母の死を乗り越えて

一年前に息を引き取った友人の墓に花を手向けた。59歳の若さだった。

ジャカルタのはずれにある霊園は、道路をはさんで、カトリックとイスラームに分けられている。イスラームの墓に手を合わせるのは初めてである。からだが横たわっているであろう長方形に芝が植えられ、頭部に置かれた墓石は黒御影。アラビア文字とローマ字が彫られ、ゴールドが施されている。花は黒御影の前に1箇所。胸から下の部分に花びらを蒔く。

イスラームでは死後24時間以内に埋めなければならない。その様子を撮ったビデオも見せてもらった。ぐるぐる巻きにされる様子は少し痛々しく、映画「おくりびと」が海外で受けた理由がわかった気がした。

3回も結婚して、母の人生は充実していたと思う。そう言う31歳になる娘と、友人の思い出を語りあった。彼女は映画の仕事に携りつつ、母の経営していた美容院そしてエステをしばらく続けるのだという。何か心配ごとがあっても、母の顔を見るだけで50%問題解決だったのに、いまは自分で決断せねばならない。母には他を圧倒するゴッドマザー的魅力があった。娘はその母のカリスマ性にはとても追いつかないと自覚しながら、こんなとき母ならこう言ったに違いない、と従業員のマネジメントひとつでも、シミュレーションをしてみるのだという。

私の場合は、母を失った途端、いきなり残された父と向き合わうことの難しさを突きつけられて苦しんだ。彼女の場合は、庇護してくれた存在を失っただけでなく、経営者としての試練が待ち受けていたというわけだ。

この一年、彼女は母の喪失感と闘いながら、しかし、母を思い出し真似てきたのだろう。父親似だったはずの顔が、次第に母と同じになりつつある。

本当の敵は組織の論理

昨日、全国戦没者追悼式の模様をNHKBSで見た。ここジャカルタの朝は曇っていたが、東京はどうだったのだろう。

玉音放送が流された65年前の今日、東京は晴天だった。戦地に行かず、本土を守った女性や子どもたちは、開放感に満ち溢れていたという。これでもう空襲に怯えることもない。新しい未来が始まるのだ――。

 夜間無差別爆撃と原爆投下。本土でかくも多くの命が犠牲となった陰には独立をかけた「空の男たち」の執念ゆえの成果主義があった。アメリカは30億ドルをかけてB29と焼夷弾を開発した。成果を出さねば、悲願の独立が達成できない。結果、日本でもドイツでもの尊い市井の人々の命が失われたのだ。

「ミラノは壊滅状態にされた。あそこまでやる必要があったのか」 同じ宿に泊まるイタリア人がポツリと言った。

同様に、日本が戦争に邁進していき、バランスを失っていくのは陸軍、海軍ともに、組織の論理に引きずられたからである。組織の論理に縛られたとき、一人一人の良心は無力だということを平時のいまこそ、肝に銘じ、不戦の誓いとしたい。

2010年7月 受賞を祝う会

秋尾歩き
先日、日本エッセイスト・クラブ賞受賞を祝う会を開いていただきました。
この写真は、入場前に階段を下りるところです(山本倫子カメラマン撮影)。
青の変わり絽に描かれているのは、白銀の棕櫚に赤とんぼ。毎日新聞のインタビュー(2009年8月参照)と同じきものを着たのは、『ワシントンハイツ』のカバーを意識したため。本の帯は最初アイボリーでしたが、増刷がかかり、朱赤に変わったので、きものの帯も赤い面を多く出してみました。

バースデイ

昨日の誕生日は某イタリアンレストランで祝ってもらいました。

デザートワゴンに乗ってきたデザートの数々。ティラミスとピーチメルバを選んだら、ティラミスの上に2本、蝋燭が乗ってきました。

こういうときに限ってカメラを忘れ、携帯で撮影してもらったので、少しピンボケですが、このほうが若く見えるから、採用です。

山陰ゾーン切符

生まれて初めて周遊切符を買った。山陰ゾーンの中は5日間、乗り降り自由だ。山陰までを飛行機にするなら、この特典は得られない。最初からJRを利用するのが前提だ。しかも、ゾーンの入り口出口をあらかじめ決めねばならず、土地勘のない人間には、それが厄介である。

私は新幹線で岡山まで行き、「やくも」の「根雨」を出入り口とした。県立図書館の文献も気になり、出口は鳥取という手もあったが、これも結果論である。あとは東京の図書館から取り寄せればいい。後で気づいたが、寝台特急で朝、出雲市駅に着く方法もある。

最初は出雲大社。前日に下見に出かけた。出雲市駅からのバス往復も周遊切符でまかなえる。面白い。

驚いたのは、出雲市駅である。新幹線なみに近代的だ。しかも、駅前にはコンビニやビジネスホテルが乱立し、「らんぷの湯」まである。

 ホテルについては米子とあわせて後で書こうと思う。

       →ハニカムブログに書きました。公開は19日17時まで

   

山陰取材

先週末から出雲と鳥取の山間部を取材して歩いた。行事日程からこの季節になったのだが、暑いことこの上ない。今朝のニュースを見ていたら、日本の最高気温は山陰地方だった。

 鳥取との縁は、90年代に「週刊文春」誌上の県の広告ページで何箇所かを訪れた経験があるだけだ。自分で訪れるのは今回が初めて。土地勘がなければ、作業は海外のホテルをネットでブッキングするのと似ている。 

取材はラグビーボールを持つに等しい。行ってみるまで、どこに転がるかわからない。最初は引いていた人も、話し込むうち親しくなり、さらなる人脈・資料を提示してくれることもめずらしくない。そんな折、次の予定を決めてしまうと足かせとなる。

 そこで周遊切符のお世話になることにした。結果的には大正解。取材日程も延び、最終日には有効期限が切れてしまったほどである。

知のデフレスパイラル

国会中継を聞けば、がっかりするし、ニュース番組をみれば、つまらない政局ばかり。本質的なことを論じないから、つい見なくなる。

政局は少しでいい。それより、世界潮流の中で、日本がどうあるべきかを報じるべきなのではないだろうか。

政治家が小粒だからこうなるのか、報じる側にビジョンがないのか。政治もメディアも「知」のデフレスパイラルに陥っている気がしてならない。

戦後65年の今年、終戦をどう伝えるか。メディアの良心が、この夏、問われる。

遡って、調布花火大会

人のご家族のお招きで、先日の調布の花火大会を、パルコの上のホテルから見せていただいた。その際、お母様が用意してくださったケーキがコレ。孫のバースデイケーキはショートケーキだった。日ごろは火消しを拒む彼も、私とセットだったので、拒みきれなかったよう。

迂闊にもカメラを忘れた私は、花火の写真を撮ることができないまま。今年で3回目だが、調布の花火は毎年進化している気がする。牡丹や菊もいいが、個人的には椰子が気になった。