毎日新聞2010年07月15日

 【漢字かなまじり書の美しさ
           --第62回毎日初動点を観て実感】

海外を飛びまわっていると、ある日突然、日本の伝統文化を知りたくなる。日本的なるものがいとおしくなるのだ。
 
そんな思いで書を始めたが、しかし毎日書かないから、ちっとも上手くならない。その私が紙と筆の摩擦の瞬間を第三者に見られるとなれば、その緊張はただ事ではない。

拙著『ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後』が第五八回日本エッセイス・クラブ賞に選ばれ、先日その授賞式後のサイン会で、まさにその現象が起きた。指は震え脂汗が流れた。もっと練習しておくべきだったと反省至極。書を鑑賞したい欲求にかられた。

翌日、六本木の国立新美術館を訪れ、毎日書道展を観た。たっぷりと墨を摺り、和紙を床の上に広げて納得した文字を書くまでに、どれほどのエナジーと時間が費やされたであろう。パソコンや携帯が普及しデジタル化が進む時代に、かくも多くの人々が筆を持ち、余白とのバランスを考えつつ、和紙の上で格闘しているのは驚きだ。今年で六二回を数えるが、公募展に三万人余が応募してきたという。

この書道展は占領期の昭和二十三年から始まっている。連合軍の施策が功を奏し、ジャズや洋裁、洋食など、アメリカ的なるものに関心が高まっていた頃だ。教育現場では漢字の使用制限や文書の横書き化が指導された。そうした中、戦前に書を極めていた大人たちは、書道の復興に情熱を注いだ。

他方、戦後教育を受けた私たちは毛筆を授業で数回経験するにとどまった。それでも、達筆か悪筆かを判断する感性は持ち合わせている。マンガ文字の署名など、恥ずかしくて目も当てられない。政治家を志すならば、あるいは役員の椅子が見えた時、密かに書を学ぶべきである。中国でも公教育では毛筆が消えているが、エリートや野心家は個人で書塾に通っているという。将来、人の上に立ち尊敬されるのに、書の心得は必要条件だからだ。そうした幹部候補生の覚悟の持ち方からみても、日本企業の将来が危ぶまれる。

そんなことを考えていたら、特別展示にたどり着いた。生誕一一〇年の松井如流にまつわる書や文房四宝、手紙の数々である。明治生まれの如流は、歌人でもあった。

中でも川端康成の求めに応じて揮毫した川端全集(新潮社)の題字に目を奪われた。白地に浮かび上がる水墨の漢字仮名まじりの書は、日本文化の美しさにほかならない。

こればかりは現代中国人も簡単に真似できまい。かつて大陸から伝わった漢字を基に日本人が編み出した仮名。「女手」と呼ばれ和歌などに使われたこの文字のたおやかさに、理屈ぬきに安心するのはなぜだろう。漢字仮名まじりの日本の文字は、多様で繊細な日本人の心をそのまま映し出しているように思える。

早晩、大量に移民が日本にやってくる。われわれが死守したい日本的価値は何なのか。その答のひとつが、この仮名まじりの書にひそんでいるような気がしてならない。