6月15日 セミとホタル

 ワシントンは自然が豊かなところだ。四季折々の花の変化を見るだけでも楽しく、幸せな気分になるのだが、そこに動物までお目見えするからさらに楽しみが加わるというわけである。アパートメントの合間の芝の上をリスがかけめぐり、すずめに似た鳥が小さな虫をついばみ、最近はリスにまぎれてねずみまで走り回る。大学ではとくに、学生がいなくなるクリスマス休暇や夏休みになると、リスがキャンパスを我が物顔にとびまわる光景がやたら目立つようになる。これだけ身近に存在すれば、ディズニー映画でリスが主役になるのもうなずける。そのイメージからリスは茶色と相場が決まっていると思っていたが、グレーや真っ黒なリスも少なくない。最近は目が肥えてきて、木の幹を駆け下りるリスも発見できるようになった。

すずめらしき鳥が芝の間の虫をついばむ姿も日常の光景だが、先日は少し大きな鳥がある昆虫を食べる姿を目撃した。ジョージタウン大学病院の向かいにあるスターバックスに腰掛けてクリスプ&クリームのドーナツを食べていたときのことである。鶫くらいの大きさだろうか。地面を這っている昆虫をパクっと食べてしまったのだ。

餌食となったのはセミである。セミがアスファルトの上をゆっくりと這っている光景は、決してめずらしくないのだ。

今年はセミが大量発生した年だという。10階のアパートの窓からはすごい勢いで飛ぶ小さな物体が目に入り、よくみると、それはセミで、突然、窓や網戸に小さな茶色の点をみつけると、これがまた、セミなのである。しかもアスファルトの上にも小さな茶色がころがっていて、仰向けになっていれば、それは短い生涯を終えたセミであり、うつ伏せならば、ゆっくりと這い回る死期の近いセミだったりもする。下を見ないで歩けば、必ずや踏んでしまいそうでドキドキする。樹木の下を歩くときは殊に要注意。

その最期にさしかかったセミを、その鳥は食べてしまったのである。人間に踏まれるよりは鳥の餌食になったほうが自然の摂理にあっているのだろう。しかし、子どものころからセミの生涯のはかなさを教えられてきたことを考えると、なんとも悲しい光景だった。

ワシントンでみかけるセミは茶色で、羽が透き通っている。子どものころに図鑑でみたニイニイゼミが近い印象だ。養老孟司先生に聞けば名前を教えてもらえるのかもしれないが、小ぶりで羽の透き通ったセミにははかなさが加わるというものである。

しかし、その声の印象がない。東京ではセミがけたたましく鳴くのを耳にしたら晩夏という印象がある。自分の生きた証を示すかのようにセミが鳴き始め、その声がピークに達したころ、空を見上げると、ずっと高く上のほうにあったりする。だが、これだけ死骸をみつけるというのに、その声が記憶にないのである。

 この前の日曜日の夜、図書館にこもって資料を読み込み、本数の少ないバスをベンチで待っていたときのことである。目の前を小さな光が通り過ぎた。かなり強い光で、小さなフラッシュを見てしまったような感じだった。まさか――。

その光は左に行ったかと思うと、次は右。ものすごい勢いで移動している。

 ホタルである。たった一匹のホタルがすいすいとワシントンの空気を自在に泳いでいるというわけだ。恥ずかしながらホタルといえば、東京にあるホテル椿山荘のホタル祭しか記憶にない。もっと幼いころ、祖母に連れられ岐阜の川べりあたりで見たことがあったのかもしれない。その貧しい体験から、ホタルは一匹ということはなく、数匹まとめて行動すると思っていたのだ。しかも、もっと緩やかな光を放っていたと記憶している。ところが、私が見たホタルは一匹である。なのに、何匹もいるような錯覚に陥るほど、縦横微塵に飛び回る。その光の強さとスピードのすごさ。

 やがて闇に目が慣れてくると、ホタルが必死で羽を動かしているのがみえる。ものすごい回数である。ふわふわと、いかにも身軽に飛んでいるように見えて、実は必死で羽を動かしている。その生命力には思わず拍手を送りたくなる。

 地球儀片手に世界秩序を考え、自分たちが正しいと信じて世界を振り回し続ける人々が集うワシントン。私がこの街を結構気に入っているのは、こうした自然との出会いがあるからである。