芽吹きが教えてくれた

なんだか、疲れた。震災疲れ。情報の洪水の中で溺れそうになりながら、一方で、今度は東京に地震が来るかもしれない、被爆するかもしれないと薄氷を踏むような日々を過ごして早1ヶ月。当事者でもないのに、この疲れはなんだろう。

でも、そろそろ気持ちを切り替えようと思い立つ。負のエナジーが日本列島に充満すれば、狙われる。あのときもそうだった。阪神大震災の2ヵ月後に地下鉄サリンが起きた。弱った日本をテロリストが襲った。

95年、関西テレビで仕事をしていた私は、現地にも赴いたし、スタッフも被災していた。神戸の人たちいわく「明日地震が起きても悔やまない人生を送ろうと思った」と。

それを教訓に一生懸命生きてきたつもりなのに、でも、生き延びたい自分がいて、最悪の事態に備えて準備を始めてしまう。一方で、被災者と何かを共有したい自分もいるのも確かだ。

募金もチャリティも、どこか自己満足な匂いも感じる。募金をするなら、各市町村の口座に送るほうがいいだろう。報道されるように、芸能人が避難所にやってきて、人々が元気になるのはいいことだ。天皇皇后両陛下がお見舞いされるのも意味がある。いま私が行っても、足手まといなのは見えている。

かといって、日本のオーラを出すために、せっせと和服を着て記録する私も、自己満足だ。自分を元気にするためだけかもしれない。被災地のために何もできていないのに、でも、どこかで地震にも放射能にも免疫が出来て、少し前に踏み出せそうな気もしているのだ。

そうつぶやいている間にも、桜の枝には葉が出て、我家の楓も芽吹いて花を咲かせ、着々と成長している。この生命力を見習わねば。