2003年5月5日

ピアノの発表会

まもなく6歳になろうとする姪のピアノの発表会を聞きにいった。場所は新宿中央公園の近くにある区民会館だ。最年少で習い始めて一番日が浅い姪の名前はプログラムのトップに載っている。

迷ったのは花束をどうするかである。私の時代にも、弟の時代にも、子供の発表会ごときに花束は渡さなかった。愛すべき姪のためには演奏後、小さなブーケを持ってステージに駆けつけてみたい気もする。しかし、一番手の彼女だけが受け取って、他の子供が追随し泣ければ、姪だけが浮いてしまい、後でいじめられるかもしれない。子供のいない私には迷う瞬間である。

結果、ビデオ片手に花束は購入せず、会場に向かった。すると、後からやってきた人々は手に花を持っている。ブーケと呼ぶには簡易な数本の花を持っているのだ。どうしよう。

そこへ義妹の妹が小さな花を持って入ってきた。演奏後、ステージで渡してもいいかどうか確認している。どうやら、この先生の発表会では花を贈るのは恒例らしい。一番手とはいえ、これで姪は

驚いたのは、みながそれを受け取ることに、あまりに慣れていることだった。演奏が良かったかどうかに関わらず、儀式化していることさえ気になる。

本来、ピアノのお稽古は演奏を楽しむことを教えるべきであり、発表会は演奏を通して人を感動させるものだということを体験させるべきものだと思う。しかし、日本では頑張って練習したものを発表する場になっている。まる暗記を奨励する勉強の成果を競う受験の前哨戦のように存在している。

先日、ミラノで会った友人によれば、欧州の教育は全く違うという。フランスの小学校では、美術の時間に名画について、その画家の人生と絵のテーマについて論じた後、美術館に本物を見に行くのだそうだ。もちろん、それだけの名画が常に美術館に存在するフランスと日本の違いはある。けれども、私が小中学校で受けた美術の授業では、作者の人生や時代背景についての解説を教師から教えられた記憶はない。

NHK で放送されている「課外授業ようこそ先輩」で、その道を極めた人が母校で教える様子は教育の理想だとは思う。しかし日本の学校教育がそこまで到達するには数十年を要すると思うが、少なくとも芸術などのお稽古事は、表現することの醍醐味を教えるべきであり、親も先生を選ばねばなるまい。

そうは言っても、初の姪の晴れ舞台。他の生徒が演奏中に花屋に走り、第二部・連弾の演奏後、私は舞台の姪に花を渡したのだった。