニュースに映し出されたオーストラリア国軍の兵士たちの勝ち誇った顔。それは、イラクに乗り込んだアメリカ兵と重なる。中東や東南アジアにいきなりアングロサクソンの兵士が武器を携えてやってくる光景は、植民地時代を思い起こさせるのだ。これが、ASEANの兵士だと、そんなには抵抗がない。この違和感について、欧米諸国はあまりに鈍感である。
 もちろん、地政学的に考えれば、東ティモールの行く末は、オーストラリアにとって深刻な問題だった。大量の難民がでれば、引き受けなければならない。そのくらいのことがわからないインドネシア人ではない。しかし、蓋を開ければ、いまの東ティモールはオーストラリアの植民地状態である。ホテルもレストランも、ほとんどがオーストラリア資本、オーストラリアドルを持たないと入れない。これでは、宗主国がインドネシアからオーストラリアに変わっただけだ。インドネシア人はこの現実を知っている。
 ハワードは野心家だ。彼はなんとかして「アジアのアメリカ」たろうとしている。イラク戦争にもアメリカに全面的に協力した。だから、共和党大会でのブッシュの演説でも、同盟国の中でオーストラリアの名前が最初に読み上げられた。
 しかし、ハワードの野心をよそに、アジアはそれを認めない。もちろん許しがたいアメリカのイラク派兵であったが、百歩譲って、あれだけ国力があれば、誰も文句がいえないという要素がある。戦後の国際社会秩序における貢献度、軍事力、経済力、それに機軸通貨ドルの圧倒的な強さには、どこか諦めももてようというものだ。
 オーストラリアにはそれほどの国力はない。まずは自国の経済力をつけて勝負しろと言いたいのだ。ただ、アメリカの真似をして、アメリカに媚びを売って寄り添って、軍隊だけ送り込んで、はい、アジアの保安官です。こんなやり方は卑怯だとインドネシア人には映るのである。
 くわえて、バリのディスコ爆破事件が火に油を注いだ。多くのオーストラリア人が犠牲になったのだから、彼らが犯人割り出しに躍起になるのは当然だった。だが、遺体を確認する際、白人を優先し、インドネシア人を後回しにした姿を、多くのインドネシアのメディアは目撃している。彼らが潜在的に抱く白人至上主義を、人々は見逃さなかった。
 10月の選挙で、ハワードの敗北を祈るのは、アジアの共通の見解かもしれない。