2003年6月14日

活性酸素消去米

最近、活性酸素が注目されている。生活習慣病に至る諸悪の根源だという。

その活性酸素を消去する農法でできた米「雷神光」を食べてみて驚いた。普通のお米よりもおいしいくらいだ。活性酸素消去農法は遺伝子組み換えとは違う。肥料と農法に秘密があるというのだ。活性酸素消去農法で育っているから持ちがいい。ならば、それを食べ続ければ人間も長生きできるというわけだ。農薬を使っていない上に、低蛋白ときているから、腎臓病の人にぴったりではないか。

で、そのメカニズムを知りたくて、医学・代替医療振興協会主催のシンポジウムを聞きに出かけた。研究開発を担った東北大学の大類教授の話を聞けるからだ。興味のある方は、そのさわりを http://www.raijinkow.com/でチェック願いたい。

会場で司会進行を担当していたのは、ケント・ギルバード。かつて「サンデーモーニング」でコメンテーターとしてご一緒し、かつ「ナイトジャーナル」にもゲスト出演していただいたことがある。そのテーマは「夫婦別床」。日本はなぜ夫婦が別々に寝るのか、という話しだった。

さて、彼がそこにいたのには理由がある。予防医学はアメリカでは以前から注目されているが、日本人の意識はまだまだ低い。宗教とは関係ないが、彼は予防医学の大切さも日本で訴えようとしているのだという。

その協会の理事長である神津健一氏は、リゾレシチンの効用を強調しているのだという。キレル子供はリゾレシチンをとると気持ちが落ち着いていいのだそうだ。アルツハイマーにも効果があるという。アルファ・ベストなるリゾレシチンを入手して、番組の本番前に試してみよう。

2003年6月7日

バーゲン奮戦記

このところセールの時期が早まっている。5月末まで肌寒くて長袖のJKを着ていたのに6月7日にはもう夏物のセールが始まるのだ。次から次へとセールのお知らせが手元に届くから恐ろしい。ここで誘惑に負けてはまた貧乏生活に戻ることになる。今年はイタリアでも春夏物先取り買いをしている。もう、セールには出かけまい。

ところが、友人の嘆きが私を地獄へと誘(いざな)った。リストラの嵐はフリーライターにまで及び、友人は営業活動が必要になった。だが、いざ営業となると着るものがないという。このところ家にこもっていた彼女は、怠惰な性格も手伝って、むくむく太って肩や袖が入らないのだそうだ。そこで浜松町で開かれるイッセイ・ミヤケのセールに私もでかけることになった。サンプルセールは葉書がないと入れない。それにイッセイの服は初めてなので一緒に見立ててほしいといわれてしまったからだ。

それにしてもセール会場では判断力が鈍る。なんで買わなくてもいいものを買ってしまうのか。限られた時空で競争心をあおられると、結果的に無駄遣いに走るようだ。

入り口で渡される大きなビニール袋にまず、めぼしいものを放り込んでいく。来ている人々はみな、生き馬の目を抜くような勢いだから、そのスピードに負けないようにかなり欲張った確保に走るのが共通の心情だ。だから出遅れると美味しいものは見当たらないが、数時間後にははっとする掘り出し物が顔を見せることになる。ハンターの目になっているから、その瞬間が危険なのだ。

今日もそうだった。殺気立つ会場の空気に毒された私たちは、空腹に気づいて食事にでかけた。頭をクールにして何を選ぶか、しばし考えようというわけである。ところが、会場に戻ってくると、急にアイテムが増えているではないか。羽織ってみると、どれもこれも友人に似合うものばかりだ。

くわえて今年のイッセイのセールは定価の3分の1の額がつけられている。このお値打ち感が私たちの背中を押してしまうのだ。財布のひもを締めていたはずの私さえ、何点か購入するはめになる。イッセイ歴の長い私はオンタイムでラインアップをチェック済み。何に価値があるか、よく承知している。

友人も私もいい買い物をしたはずだった。だが、会場から外に出てみると、本当に必要なものを購入したのかどうかは非常に怪しい。なんだか買った喜びよりも徒労感だけがどーんと残ってしまった。

もっとも二人が裕福だったら、どうってことはない。目が肥えて価値がわかるのに財源がない二人の悲劇。金があっても価値がわからない人間が多い日本社会で、なんだか空しさだけが残った一日だった。

2003年5月27日

駒沢のロータスロード

このところ夜のイベントが続いている。

19日は辰巳琢郎邸のホームパーティに招かれ、彼と共通の友人たちに久々に会い、夜中まで盛り上がった。驚いたことに辰巳夫妻は結婚18年を迎えたというのだ。20代から知っているだけに、私も感無量である。久しぶりに古澤巌くんのバイオリンを目の前で聞いた。演奏する予定のなかった彼は、自分のバイオリンを用意したいたわけではない。辰巳君がお嬢さんにせがまれたて買ってあげたお稽古用のバイオリンなのに、実に優しい音色で奏でてくれたのだ。ちょっと感動。「弘法筆を選ばす」とは、まさにこのことだろう。

26 日はある食事会にお誘いいただいた場所は浅草近くの秘密クラブのようなところだ。お食事はフレンチのコース。各界でご活躍の方々が顔をそろえ驚いてしまったが、その食事会は麻布高校の同級生の集まりだったのだ。月に一度はこういう会が開かれるという。先日亡くなった叔父が3人の子供を私立高校に通わせていた。サラリーマンにとっては経済的負担は軽くなかったはずだが「私立に行くのは、社会に出てから財産だから」と叔母を説得したそうだ。この説はかなり正しいと思う。叔父は名古屋の東海学園を卒業している。海部元総理や木村太郎さんの通っていた学校だ。私の父もそこを出ているのに、そういう助言を与えてくれなかったのは寂しい限りだ。私は高校まで公立に通った。

そういえば24日には母校都立新宿高校の同窓会が大々的に開かれたはずだ。府立六中時代からの卒業生が集まるのだから、お歴々がそろったに違いない。その世代は都立高校出身者も結束が固かったのだろうか。もっともある時代まではみな東大に進学していたのだから、同じ道を歩んだ人も多かったに違いない。エコノミストの紺谷さんは新宿高校の先輩だが、話を聞いていると、官僚や企業人でそれなりのポストに、高校の同級生がついている風だ。学生運動の嵐が吹き荒れた後に入学した私たちは骨抜きにされ、何にも考えないノンポリ集団だった。私の同学年も卒後も交流はあるのだが、社会を変革しようなどと考えなかった日々のツケで、社会にインフルエンシャルな仕事についている人は少ない。有名どころとしては、中村敦夫さんと坂本隆一さんがいるが、いずれも全共闘の洗礼を受けた世代である。

そして今日は駒沢のロータスロードのオープニングだ。246・駒澤の交差点を公園側に左折し、左側にそのワインバーがある。あいにくの雨なのに大盛況だ。入り口から所狭しと花が並んでいる。しかも芸能人から贈られたものばかり。それもそのはず、この店のオーナーは小川知子さんだからだ。

知子さんは若いころから芸能界で活躍されていた。私にとっては80年代ドラマで活躍された姿が最も強烈だ。当時キャリアウーマン役は彼女が独り占めだったし、「金妻」も印象深い。当時、六本木の美容院「フロムニューヨーク」でお見かけしたときは、眩しくてドキドキしたものだ。

それにしても花の贈り主が芸能界の大御所ばかりで驚いてしまう。私が子供の頃から歌手としてテレビに登場されていた知子さんの同級生は、みな第一線で活躍されているのだ。

その知子さんをなぜ私が知っているかというと、ご主人の伊東順二さんが「ナイトジャーナル」にゲスト出演してくださったのがきっかけである。その日のゲストが美術評論家の伊東さんとわかると「エー目が覚めると横に小川知子が寝てるの?」と若い男性スタッフが一同に羨ましがったのを覚えている。

相変わらず美しい知子さんは皆さんとのご挨拶に忙しい。店内にはカラフルなアクセサリーが並んでいる。他ではみかけないデザインなのに、値段は手ごろ。ちょっと、そそられる。

ようやく知子さんが気づいてくれて一言。

「あーどうもォ。あら、このスカート私のと同じよ」

その日は雨で肌寒く、昨年のオークスで高木さんに「変わっている」烙印を押された例のイッセイの赤いスカートを穿いていたのだった。

その後、坂田栄一郎夫人みつまめさんと一緒に自由が丘に繰り出し、中華をいただいた。来年5月に写真展を開かれるという。私自身はサントリー宣伝部時代、坂田さんとは二度お仕事をご一緒している。一度めはユーミンの、二度めはアートディレクターの石岡怜子さんのご指名だった。おかげで『アエラ』創刊以前から坂田さんと面識のある私だが、彼をずっと陰ながら支えていらしたのは妻のみつまめさんだ。パーティでお目にかかることはあっても、じっくりお話するのは今日がはじめて。馴れ初めをきっちり聞き出して、またまた感動してしまった。

2003年5月25日

晴れてうれしいオークスの日

25日の日曜日はオークスにでかけた。JRAのご招待で、熟女集団が馬主席で美しい馬にみとれつつ賭けるのである。

新宿西口で集合し、貸し切りバスで府中競馬場に連れて行ってもらう。目的地は私たちの世代はユーミンの「中央フリーウェイ」でおなじみの「右に見える競馬場」である。ちなみに「左はビール工場」のビール工場には、サントリーに入社が決まった12月、研修をかねて工場にでかけている。

私はサントリーに入社するまで、ビールが大嫌いだった。小学校5年生のときに社会科見学でアサヒビールの工場にでかけ、死ぬほど臭くて強いホップのにおいに、頭が痛くなったのだ。以来、父が食卓でビールを飲んでいるだけで、ホップの匂いが私の鼻を直撃し、不快になったものだ。

しかし、サントリーに入社した以上、ビールは宴会のイニシエーションみたいなものだ。恐る恐る工場に出かけたのだが、行ってみて驚いた。工場内でホップの不快な匂いはほとんど感じられないし、出来立てのビールの美味しいこと!11年も経てばブリワリーの技術が進んだのか、それともサントリーが特別だったのか。おかげで今でも私はビール党、お腹は大きくなるばかりである。

さて、オークスに話しを戻そう。昨年、エコノミストの紺谷典子さんにお誘いいただいて初デビューを飾った。木元教子さんと高木美也子さんもいらしていて「スパモニ」の女性コメンテーター勢ぞろいモードだった。他には神津カンナさんや山東明子さんなどがいらして、馬を見ながら紺谷さんに小泉政権の経済政策が正しいかどうかを聞いていらした。

チケット売り場で柳瀬さんにお会いした。「フィネガンス・ウェイク」を翻訳されたばかりの柳瀬さんには「ナイトジャーナル」にご出演いただいた折にご縁ができた。『レーニン像を倒した女たち』の出版記念会にも来ていただいたが、お目にかかるのは実に久しぶり。版画家の山本容子さんも石川せりさんと一緒にいらしていて、みなで寿司屋に繰り出したのだった。

で、今年はというと、紺谷さんはお忙しく欠席。句会のメンバーから黛まどかさんと増田明美さんに声をかけたが、二人ともスペインと北海道でNG、姫野カオルコさんは欧州に行かれる前で、高見恭子さんも日曜日はベビーシッターの都合がつかず、結局、女性編集者を誘ってでかけた。

前日間で心配された雨にふられることなく、今年のオークスはスタートした。中村うさぎさんが競馬に強いホストを連れてきていたのが目立った。彼の賭け金は5万以上で、我々とは桁が違う。最終的にはどのくらい稼いだのか摩ったのか、ちゃんとは教えてもらえなかった。小林カツ代さんもいらしていた。最近はいろいろな会でよくお目にかかる。女優の富士真奈美さんと吉行和子さんがいらしていた。吉行さんがお召しになっているジャケットは鳥居ユキさんのものだ。それに高木美也子さんの姿が・・・。

「今年もまた変わったスカート穿いてんのね」

と例の大きな声で豪快に笑われた。

今年、私が穿いていたのは、ミラノで調達したモスキーノのピンク・ストライプのバルーンスカートだ。彼女が「また」と呼んだのは、昨年はイッセイ・ミヤケの赤いバルーンスカートだったからだ。これは何箇所もつまむ形の縫製で、どこに着ていっても、年配の女性たちが「面白いスカートね。どうやって作ったのかしら」と触りにやって来る代物である。

で、高木さんに帰り際、尋ねてみた。

「どうでした?」

「4万円!」

「え、4万円儲けたのですか?」

「違うわよ、摩ったのよ」。

ちょっと安心。私も1万円ほど摩ったので、落ち込んでいたからである。来週のダービーに賭けて今日の分を取り返せないかな。

家に戻って占いの本を見ると、「今年は浪費がちになり、ギャンブルに走る年」とある。まずい、まずい。日本のみならず自分も不景気なのに、すでに消費行動が例年になく激しい。賭け金は小額にしておかねば・・・。

2003年5月16日

大人になろうよ

金曜日は東京新聞コラムの原稿の締め切り日である。いつも余裕を持って提出したいと考えているのだが、刻々と変わる情勢の変化や事実関係の確認作業に追われて、どうしても締め切り間際に提出することになってしまう。

今回もそうだった。SARSは“有事”であり、内閣に対策本部を置くべきだという提案をするにあたって各省庁に電話取材を重ねたら、果てしない時間を費やすことになってしまった。

その最たるものが厚生労働省とのやりとりだ。私の考えが杞憂にすぎず、すでに策が講じられていては申し訳ない。そこでいつくか確認をとろうとしたのである。たとえばSARSと疑わしき症状が出た患者はどこにアクセスしたらよいのか、現状では不親切なのでわからない。空港で各都道府県の窓口リストを配ってはどうかと聞いてみると、「それは検討しているが、間に合っていない」という。他にも質問を投げかけると「素人に余計なことを言われたくない」と怒り出す始末である。この高圧的な対応は、懇切丁寧な都道府県の窓口とはあまりにも対照的だ。厚生労働省は中央から行政指導する立場であって、民意を反映しようという意識はないことが露骨に伝わってくる。

細かい事実関係の確認が終わってようやく解放された私は、友人との待ち合わせ場所に急いだ。私が会おうとしたのは、大学時代から縁があった恵さん、現在は某女性誌の副編集長を務めている。彼女と私は同じ大学に通っていたわけではない。けれども、学生時代それぞれESSに属していた私たちは、あるイベントを通して知り合った。たしか「オープン・ディス」と呼ばれていたと記憶しているが、他の大学のESSと交換でディスカッションをするイベントが定期的に開かれていた。たとえば「安楽死」などをテーマに、英語で自分の意見を述べて話し合うというものである。

ESS に入る人のほとんどは、留学経験などはなかった。むしろ今は話せないが、英語を手段として自分の考えを伝えられる人になりたいという志を掲げて入部する。大学に席を置くのだから、クラブ活動を通して英語力を身につけたいという人々が集まっていたのだと思う。少なくとも東京女子大QGSはそうだった。

「オープン・ディス」は年に数回開かれていた。8人ずつくらいに分けられるので、同じテーブルにならない限り深く話すこともない。特に一年生のときには不慣れで不安。新参者同士、軽いライバル意識も含めた不思議なシンパシーを抱いて、一年生の存在が記憶に鮮明に残るものだ。中でもはっきりと覚えているのが恵さん。あとは俳優の塩谷君とも別の機会に同席した。あのうつろな眼差しと、何かあったらいつでも「SHIOYA」を思い出してね、と寄せ書きに書いたメッセージが個性的で印象に残った。現在、二人ともがメディアの中で活躍しているところを見ると、当時から原石はすでに輝きを放っていたということになる。

恵さんと友人としてじっくり話すのは実は19年ぶりかもしれない。3年前に一度、時間を共有したときは仕事の延長だった。20代半ばで彼女が大きなおなかを抱えていた姿は記憶に鮮やかだが、その時の息子さんがカナダに留学しているとは。人を育て上げた彼女の余裕が、私にはとても眩しく思えた。

この年齢になると、子育てを経験した女性はどっしりとしていて圧倒される。そして、どこか温かい。自分を犠牲にして子供の欲求を引き受けざるを得なかった日々が彼女たちを強く大きくしたのだと思う。もっとも誰もがそうした包容力を持ち合わせられるものではなく、恵さんは志が高く、年齢とともに上手に成熟していったからに違いない。副編集長というポストも彼女に別の忍耐力を与えたのかもしれない。本人も「私って意外と後輩を育てるのが好きかもしれない」と語っていた。

高校や大学の同級生の中には、他人の評価でしか自分を測れず、子供を見栄の道具にしてしまっている人も少なくない。そう女性たちと話すと、自己中心的で疲れてしまう。彼女たちが求めているのは、自分を肯定し、自分の生き方正当化してくれる存在なのだ。

7年ほど前、こんなことがあった。もう何年も話していなかった友人から夜中に電話が入り、夫を非難する話を一通り聞かされたのだ。子供のお受験に自分が必死になっているのに、旦那が同じボルテージにならず冷たかった、受験の失敗は夫の不熱心さにあるというのである。

こういう時、私の任は別の角度から光をあてて楽にしてあげることだと常々考えている。その夜も彼女が発想を変えれば、夫への不信感を払拭できると信じてこう話してみた。

「そんなことでご主人を責めちゃかわいそうよ。お受験は宗教みたいなところがあるから信者にならなかったご主人と貴女の間にはギャップがあるのは仕方ないよ。オウムの例でもわかるじゃない。麻原を信じている彼らを、外にいる私たちは理解できないでしょ」。

この瞬間、彼女はいきなり怒り出したのだった。オウム信者と自分を一緒にしたというのが、怒りの理由である。挙句の果てに「子供のいない貴女に話をした私が間違っていた」とまで言われてしまった。じゃあ、最初から私に電話してくるなよ、と思わず言い返したくなる。なんて失礼、“自己中”きわまりない人だろうか。

以来 7年、私は彼女が出席する会合を遠ざけ、電話も長くならないようにしている。どうやら彼女は他の友人たちの間でも重たい存在になっているようだ。

あの電話で彼女は自分が否定されたと感じたに違いないが、思えば「素人に余計なことを言われたくない」と怒った厚生労働省の役人も同じだ。自分が肯定されなかった時にいきなり牙を向く点では、昨今起きている不可解な犯罪と通じるものがある。悲しいことだが、日本人はどんどん幼稚になっている。

できれば友人たちには素敵でいて欲しいと思う。だから、もしも夫を亡くした友人がいれば、彼女のために仕事を探して奔走するし、ハンディを背負いつつ前向きに歩こうとしている人たちのことはいつでも応援する用意はある。けれども、お子チャマたちの自己正当化に付き合うのは御免だ。私ももう若くはない。残された人生、成熟した人々とお付き合いしたいと考えるのはワガママだろうか。

40 代も半ばなんだから、せめて同級生にはこう言いたい。

「みんな、そろそろ大人になろうよ」

2003年5月5日

ピアノの発表会

まもなく6歳になろうとする姪のピアノの発表会を聞きにいった。場所は新宿中央公園の近くにある区民会館だ。最年少で習い始めて一番日が浅い姪の名前はプログラムのトップに載っている。

迷ったのは花束をどうするかである。私の時代にも、弟の時代にも、子供の発表会ごときに花束は渡さなかった。愛すべき姪のためには演奏後、小さなブーケを持ってステージに駆けつけてみたい気もする。しかし、一番手の彼女だけが受け取って、他の子供が追随し泣ければ、姪だけが浮いてしまい、後でいじめられるかもしれない。子供のいない私には迷う瞬間である。

結果、ビデオ片手に花束は購入せず、会場に向かった。すると、後からやってきた人々は手に花を持っている。ブーケと呼ぶには簡易な数本の花を持っているのだ。どうしよう。

そこへ義妹の妹が小さな花を持って入ってきた。演奏後、ステージで渡してもいいかどうか確認している。どうやら、この先生の発表会では花を贈るのは恒例らしい。一番手とはいえ、これで姪は

驚いたのは、みながそれを受け取ることに、あまりに慣れていることだった。演奏が良かったかどうかに関わらず、儀式化していることさえ気になる。

本来、ピアノのお稽古は演奏を楽しむことを教えるべきであり、発表会は演奏を通して人を感動させるものだということを体験させるべきものだと思う。しかし、日本では頑張って練習したものを発表する場になっている。まる暗記を奨励する勉強の成果を競う受験の前哨戦のように存在している。

先日、ミラノで会った友人によれば、欧州の教育は全く違うという。フランスの小学校では、美術の時間に名画について、その画家の人生と絵のテーマについて論じた後、美術館に本物を見に行くのだそうだ。もちろん、それだけの名画が常に美術館に存在するフランスと日本の違いはある。けれども、私が小中学校で受けた美術の授業では、作者の人生や時代背景についての解説を教師から教えられた記憶はない。

NHK で放送されている「課外授業ようこそ先輩」で、その道を極めた人が母校で教える様子は教育の理想だとは思う。しかし日本の学校教育がそこまで到達するには数十年を要すると思うが、少なくとも芸術などのお稽古事は、表現することの醍醐味を教えるべきであり、親も先生を選ばねばなるまい。

そうは言っても、初の姪の晴れ舞台。他の生徒が演奏中に花屋に走り、第二部・連弾の演奏後、私は舞台の姪に花を渡したのだった。

2003年4月23日

六本木ヒルズ

六本木ヒルズのプレ・オープニングに行ってみた。あまりの人ごみに圧倒された。正式なオープンは2日後だというのに恐ろしく大勢の人々が押し寄せている。エスカレータの乗り降りでさえ、すし詰め状態だ。景気がよかった時代、お中元商戦真っ盛りのころのデパートに匹敵する。

かくも大勢の人々を集めたのは、各店舗が一斉に関係者を招待しているからだ。しかし、その招待状を持たない人間は、六本木ヒルズの中には入れない。入場者のチェックは厳重に行われている。そこに集まっているのは、「選ばれた人」なのである。人によっては、数箇所から招待状が届いていて、それをこなすのが大変なのだという。昨日、アントワープ・ダイヤモンド銀座店のオープニングに呼ばれた際、そこに集った著名人がそんな話をしていた。高見恭子さんのところには 10通近く、デイブ・スペクター夫人はホテル・グランドハイアットのレセプションに行くのだそうだ。その言葉どおり、六本木ヒルズを歩いていると、高見さんにばったり会った。彼女の紙袋は、招待状を持つ人にのみ贈られる記念品でいっぱいだ。同じく安藤和津さんもにも遭遇した。「8時から仕事なの。それまでに全部こなすの大変なんだから」と言いながら、招待を受けた店をすべて駆け巡っていた様子だ。

なにせ六本木ヒルズは広い。東京ドーム8個分と言うだけのことはあり、歩きまわるだけで十分に痩せられる。レイアウトがよくわからない分、余計に広く感じるのかもしれない。初めてディズニーランドにやってきて地図を片手に迷ったときと似ている。よその大学の学園祭に呼ばれて、あちこちの模擬店を訪れた学生時代も思い出される。そう、ここは一種のテーマパークなのである。

壮大な映画館には、多くの芸能人が招待されているらしい。椅子の作りなど贅沢にできていると評判だ。しかし、私自身は深夜上映もしていた「シネ・ヴィヴァン」が存在していたときの六本木のほうが好きだ。WAVEの地下にあった「シネ・ヴィヴァン」は知る人ぞ知るヨーロッパのいい映画をたくさん上映していた。グルジアの奇才・パラジャーノフ監督の映画を見たのも「シネ・ヴィヴァン」だった。たしか放送大学の高橋和夫先生も一緒だった。イランに詳しい先生が、パラジャーノフのことを教えてくれたのである。

森ビルは17年前からこのプロジェクトを進めていたという。ある日突然、WAVEがなくなると告知されるまで、恥ずかしながら私はそのプロジェクトを知らなかった。旧テレビ朝日も壊され、麻布十番からつながるのだと聞かされても、どれほどの変貌を遂げるのか、当時は検討もつかなかった。ここまで未来都市さながらの空間になってしまうとは。再開発とは聞こえがいいが、私の知っていた風景はすっかり消えてしまったのである。高層ビルにさえぎられ、ここのエレベーターホールから眺めることができた東京タワーはもうない。六本木駅から西麻布交差点に向かうまで、地上をまっすぐには歩けない。途中、エスカレータで二階に上がらないと、道を渡れないのである。麻布警察の向かい側にあった鈴木酒店は六本木ヒルズに移動すると貼り紙があった。繁華街にありながら、どこか下町の匂いを残していた六本木の人々の営みをすべて飲み込んで、六本木ヒルズは誕生したというわけだ。

丸の内や汐留の再開発に比べ、六本木ヒルズは宣伝が上手く、ずいぶんと話題になっている。昨夜の式典には小泉総理や石原慎太郎東京都知事も招かれている。その様子はニュースでも流されたが、それ以外にも式典があったそうだ。

「うちの主人は8時からなのよね」とは、最初の式典に出席した建築家の友人が隣に座った大宅映子さんから聞いた発言だが、どうやら式典の招待客にもランクがあるらしい。

森ビルの立ち退き要請を承諾した六本木の住民たちは、どの式典に招かれたのだろう。そんなことを思いながら、昔のたたずまいを残す店を一軒一軒確認しながら、西麻布へと歩いた。

2003年4月19日

金毘羅で句会デビュー

かねて俳句に興味があった。アートディレクターの浅葉克己さんが娘さんと開いた個展のオープニングで辰巳琢郎さんに会い、ある句会に参加することにした。彼とは20代から縁があり、幼なじみのような存在だ。

百夜句会と名づけられた、その句会は恋愛の句を詠むことが条件で、主宰者は黛まどかさんだ。メンバーは辰巳さんのほか、増田明美さん、わたせせいぞうさん、坂東三津五郎さんなどである。今回は坂東さんが「四国こんぴら歌舞伎大芝居」に出演中なので、皆で金丸座にて「三人吉三」を観た後、句会が始まるころになっている。特別の日に参加できて、私にとってはなんとも幸運なデビューとなった。

国の重要文化財の指定を受けた金丸座は金毘羅宮のある象頭山のふもとにある。1835年(天保6年)に立てられ、現存する歌舞伎劇場としては日本最古の建物である。1976年に現在の場所に移転・復元。人力で動かす「廻り舞台」や「せり」などの舞台装置が江戸時代のまま残されている。昔ながらの観客席と舞台が「高窓」と呼ばれる明かり窓から差し込む光の中で浮かび上がり、「三人吉三」にはぴったりだ。通し狂言『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は同じ「吉三」という名前を持つ三人の盗賊の因果を描く、黙阿弥の名ぜりふに彩られた名作だ。市川團十郎を座頭に、中村時蔵がお嬢、坂東三津五郎がお坊を演じる。お坊吉三は三津五郎さんにはまり役だ。

いやあ、歌舞伎はこうでなければいけない。

「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の切符は旅行会社に買い占められ、正攻法で切符を手に入れることはかなり難しい。かぶりつきの席で観られるのも、ひとえに三津五郎さんのおかげだ。せっかくだから江戸の町娘風の着物を着て楽しみたいもの。翌朝には金毘羅詣を控えているので軽装姿でやってきていた。日ごろ運動不足の私が1500段も上って奥の院にたどり着けるものかどうか。讃岐うどんもたらふく食べたい。高松までやってきたのだから、やってみたいことがいっぱいだ。東京近郊にこんな芝居小屋があれば、もっと落ち着いて楽しめるのに。

さて、観劇の後はいよいよ句会である。事前に4句、芝居を観て1句考えておくことになっていた。恋の句であることが、この句会の特徴だ。なにせ新人なのだから、その場で考えるなどと器用にはこなせない。朝早く起きて考えることにした。恋をテーマにといわれれば、作詞を手がけていたころを思い出す。5・7・5におさめる作業は、曲を渡され、言葉をはめ込む作詞と作業が似ている。春の季語が入れば成功だ。

句会では作者を伏せて句を書き出し、各自がお気に入りの8句を選んでいく。その行程が一番楽しいのだと思う。そして発表――。私のデビュー作はいずれも人気だった。これもビギナーズ・ラックというべきか。正確な結果は2ヶ月後の句会で渡されるので、その際に公開しよう。 

今日は生まれて初めて作った、記念すべき5句をここに披露する。

春の季語で恋の歌を4句

    くちびるを重ねし髪に花吹雪

    君の香をしばしとどめん春の雷

    逃げ水を追うて二人のフェルマータ

    声かなた見上げて同じ春の月

こんぴら歌舞伎を見て一句

    盃や因果はめぐる朧月

2003年4月14日

モスキーノ

モスキーノの新しいショップが表参道骨董どおりにオープンし、そのレセプションパーティに出席した。

久しぶりに高見恭子さん、久保京子さん、秀香さんにお目にかかり、思う存分「フェラーリ」を味わった。やはりスプモンテはこれが一番だ。

朝の情報番組の一番は「スパモニ」、と言いたいところだが、視聴率トップの裏番組は「特ダネ」だ。その取材をかねてドン小西さんもいらしていた。彼は西麻布の住人で、コンビニや横断歩道でよくみかけていたが、今回、初めてじっくりとお話させていただいた。実に愉快な人だ。

「モスキーノもね、昔はもっと個性があったんだけどね」

と少し残念そうな口調で話したかと思うと、

「モスキーノは僕と同じ歳なんだよね」と自慢げに語る。

たしかに昔のモスキーノはもっと冒険があったように思う。それにもう少し、大人の服だったと記憶している。それが若者にも気軽に着られるデザインになって裾野が広がった。定番のハートに加え、ポップな花柄も種類が豊富になって、スーツなら仕事でも着られるのは楽しい限りだ。可愛いのに大人の色気を漂わせるモスキーノはお気に入りである。

私は子供のころから着道楽で、我が家は靴と洋服であふれている。玄関の下駄箱と寝室の棚にはパンプス、ブーツ、サンダル、草履がぎっしりと詰まっているし4畳の部屋にポールを5本打って、クリーニング屋さんのように服をつるしている。そこへ母の遺品の和服を桐の箪笥2棹とともに置いているというのだから、クローゼットを通り越して、テレビ局の衣裳部屋状態だ。

かつて西麻布の13畳半のアパートに住んでいた頃も大変だった。寝室はベッド以外、すべて洋服と靴やバッグで埋め尽くされていたのだ。衣裳部屋にベッドを置いているという表現が正しいかもしれない。当時、番組で共演していた森永卓郎が一言、「じゃあ、一部屋が芸能人で、もうひとつが作家の部屋なんだね」。実にうまく言い当てている。もう一部屋は、台所兼仕事場で、食器棚と本棚デスクでいっぱいになっていたのだ。おかげで洗濯機を置くスペースはなく、下着などは手洗いで、シーツなどの大物のために、六本木のコインランドリーに通っていた。その後、代々木のマンションに移って洗濯機を手にしたときには、嬉しくて嬉しくて毎日洗濯に明け暮れたくらいだ。

靴は木型との相性からシャルル・ジョルダン以外は受け付けないのだが、洋服の好みには変遷がある。流行に左右されないつもりだが、テレビに出るようになってからは、やはり時代の空気を反映している。

80年代半ば、「CNNデイウォッチ」でデビューした頃はノーマ・カマリとインゲボルグに、 NHK「ナイトジャーナル」の頃はT・ミュグレーとアイスバーグにはまっていた。ノーマ・カマリとミュグレーは、肩パットが大きくてウエストがしまっているのがお気に入りの理由だった。

ショルダーバッグがすぐに落ちるほどなで肩で童顔の私には、年齢を上に見せ、キャスターとして信頼されるためには肩パットが必需品だったのだ。子供のころから「お月さまにみたいにまん丸のお顔ね」といわれて傷ついてきた私は、テレビでの苦労が耐えない。ただでさえ横に広がるのだから、縦長に見せるために、前髪を立て、あごより下まで毛を伸ばし、襟のつまった服は絶対に着ない。何度か洗剤のCMオーディションに呼ばれたことがあるが、モニターに映った自分に驚いた。ライトのせいで実物以上に映っているのに、まるでアニメなのである。生活感がまるでない。これじゃ、選ばれるわけがない。そんな私がニュースを伝えるのだから、髪型と肩パットで迫力をつけるしかなかったのである

バブルがはじけてしばらく90年代前半まで、日本経済はまだまだ強気だったと思う。それを反映して、女性キャスターも、前髪を立てて肩パットの入った服が主流だった。いかにもバブルの象徴であるこのスタイルは台湾や東南アジアに飛び火して、日本で飽きられた後も数年、あちらの女性キャスターは一様にそのスタイルを踏襲していた。

一方でフェレッティやインゲボルグの花柄と、ディズニーのキャラクターをモチーフにセーターを作っていたアイスバーグにも惹かれていった。背伸びをした反動もあって、私にとっての癒しのアイテムだったのだ。 

イッセイ・ミヤケのプリーツプリーズを着るようになったのは、関西テレビ「ワンダラーズ」で大阪に通うようになってからだ。それまでプリーツプリーズというと、広告やデザイン系のパーティで、40代以上の女性たちが制服のように来ている服という印象しかなかった。誰もがあのプリーツ地の黒一色でその身を覆っているのが気持ち悪かったのだ。ところが、「ワンダラーズ」のスタイリストだった山崎氏がイッセイの鮮やかなオレンジのシャツを用意してくれて考えを改めた。実はプリーツプリーズには恐ろしい多くの色やデザインが存在したのである。しかも、皺にならずに洗濯機で洗えるのだ。いや、むしろ熱に弱いためドライクリーニングは良くない。洗濯機を購入したばかりの私が入れあげるには、十分すぎる条件が整っていたというわけだ。

最近はプリーツプリーズよりイッセイ・ミヤケ、それにモスキーノ、アンナ・モリナーリ、ユキ・トリヰにはまっている。サイズがぴったりというだけでなく、アーティストとしての技術にほれ込んで投資しているという感覚である。

とはいえ、デザイナーのこだわりも、経営が成り立たなければ続かない。T・ミュグレーが今年の春夏コレクションで引退したというニュースを知って衝撃を受けた。LVMHの傘下に入ったブランドとは対象的だ。モスキーノもユキ・トリヰも若者路線に転じていることと無関係ではないのだろう。

20年前の服も捨てることなく、ひたすら溜め込んでいるのだから、我が家は狭くなるばかり。食道楽は年齢とともに控えめになりつつあるが、着道楽だけは誰にも止められない。私が預金に向かない理由は、どうやらここにありそうだ。

2003年4月10日

SARS②  成田の検疫

帰りの便で再び要注意モードに切り替えた。機内で配られた英字新聞にはSARSを細菌兵器に見立てた記事が掲載されていた。

パリから東京へ帰る便もいっぱいだった。4月15日まではエアフラが格安料金で利用できるせいだろう。パリを夜中に出る便にはフランス人も少なくない。彼らは東京で乗り換えてニューカレドニアに向かうのである。

「マスクはSARS対策ですか」

隣にすわったお嬢さんが聞いてきた。彼女はパリに留学してそのまま現地企業に就職した日本人だ。広州の友人とメールでやりとりしたところ、公式発表よりもずっと感染者が多いそうだと教えてくれた。

「臭いものには蓋をしろ」とは旧ソ連の体質だった。そこは中国も同じである。自分の責任を問われるのが怖い官僚たちは、情報公開など考えない。ところが、一歩外に出れば、グロバリゼーション。経済活動だけでなく、SARSもあっという間に世界中に飛び火する。恐ろしい時代だ。

SARS パニックを通して現在の中国が抱えている矛盾が露呈した。中国はグロバリゼーションの波をつかみ、すさまじい勢いで経済発展を遂げている。一方で、国内、とりわけ地方の官僚体質はそのスピードから取り残された感がある。2008年のオリンピックを控え、常に国際社会に目が向いている北京の中央政府とは対照的だ。地方の村々では衛生事情も悪い。人と物の往来が激しい分、SARSも自由に移動する。なのに医療体制は世界水準からほど遠い。日本でさえもアメリカよりも10年は遅れているといわれているのだ。半年前、 SARSが最初に欧米社会で発見されていれば、いまごろワクチンも開発されていた可能性が高いという。

いずれにしても人の流れは誰にも止められない。ならば水際でどう止められるかにかかっている。だとすれば、一番重要なのは空港だ。厚生労働省がどう対処しているのか、私は非常に興味があった。

ところが、機内アナウンスを聞いて驚いた。「今回の旅行で東南アジア、アフリカを回られた方は検疫所で申告してください」。ちょっと待って。これではいつものアナウンスと同じだ。香港、台湾、中国は入っていない。SARSを意識するのであれば、東アジアに言及すべきではないのか。

検疫所も静かなものだ。いつものイエローカードを渡されるだけで、何も言われない。いくら欧州便だからといって、それ以前に中華圏をまわっていない保障はない。水際で止めずしてどうするのだ。こんな調子では、もう日本人の中にもSARS感染者は存在しているに違いない。

そもそもイエローカード自体がいい加減なのである。何か症状が出たら、どこの病院に行けばいいというリストが記されていないのだ。これには苦い経験がある。

1996 年夏。インドネシアから帰国してからしばらくして、私はおなかを下した。私の体質から、こういう事態は滅多にない。あるとすれば海外での水が原因だ。最初はセネガルの旅で、次は中国沿海部の旅の途中、次はバリ島から帰った時である。少しでも現地の人の生活に近づこうとする姿勢から、現地の人々の家庭で食事をするうち、水でやられてしまうようだ。

その夏もジャカルタでメガワティに初めて会い、帰国したばかりだった。現インドネシア大統領のメガワティは当時、民主化運動のシンボルで、ミャンマー(ビルマ)のアウンサンスーチーさんのような存在だったのだ。一方で日本国内ではO157が流行していた季節である。私は『ワンダラーズ』収録のため週に一度、大阪の関西テレビに通っていた。私のハラグアイが悪くなったのは、水が原因だけとは限らない。

とりあえず、病院に行こう。と思い立って向かったのが、港区広尾にある日赤病院だった。

無知だと笑われるかもしれないが、日赤はどちらに対しても万全だという思い込みがあったのである。以下は初診の受付で、若い女性の事務員とのやりとりだ。

「あなたはインドネシアに行っていたんですね。じゃあ、成田でイエローカードをもらったでしょ。風土病の可能性のある人を、隔離病棟のない日赤で見るわけにはいきません。都立荏原病院に行ってください」

「荏原病院ってどこにあるのですか」

「五反田です」

「すでに11時になろうとしていますが、今から行っても受け付けてもらえるのですか」

「そんなことは、こちらの知ったことではありません。自分で調べてください」

「じゃあ、今から行って、もしも診察できないと拒絶されたら、私はこの週末どうしたらいいのでしょうか。風土病という保障はないのですよ。O157だったら、私はこの週末、薬ももらえずに七転八倒しなければいけないのですか。風土病と診察されたなら、私の責任で荏原病院に向かいます。なので、診察だけでもしていただけませんか」

「できません。厚生省の指導で、イエローカードの人を診ることはできないのです」

「イエローカードには、日赤が受け入れないとも、荏原病院に行けとも書いてありませんよ。言わせていただきますが、厚生省の三文字を振りかざすことが私たちにはいかに無意味か、おわかりではないのですか。あなたたち病院関係者には絶対でも、私たち国民には何の威力もありません。むしろ薬害エイズ問題で、不信感のかたまりです」

ここまで私が言った段階で、近くにいた男の事務員が「じゃあ、診察だけ」と手続きを促した。診察を担当した医師も看護師もきわめて手際よく、O157の検査を行い、結果、風土病でもO157でもなかった。ただ水にあたっただけだったのである。しかし、タイミングが悪かった。当時の関西におけるO157ショックは、SARS恐怖に陥っている中国の状況に似ているように思う。

問題は成田の検疫である。イエローカードには、帰国後、何か症状が見えてきたときには、どこの病院に行くべきなのかを明記しなければいけない。日赤が受け入れないなどと誰が想像できたであろう。次に人が思いつくのは、東大のような国立大学の病院だ。都立荏原病院の名前を知らない人々も大勢いるのだ。空港の検疫所では各都道府県の受け入れ病院に電話番号書くべきだし、検疫所でもポスターとアナウンスで、受け入れない病院があることを知らせなければいけない。

SARS については、国立国際医療センターが受け入れ病院として名乗りを上げた。今日の放送で私はその名前を連呼したが、

おそらく他人事としてしか捕らえていないうちは届かないだろう。こういう事象に対して自分が無縁のうちから、シミュレーションする癖がつくようになると、日本人ももっと強くなれるのだが。