危機意識で学びの動機づけを

昨夜、月が美しかったと思ったら、案の定、今日は朝から雲ひとつなく、抜けるような青空が広がっていた。午前中、外に出ていたら、本当に日差しが強くて、肌が痛いほど。なのに、夕方には空は雲で覆われ、せっかくの満月はどこへやら。

今日はエンジン01教育委員会だった。参加した人数が多かったので、あちこちで話が盛り上がっていたが、私の周囲では、中国人留学生の脅威において意見は一致した。

希望が持てず投げやりな日本の子どもたちに学びの動機づけは難しいが、危機意識を持たせることが近道と私は考える。早晩やってくる日本社会の変化を、大人が想定して語らなければいけないのだ。日本の労働市場における自分たちのライバルが中国人であること、日本語さえ解してくれれば、工場などは中国人を雇いたがることを教えるべきなのだ。でないと、高校生や大学生になっていざ就職というときに、日本の若者たちは仕事に就けずプー太郎になる。日本経済がこれまで同様に好調ではないだろうし、中国企業に買収されるところも出てくるはずだ。実際、レナウンは中国企業のものになった。

これから伸びようとする国の人々のエネルギーは半端ではない。戦後の日本も、そうしたエネルギーが高度成長につながったのだ。その事実をいま語って聞かさないまま、若者が将来仕事につけないとすれば、それは大人の責任である。

すでに4-5年前、IBMはアジアの拠点を東京から上海に移した。中国市場の魅力もさることながら、日本の若者はマニュアルどおりにしか動かないからだという。その点、中国人のほうが創意工夫があるというのが理由だった。

私はIBMの例を挙げて、これまでもあちこちで警告してきたが、それが日本企業でも起きている現実を我々は真摯に受け止めねばならない。流通業界でも、幹部候補生にアジアの留学生を積極的に起用するところが出てきている。本当に優秀な中国人はアメリカや欧州に出向いているが、日本に来ている留学生でさえ、おそらく普通の日本の大学生よりは、はるかに勤勉で野心家であることを、私たちは忘れていはいけないのである。

山の手空襲から65年

65年前の今日、正確には夜になるが、渋谷、表参道、麻布界隈に米軍のB29から焼夷弾が落とされ,大勢の人々が亡くなった。この夜の空襲は「山の手空襲」と呼び、3月10日の「下町空襲」と区別している。

表参道交差点の安田銀行(現みずほ銀行)の前には、犠牲になった人々の遺体が幾重にも重なっていた。翌朝、日本軍の兵士がやってきて、遺体をスコップですくい、トラックの荷台に投げ入れていったのを人々ははっきりと記憶している。

毎年、夏になると、戦地で亡くなられた方々のことは話題にのぼるが、食べたいものもガマンして本土を守った非戦闘員が空襲で命を落とした事実にこそ、もっと思いを馳せるべきだと私は常日ごろ考えている。

この話はハニカムブログに少し書き、詳細は『ワシントンハイツ』第一章に記しているので、ぜひ読んで欲しい。

さらに興味のある人は、今日の慰霊祭に行かれることをお薦めする。場所は、表参道交差点LVMH裏の(信州の)善光寺別院である。

空襲で命を落とされた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

図書館の日々

 返却日が過ぎていたのを思い出し、国際文化会館の図書館に電話して延期をお願いする。延滞金が発生するシステムはいかにもアメリカ的だ。

 最近、また図書館通いの日々を送っているが、改装が終わったら、つい都立中央図書館に向かってしまう。閉架ものも12冊引き出せるようになったし、開架ものは自分ですぐに確かめるので楽。国会図書館は3冊制限がネックである。

 

迷彩に目が慣らされて

  数年前、ガーリーな迷彩風のワンピースが鳥居ユキさんのデザインで売り出された。デニム風コットン素材なので丈夫で楽。飛行機移動の折に重宝してきた。今年の春夏にまた迷彩プリントが入っていたので、今度はパンツを購入してしまった。これが楽で止められない。デザインのなせる業だ。

 インドネシアで国軍の暴力を見てきた私は、迷彩を着るだけでそれを容認しているようで実は抵抗がある。だが、楽なのでつい迷彩パンツをはいて、土曜日、都心のバスに乗ってしまったところ・・・

 次から次へと迷彩パンツのお兄さんが乗ってくる。最初は背が高く、ストリート系のイケメン。若くはないがファッショナブルである。六本木のバス停で待っていると、向こうから歩いてきた。一瞬、仲間かな、という親しみ光線を発しつつ、近くで見て違う人種と納得していた。もう一人は、途中で乗り込んできた中年のお兄さんで、いつもの綿パンに迷彩がプリントされているというだけの着こなし。オシャレ感はゼロだった。でも、流行っているから履いちゃったのだろう。その彼も、私を一瞥して、仲間になりたそうな空気を発信していた。

 どっちのお兄さんも、私にとってはどうでもいいのだが、迷彩パンツを履いただけで、カテゴライズをされてしまう不思議な経験だった。

 元来、私は流行ものが嫌いである。できるだけ人と違うものを選んで着る。数年前に手を染めたのも、ガーリーなワンピというめずらしさが手伝ったからである。その私の目が慣れて抵抗が薄まったのだから、流行とは恐ろしいものである。そういえば、10年ほど前、モスキーノが秋冬でミリタリーだったことがあった。大好きなモスキーノなのに、欧州にいたから安かったのに、ミリタリーというだけで買わなかったのを思い出す。

 日常着にするうち、軍隊の存在には抵抗がなくなっていくのだろうか。毎年、色もデザインも、ある程度の方針がフランスから与えられると聞いたことがある。だから世界で流行が生まれるのだが、この傾向が続くことで戦争を容認することのないよう、気を引き締めないといけない。3人とも、この格好で沖縄の集会に行けば、ぼこぼこにされるに違いないのだから。

 そういえば、迷彩は英語でカモフラージュだ。

 山の手空襲から65年。六本木も表参道も被災したことを忘れてはいけない。火曜日には慰霊祭が開かれる。

 注)迷彩パンツについては、COLLECTIONに写真を掲載予定。

石川九楊講演会

 昨日は石川九楊先生の講演会。運営は塾生なので、私は進行役を勤めた。

 冒頭で宮沢賢治の詩の朗読が入るのだが、本番直前に生づけにとのお達し。先生に言われては抵抗できず、暗転の中、舞台の袖の照明さんの灯りを頼りに朗読することに・・・。

 90分の講演を2回。先生は乗りに乗っていて、近代書史・現代書史が本当に早わかりだった。次は6月に京都で。こちらは、中国書史・日本書史についても話される予定。

 子どもに硬筆の字を教える前に、毛筆の手習いがどれほど大切か。また教育プログラムに新たな課題をみつけてしまった。

都会は雑音だらけ

今日の石川九楊先生の講演会冒頭で流す宮沢賢治の詩の朗読を録音しようと前の晩からタイミングをはかっているが、都会の音のうるさいこと。窓を閉め切っても、音は外から聞こえてくる。深夜でも、街の雑音から逃れらない。人の声、車の走る音、急ブレーキをかける音、などなど。バスルームでは反響してしまうし、時計の音は気になるし。

結局、本当の静けさは早朝しかなかった。窓からもっとも遠い部屋にこもって、録音を終了。もっとも、朝は朝で、烏の鳴き声がうるさいのだが。

それでも、生にしろと先生に言われるような予感はするのだが、最悪、これがあれば、どうにか乗り切れるであろう。

kopi luwak

 コレクションにアップしていますが、こちらにも写真を載せます

映画で話題になった、ジャコウネコのコーヒーです。

ジャカルタでは同名のカフェが昨年からショッピングモールに誕生し、1杯8ドルだったと記憶しているが、お土産用に写真のようなパッケージも売られている。45ドルくらいだったと思うが、定かではない。

もしも米軍基地がなくなったなら・・・?

米軍基地がなくなったら、どうなるのだろう。
そんなシミュレーションをするのがマスコミの役割と思ってきたが、昨夜のフジテレビMr.サンデーでそれを取り上げていたのが興味深い。もっと色々な番組で議論すべきだ。
このままいけば、アメリカが日本を切り捨てることも十分にありうるのだが、そのとき日本政府はどうするのだろう。
当然、自衛隊を国軍化する声も出てくるだろうし、非武装中立国として貫き、自国防衛だけを考える選択もある。そうしたことを、米軍を追い出してから考えるのではなく、いまごろから議論すべきではないか。選挙の争点にしてもいいくらいだ。
それに、沖縄経済はどうなるのだろう。フィリピンのスービックのような経済特区にすることで、米軍施設で働いた人々全員に、平均年収400万円の仕事がまわるとは思えない。これまでのように無税とはいかないし、米兵が町に落としたお金も当てにはできない。電力もガスも需要が激減する。政府からの補助金が打ち切られれば、地元のゼネコンはたちまち経営難に陥るはずだ。
沖縄の問題は、市民の嘆きだけでは見えてこない。そうした声を利用して、誰がどう潤ってきたかを考えてみる必要がある。歴代の首長たちが全員、市民の味方とは限らないと私は考えている。

還暦の祝宴

このところ、恩師のイベントが続き、ドタバタと忙しい日々が続いている。あえて言い訳をすると、ブログを更新できずにいたのも、そのことと無縁ではない。
ひとつは上智の大学院教授・寺田勇文先生還暦のお祝い。もうひとつは、15日に朝日ホールで開かれる書家・石川九楊先生の講演会である。前者は世代を超えたゼミ生、後者はいろいろな職種の塾生、いずれも素人による手作りなので、遅遅として進まないことも多い。恩師への感謝の気持ちを形に出来るのは嬉しいのだが、素人でチームを組むのは時間がかかる。
金曜日は書の稽古の後、20時から打ち合わせが始まった。全体の運営から入ったので、演出にまつわる打ち合わせは23時半から。シナリオを任された年配者がワープロを打てないため、司会の私が打ち込み役を担うことになる。最初にシナリオを手がけた人の思いも尊重しつつ、途中から採択されたその年配者の案を尊重しつつ、両方に不満が残らぬように打ち変えて昼に完成させたものが、この打ち合わせで一気にひっくり返る。お二人が手探りで構成案を出していたのだが、どうやら先生の気持ちに追いついていなかったらしい。それでも、石川先生の意思が確認できたので、私としては、そこに沿って作り変えればいい。これで楽になった。案を出した人たちに気遣わずに済む。
土曜日は教授還暦の祝宴の日。その前に一本打ち合わせを入れ、その後、準備に入る。こちらは青山の「フィアットカフェ」が会場で、赤を基調にした会場は、還暦にうってつけだ。
先生には秘密裏に進める祝宴運営は、先生の鶴の一声とはゆかず、価値観や意見の違う若い世代との擦り合わせが簡単ではなかった。一般社会とは一線を画す、大学院という場での若い世代の考え方が想像以上に自分とは乖離していて、現在の日本社会で起きていることの断面を見た思いである。
夜は「自分が主役になることは人生にそうないから」とにこやかにおっしゃる先生に、三次会までご一緒した。なるほど、「結婚式は(主役率が)半分」なのだから、出版記念会や還暦、退官のお祝いと、限られた機会のみ主役を張るのは確かである。
世代をつなげる中心的役割を担った研究者夫婦によって、心温まる文集も作成された。今日になって読み返して、改めて先生の生きざまそのものが、現在、研究者として活躍している人々に大きな影響を与えてきていることを確認する。
私自身は、教育者とはこうあるべきだ、と寺田先生を尊敬してきた。研究者としての資質と教育者としてのそれが共存する人は、そうはいない。
院生だったころから、還暦のお祝いは自分が開くとイメージしてきた。研究者にならなかった私はゼミ生のなかでも異端児のままだが、それでも、そう名乗りたくなること自体、先生の魅力を物語っていると私は思う。