FRAU(女はいつも元気に決断する④)   1993年8月掲載

午後6時半を過ぎた頃、『ナイトジャーナル』の看板が掲げられたNHK番組制作局の一角では、その日の打ち合わせが始まろうとしていた。

「このテーマは少し難解かもしれない。わかりやすい説明が必要ですね」

すっかり下準備の済んだ内容に、この段階でさらに入念な検討が加えられていく。本番は月曜から木曜までの毎夜11時20分~12時。進行の状況によっては夕食をとりそびれてしまうことも少なくなく、すべてを終えて家に辿りつくのは、深夜3時、4時になるという。自然、知力、体力等、要求されるものも多くなる。

秋尾沙戸子は、春からこういったあわただしさを生活のリズムとして、番組のキャスターを担当している。

仕事。結婚。自ら勝ち得た女の勲章。

1957年東京生まれ。東京女子大学卒業後、洋酒メーカー宣伝部に勤務し、25歳の時に結婚退職。その2年後『CNNデイウォッチ』のオーディションを受けて、キャスターヘの道に進む。

「専業主婦になって、山のような時問を持て余さなかったら、今の職業にはついていなかったでしょうね。OL時代はかなりやりがいのある仕事をやらせてもらっていたんですよ。やることがなくなって、取り残された感覚を味わったのがきっかけと言えるでしょうか。あの時、初めて正面から人生を考えたのかもしれない」

それはさらなるキャリアのための転機でもあった。

「私が就職をした時は、男女雇用機会均等法も施行されていない時代で、4年制大学卒の女子には、選択できる職種も限られていた。女性にとって、仕事とは勝ち取らなければ得られないものだったんですよ。
幸い、宣伝部に配属されたことで、希望していたプロデュースの仕事をするチャンスには恵まれたんです。けれど、やりたいと主張した時、上司から〝君で失敗したら、もう二度と女性には仕事させない〟と言われましてね。以前、同じように希望した女性がやりかけた途中で体を壊してしまったんですよ。それで私がコケたらこの先の女性には仕事がないのだと、さらに必死にならざるをえなくなった。やりがいはありましたよ。でも女性社員が担当していた雑用から解放されるわけでもなかったし、キャリアのスタートは心身ともにハードなものでした」

お茶を入れ、机を拭き、やりたい仕事ができるのは事務的な仕事を深夜までこなした後。けれどそんな中でバレンタイン・デーにブランデーを贈る等、女性らしい発想から実施した数々のキャンペーンは予想以上の効果を上げもした。それまで男性だけが取り仕切っていた会議に女性の参加を認めさせるようになったり、彼女の業績は職場改革とさえ言われるものだった。

「普通だったら、そのまま仕事に突っ走るところでしょうね。実際、ノリに乗っていて、やめたい要素など何もなかったんです。

社内恋愛の末の結婚退職でした。当時は同じ職場に夫婦で働いていてはいけないという不文律がありましてね。上司が例外的に認めるよう人事課にかけあってくれたりもしたんですが、まずそこで仕事を続けるという勇気がなかった。それに、『山口百恵の神話』という時代背景も影響していたと思います。結婚したら仕事をやめるのがカツコいいという風潮で〝今度は支えてくれた彼のために〟という気になっていた。うちの親は、いわゆる出世コースをいくサラリーマンでしたから、いい学校を出て、いいお嫁さんになって欲しいという期待にも背きたくなかったんでしょう。

へんな生真面目さというか、優等生体質のひずみというか。やめるのが最良だと結論してしまったんです。」

けれど専業主婦の日常には、持て余した時間が連綿と続くことになる。早朝、夫を送り出せば、帰宅は深夜。効率を考えるのはお手の物であったから、日々の家事も瞬く間にやり終えてしまう。料理学校へ通い、最上級である師範科までを修了。フラワーアレンジメントの教師資格を取得。その他テニス、ゴルフなど、あらゆるチャレンジを試みるが、それらすべてを合わせてみても、空虚な時間が埋まることはなかった。

「定年退職をした人の心境というのは、こういうものかと思いましたね。それまでは〝こんなに仕事をする自分〃というものに酔ってましたから、手足をもぎ取られたようだった。
でも、あちこちへとチャンネルを変えてテレビを見る、何種頼もの新開を読み比べる、そんなことをしているうちに今の仕事に繋がることへと目がむくようになってきた」

そしてちょうどその頃、始まったばかりの『CNNデイウォッチ』のキャスターオーディションに合格。

「自分では、飛ばした念が通じたと思っているんです。やりたいと思っていたら、たまたま紹介されたテレビ関係の方が、オーディションの情報を持っていたんですから」

それは、女も26~27歳になれば再就職は難しいとされていた時代に、やはり自ら勝ち取った仕事であった。

離婚、東欧取材。重心を決めた2つの勇気。

「その頃、結婚しているキャスターというのは少なかったから、主婦のアルバイトだとか、夫を気にした発言をしているとか、いろいろ言われたんです。自分では一生懸命やっていたつもりでも、今考えれば、学芸会と言われても仕方がなかった」

29歳、離婚。キャスターを始めて3年目、結婚して5年日の決断である。

「父には〝25歳の時に履いた靴が合わなかった。時間が経てば多少のズレは履き慣らせると思っていたけど、血だらけ、豆だらけでもう歩くことができない〟そんなふうに説明したと思います。決定的な原因があったわけじやない。気がついたら埋めようがないほどズレてしまっていた。

20代の後半というのは女性が飛躍的に成長する時期なんじゃないかと思うんです。それが男の人にとってみたら、〝自分の手のひら〟からはみ出したように見えたかもしれない。私がキャスターを始めてから彼のほうも転職をしたんですが、結婚退職のいきさつを知る人がいなくなったら、重しが外れたように、お互いが我慢することをやめてしまった。庇い合う優しさをなくしてしまった。

飛行機は、片方のプロペラが止まっても、もうひとつが作動していさえすれば飛ぶものなんですよ。子供がいれば、また別のエンジンになったかもしれない。でも、そのどちらもなくて、墜落するしかなかったんですね。結婚すべてが合わなかったわけではないと思うんです。タイミングや成長の仕方が噛み合わなかったんでしょう。甘えも多分にあった。
離婚して、戸籍の筆頭者になって、甘えるものがなくなった時に、初めて自立できたような気がします」

フリーランスという安定収入のない立場で、家賃の心配をしながら過ごした時期もあった。頼れない意地もあり孤独と向き合う辛さも舐めた。

ニュースを読んだことがきっかけで、平成2年、単身東欧取材に赴くが、それがその後の活動を大きく分ける、もうひとつの転機になる。

「革命が起こつた時に、それまで習っていた世界史は何だったんだろうと思ったんです。シャンパンをかけ、独立を喜ぶ姿が感動的だった。チェコの映像では、広場に集まった全員が真剣にスピーチを開いていて、その顔が印象に残った。いろいろと海外の取材には出かけていたけれど、東欧だけはよくわからなかったんですね。知らないことがあるのは嫌だったし、そんな状況でコメントを言うなど僭越に思えて、とにかく見て、話を開いてこなければ、と」

革命後の不安定な情勢に、危険が背中合わせなのは承知の上である。親にはメディアからの要論だと嘘をつき、旅費はOL時代の貯金をはたいた。取材をし、戻ってきても、それが仕事になるあてもない。

「ろくにカメラを扱ったこともないのに50本ぶんのポジを詰め込み、友達の友達はみんな友達みたいな繋がりで、わずかな知り合いを紹介してもらった。初めはホテルをブッキングしで行ったんですが、そのうち知り合いになった女性の家に泊めてもらったりしていました。
やめたほうがいいと忠告してくれた人も多かったんですよ。でも、あれは自分自身への賭けだったんでしょうね。やめたら将来がないという予感がしていた。抱えていた苦しみや悩みをふっきれずに前へ進めないと」

取材は、安全性の問題から主に女性を対象としたが、それは歴史の表に出てくることのない生の声を拾ことにもなり、帰国後、幾つかのメディアに取り上げられて貴重な情報を伝達した。

「一見華やかに見えるキャスターの仕事は過酷なものです。ポーズでその場を凌ぐこともできるけれど、どこかで充電しなければ生き残ることはできない。あの時、私には何もなかったんです。それを満たしてくれるものが東欧行きだった。
結局、やり遂げたことが、自信に繋がりましたね。それで得た経験が人生全体をラクにしてもくれた。離婚や転職や、私の人生にもそれなりの激動はあったけれど、それも生死 にかかわるはどのことではない。私の悩みなど大したことではないと思えるようになったんです。帰国の時、泣いて惜しんだほどの友人が各国にできた。そうやってぶつかった経験が、人に何と言われようと、自分は自分という重心を決めでくれたんです。何と批評されても、判断や言動の根拠を説明できる自分になつた」

経験を重ねて優等生から脱皮、自然体の自分。

「大学時代の友人には、離婚経験者が多いんです。〝それは束京女子大の悲劇だ″と言っているんですけれど(笑)。いわゆるお勉強のできる子が集まっていましてね。その上、自主性を促す学風でしたから必然、学生は何でも自分たちでやるクセがついてくる。アメリカ史の授業では〝今、ファースト・ウーマン100人を集めた本がベストセラーになっています。この中から、ひとりでもファースト・ウーマンが生まれることを期待しています〟なんて言うから、〃そうか、ならなければ〟と潜在的に思わされてもいました(笑)。キャリア志向になるのはある部分、宿命的。仕事に就くのは当然だと思っていたし、就職したての頃なんか、男の人をたてるという術もわからなかった。ずっと優等生だった女の子は親の期待にそってお嬢に行くわけですが、結婚だけはごまかしがきかないでしょう。いい学校、いい就職と育てられ、そのキャリアを全うさせてもらえなければ、当然苦しいわけですよ。

どうやって社会にポジションを得ていくか、どうやって期待する親のエゴから抜け出していくか、20代の葛藤は、いつもそのあたりにあったと思います」

キャスターになりたての頃、手の汚れるのが嫌で、新聞を床に置いてしか読まなかった主婦は、片手にマーカー、片手に世界史用語辞典を持ち、猛勉強をするに至った。童顔をカバーしたくて、衣装は肩パッド入りを選ぶようになった。つい口に出るグチが多くなり、長電話の相手は、彼女の人間関係を、すべからく把握してしまうほどだった。葛藤し、得てきたキャリアは、けれどいつも不安や緊張と背中合わせのものでもあったのだ。

「孤独に弱かったんです。いつもそれを何かで癒そうとしていた。孤独を自分のものにしなければ、孤独に勝てないことを知らなかった。
いま思えば、会社が好きだったのも、行けば何かを与えてもらえたから。やめて化石のようだと感じたのも、結婚したら相手が何か与えてくれるのではないかと他力本願で生きていたからでしょうね。
小学校2年の時に、弟が生まれたんですが、それ以前はボーっとしていて、よく苛められる子だったんです。姉としての自覚が、しつかりしなければという意識を呼び起こした。ふっきれたら、ボーっとしていた昔に戻ったみたい(笑)。ようやく優等生の力みから解放された」

忙中、友人との会話はやはり長電話になるけれど、話題は趣味や社会情勢に変わった。途中でやめていた茶道の稽古を再開し、近頃の趣味には骨董品や能の鑑賞が加わったという。

「人に言わせると、それは老化現象らしいんですけれどね(笑)。ものには、経験でしかわからない見方というのがあるなと実感しているんです。この頃、また結婚したいと思うようになっているんですよ。孤独には強くなったけれど、ひとりで生きていくほど強くないこともわかった。無理をしないで、けれど、ちょっとずつ相手を浸蝕する。そんな温もりの大切さを育ててみたい」

(取材・文/小野妹子)