3月16日 ワシントンの春

ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
 日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
 昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
 最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
 春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。