灌仏会 (花まつり)@東京

今日は #お釈迦様のお誕生日。お釈迦さまが生まれた #ルンビニ にある花園ようなお洋服で、#永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)へ。

今朝まで東京。#花御堂 のお釈迦様に #甘茶 をかけられるお寺を探したら、ありました、西麻布に。10時から法要に間に合うよう出かけたら、お堂にあげてくださいました。曹洞宗 永平寺の法要 を拝見するのも、東京での灌仏会も初めて。

京都では、#妙心寺 や #六角堂 で手を合わせ、京都仏教会の「お釈迦様を称える夕べ」に参列していました。ルンビニのお花のアレンジはお寺によって色々で、それを拝見するのも楽しみ。写真の花御堂には、境内のツツジや牡丹も入っていました。

ルンビ二のようなお洋服は、#ユキトリイ の2022春夏コレクション #フラワーガーデン。折しも明日はキリスト教のイースター。このお洋服は復活祭にもふさわしい気がします。

森英恵さんのご冥福をお祈りします

東京女子大の先輩でもある森英恵さんがいち早く世界的デザイナーになりえた裏に、占領期に日本へやってきたアメリカ将校夫人の存在があります。明治神宮隣にできた「ワシントンハイツ」のような米軍家族住宅は戦後、「日本人の衣食住をアメリカ化」する役割を果たします。住空間から畳が消え、和服を捨てて洋服に走るのです。
将校夫人の衣服縫製を依頼された森英恵さんは、将校夫人たちが持ち込む型紙を通して、丸いフォルムを覚えます。それらは、彼女がドレメで学んだ型紙と全く違ったのでした(拙著 第9章 有閑マダムの退屈な日々 参照)。その後、日本は空前の洋裁ブーム。アメリカに残されている占領期の日本の地方紙には、雨後の筍のように、洋裁教室の広告がぎっしり掲載されていたのをこの目で確認しています。
私も80年代終わりに、香港やバンコクでお気に入りの洋服持ち込んで、同じフォルムの服を作った経験があります。香港男子は私の服を解体して型紙をとり、縫い直して返却してきました。当時のアジアはまだまだ貧しく(90年代に入って目覚ましい成長を遂げるのだが)、彼らは先進国から来た客の情報をむさぼるように吸収しようとしていたのです。占領期の将校夫人からしたら、森英恵さんの「ひよしや」は、そんな店だったのでしょう。
ハンカチやトイレタリーなど、ライセンス事業であらゆる商品にハナエモリの蝶々が溢れた時代、正直、辟易して目をそらしたこともありました。でも、80年代に買ったVIVIDの赤いスーツとトロピカル風スカートは、いまも手元に残しています。
25歳で結婚した私に財力はなかったけれど、もしも富裕な一族に嫁ぐようなご縁があってドレスをオーダーしていたら、どんなデザインだったかなあと、森英恵さんの旅立ちを機に妄想してしまいました。
先輩のご冥福を、心からお祈りいたします。合掌
追記:文庫版『ワシントンハイツ』はデジタル版として販売されていますが、単行本・文庫本ともに新しい紙の本をご所望の場合は、神明舎で受け取ることができます。ご連絡くださいませ。

三宅一生さんのご冥福をお祈りします 1

ドイツ語のプリーツプリーズの本に、20世紀末の私のマンションの様子が掲載されています。カメラマンの都築響一さんの連載「着倒れ方丈記」プリーズプリーツ編で取材を受け、それが転載された形です。写真はママでなく、一部を掲載(母の形見となった桐たんす、削ったばかりでピカピカです)。
なで肩の私はキャスター時代、肩パットのある服を選んでいました。NHK「ナイトジャーナル」では、ティエリー・ミュグレーを購入していたのです。高島屋がライセンス契約をし、スーツなど日本人にあうデザインが豊富にあったころです。
その後、週一の関西テレビ通いと東南アジア取材モードになると、プリーズプリーツが主流になります。アジア圏では足を隠せるロングスカートが好ましいのと、移動にかさばらないのとで。(民放はクレジットが入るので、番組衣裳はスタイリストさんが借りてくれていたので)。
このプリーズプリーツ、東京では最初、クリエーター系女性の服で、どこか遠い感じでした。制服と呼びたくなるほど、パーティに行くと、お姉さまたちが黒のドレスに身をまとっていたのです。次第に色のバラエティが増え、私にも似合う色が制作されるようになって、この世界にはまっていきます。
東京の「よしおか」でも講座を持っていらした染司の吉岡幸雄先生には、「からだに優しいシルクを着るべき、アキオさんみたいに化繊を着たらあかん」と嫌味を言われていましたが、プリーズプリーツのワンピとカーデガンのコーデ・エクササイズは、和服の帯と着物のコーデの基礎になっています。
いまでも手元に残しているのに、なぜ着ないかって? お腹が出ているからです。プリーズプリーツは着る人のフォルムに忠実です。特にワンピを着ると、おなかの出っ張りが仇となるのでした。
ドイツ語版のこの本に登場する面白い柄、ほとんど私の手元にあるの、恐ろしいです。少し涼しくなったら、ご供養の意味でも、久しぶりに袖を通してみましょうか。おなかを引っ込める努力とともに。
表参道のお店でイッセイさんと交わした会話については、また改めて。
合掌

緙室SEN

室senがうめだ阪急でフェアをされるというので、大阪へ。私のわがままを聞き入れ、ゴールドのバッグを作ってくれたデザイナーの千原啓子さんと記念撮影。

禁酒法時代?のバースデー

本日、無事に誕生日を迎えることができました。これまで支えてくださった方々に感謝です。お祝いメッセージ、ありがとうございました。少しずつお返事申し上げます。
今年の誕生日は特別でした。早逝した母の年齢を超えられるか、この1年、恐怖の中にいたからです。これで仕事に邁進できます。老後に備えて、浪費も控えます。
それにしても、かくも記念すべき日に、素敵なバーにて乾杯もできないなんて、禁酒法時代のアメリカみたいです。美味しいケーキのお店も1800で終わるゆえ、世相を反映してスタバで祝っていただきました。
マスクとパンツ・スーツは、ケイタマルヤマ。写真家の安珠さんが、このドラゴン・モチーフのマスクをしていたことがきっかけで、20年ぶりにケイタ・ワールドへ。エイジアン・テイストのこの服で、アジア諸国を訪れる日が早々に来ることを祈りつつ。バッグは、この日の記念に誂えました。世界で唯一無二。作家さんについては、改めてご紹介しますね。

 

葉菖蒲にこだわっていたら、アイリスに出会った

晴海にある鳥居ユキさんのアトリエへ。久しぶりのサンプルセール。密になるからと、売る側も買う側も、みんな我慢していたんだよね。その分、たくさんのアイリス柄に会えて幸せです。きっと葉菖蒲にこだわってコラム書いたからだよね。

URLはこちら https://gendai.ismedia.jp/articles/-/82458

左の写真はコレクションにて。商品化された白地にピンクのワンピを購入していたのですが、サンプルで黒地をみつけて大興奮。ピンクと紫と黄色の花菖蒲(アイリス)が加わって、テンションあがりました。6月いっぱいは着られるので、後ほどお写真をアップしますね

YUKI TORII 東京コレクション(2019の記録)

去年の写真をいまごろ。

毎年楽しみにしていたYUKI TORII東京コレクション。きらきら眩しくて、夢のような時間でした。今年はコロナで会場に集うことが叶わず、来年も微妙ですね。

この写真で着ているパッチワーク柄は大のお気に入り。美馬のゆりさんとは、色違い。左はショーが始まる前に城戸真亜子さんと。右はショーの後、ランウェイで鳥居ユキ先生と、下は会場ロビーで、はこだて未来大学の美馬のゆり博士と。

 

和久傳とディズニー

長袖の服が必要なこの日、UNIQLOの子どもサイズのパーカーを羽織ってでかけました。お彼岸過ぎたら、急に涼しくなりましたね。衣替えせんとあきまへん。

堺町の和久傳に寄ったら、もう、おせちの受注が始まっていて、びっくり。季節は確実に進んでいて、あっという間に今年が終わりそう。

あ、TシャツもUNIQLO。キッズサイズ。最近、アパレルのディズニーとのタイアップ増えていますね。なかでもUNIQLOのは、こんなに安くていいのか悩んでしまう。ロットが多いとはいえ、ディズニー側もライセンス料下げたのかも、と勘繰ってしまいます。かつてICEBERGのセーターに13万円も投じていたのが嘘のよう。

実は私は101コレクター。講談社のディズニーファンにも載ったほど。幼いころは、筆箱下敷きにくわえ、手袋も101を持っておりました。

久しぶりに101を見かけたのは1989年、玉川高島屋SCにあったICEBERGのショップで。ショールームに子犬の傘が広げてあり、中に誘われたのであります。時はバブル。子犬、親犬、クルエラが編み込まれたセーターは、すべて13万円くらい。子犬を刺繍した革ジャンにいたっては、35万円ほど。喉から手が出るほど欲しかったけれど、テレビでもまだ薄利多売のレポーターの私にその財力はなく、断念したのでした。

ところが、ソ連崩壊直後のモスクワで、その革ジャンを見ている女性をみかけたのです。羨ましかった。同時に、不思議だった。つい2年前まで一般市民は国から出られず、物のなかった共産圏でICEBERGを着ているなんて、どういうこと? 西欧人の入国も簡単ではないゆえ、彼女はおそらくモスコビッチのはず。美人ではあったが特権階級のお嬢さまには見えず、おそらく外国人にプレゼントされたインターガール(外国人相手の娼婦)ではなかったかと推察しておりました。追いかけて、売ってくれと言いたかったくらい。

コレクターの性と申しましょうか。ディズニーの中でも滅多に商品化されない101ファンの私は、どんな些細なものでもそれを探す目になっておりました。ある日、名古屋の問屋街で紙製衣装ケースを見つけ、折り畳み袋入り状態を持参して、京都の和久傳に向かったのであります。東京に送るにもロッカーに入れるにも、長すぎる状態だったため、そのまま直行。それを見た大女将が、飽きれて仰け反ったのは、皆さん想像に難くないと思います。メインキャスターを勤めていたNHKナイトジャーナルに御出演頂いたご縁でした。

たまたま101を纏ったこの日、私の足は和久傳へと向かったのであります。もちろん女将さんは不在で会話はなかったのですが、しかし、いまでも、時々あの日の違和感が蘇るようで、こう言われるのです。「あのときのスヌーピーが・・・」。いえいえ、あれは、101匹わんちゃんなんですけど・・・、と心中でつぶやく私でございます。