『新潮45』2001年1月号掲載

「イエスの方舟」漂流後の二十年

「現代の神隠し」と騒がれ、二十六人の集団は逃避行を続けた。一九八〇年、博多に怒りを下ろした彼らのそれから…。

外の時間に流されない空間

 ネオンが煌びやかに瞬きビジネスマンで賑わう中州の飲み屋街も、夕暮れ時は、まだ閑散としている。人形小路にひしめくスナックはドアを開け放ったまま開店準備に忙しく、小料理屋がようやくのれんをかけ始めていた。互いに譲らなければならないほど狭いアスファルトの小路を、配達の自転車がガタガタと大きな音を残しながら器用に抜けていく。焼き物屋の淡い白煙が、細長く切り取られた薄暮の空によどみながらも散っていった。
 その路地がT字に交差したところに「シオンの娘」はある。小さなガラスの扉――。
「良心的なあなたのクラブ」
 扉の上に書かれた文字に、手作りの感覚が漂う。店はL字になっているのだろう、表の人形町通にも扉はもうひとつある。まるでアニメーションの背景画のように、四角く切り取られた店が軒を連ね、その真ん中に青地に白抜きで「イエスの方舟の店」と書かれている。
 ところがドアを開けると、そこは別世界。時間がとまったかのような不思議な空気が流れている。床も階段も真っ赤な絨毯で覆われ、時代錯誤とさえ感じられるインテリアに圧倒された。小さいステージを囲むようにしてU字型のカウンターが設えてあり、ステージ手前には茶色のグランドピアノが一台収まっている。壁に飾られた松の盆栽とプラスティック製のピンクのガーベラ。外の時間の流れに押し流されることのなかった空間。私は東欧や旧ソ連で訪れたクラブを思い出していた。
 私が「イエスの方舟」を訪ねたいと考えたのは、二十年前に親を否定した娘たちが、いまでも共同生活を営んでいると聞いたからである。
 家族のあり方――。私が知りたいと思っていたのはそのことだ。私は以前から親子の関係、すなわち親との価値観のズレに苦しむ子どもの閉塞感に興味があった。多発する少年犯罪によって、最近ようやく声高に叫ばれるようになってきた「父親不在」「家族の崩壊」という批判の声。実は「普通の家庭」こそ危険であると私は自分自身の経験から感じていたが、私の呈した疑問に誰一人同意する人はなく、長い間それは愛に飢えた娘の遠吠えとしかとらえられなかったのである。
 ところが、「イエスの方舟」の主宰者である千石剛賢は、二十年以上前にすでに日本の家族を「幻想の家族」と呼んだのであった。そして彼の提示した価値観に魅了された娘たちが、彼の元に身を寄せて共同生活を始めたのである。
 これに対して、騙された娘を取り戻そうと親たちがメディアを巻き込んでキャンペーンを張った。「イエスの方舟」は得体の知れない「オカルト教団」であり、千石は若い女性を誘拐し、監禁状態においていると報じられた。それによって彼らは漂流生活を強いられたが、結局、この事件は犯罪性がないと結論づけられた。そして、彼らは博多に落ち着くことになる。言ってみれば、これは娘には親とは別の人生があることを世に認めさせた初めてのケースである。
 加えて「イエスの方舟」が注目に値するのは、今世紀末に登場した新興宗教や生活共同体――オウム真理教、統一教会、ヤマギシ会などは、その内情のひどさが社会によって暴かれるか、あるいは破綻していったにもかかわらず、「イエスの方舟」は今日まで博多に存在しているということだ。
 二十年――。いまでも「イエスの方舟」は続いているという。千石は何を思い、娘たちはどうしているのか、他人同士の彼らがなぜ、これほどの歳月「家族」でいられるのか。思いを巡らせながら、私は「シオンの娘」のカウンターにひとり座っていた。
 やがて「武田節」の音楽とともに、袴を履いた女性がステージ脇の狭そうな階段から降りてきた。腰に二本の剣を指した女性は大きな扇を振りかざしながら、狭いステージで剣舞を披露した。動きはどこかぎこちないが、その端正な顔立ちに、つい目を奪われてしまう。替わってミントグリーンのチャイナ服をまとった女性が演歌を歌い、続いて白い海軍服に身を包んだ若い女性が鶴田浩二の「戦友よ、安らかに」を歌う。そうかと思うと、ステージ中央にブランコで降り立った赤いドレスの女性が満面の笑みを浮かべて挨拶をし、羽根のついた扇を手にフラメンコを踊ってみせる。ステップなどは自己流で素人芸の域は出ない。しかし、彼女たちが真面目に取り組んでいることが痛いほど伝わってくるのだ。その真剣さがゆえに、ついこちらも食い入るように見てしまう。まるで宝塚に憧れる娘の学園祭にやってきた母親の心境である。
 客はU字型のカウンター席につく。その高さは通常の店より低い。中に入っている女性は座りながら水割りを作り、話し相手になっている。和服を着た女性もいれば、ドレスを着た女性もいる。紫のジョーゼットのドレスなどは舞台衣装を思わせ、街の流行からは程遠いイメージだが、いずれも衣装部が縫製した制服なのだそうだ。客層はといえば、二人以上のビジネスマンが多いが、なかには女性連れもいる。カウンターの中で給仕をしてくれる女性は誰もが笑みを絶やすことなく、また無駄口を叩くこともなく、ひたすら客の正面に背筋を伸ばして座り、会話の相手をしながら相づちを打つ。ショーの間、曲の音出しを担当する女性は、客がテーブルにつくと同時にその人数をキッチンに報告し、手早くグラスとお通しを運んでいる。実に機敏に甲斐甲斐しく動いているのだ。
 席にすわると、突き出しとしてショットグラスに入ったシジミ汁が出てくる。飲む前にシジミ汁というのも不思議だが、肝臓に良いからなのだという。おまけに足元にはマッサージ器が内蔵されており、客の健康に配慮が行き届いた「方舟」ならではのサービスがそろっている。
「リクエスト一曲二千円。月光の曲一万円」
 壁にこう書かれていた。スペイン舞踊が終わると、舞台の上からドレスを着た一人の女性がブランコで降りて来た。満面の笑みを浮かべて挨拶をし、クラッシックピアノを弾き始める。
「君たちは偽善者だね」
 女性と一緒に訪れていた客は、カウンターの中の女性たちにそう絡んでみせた。彼女たちはにこやかに受け流す。ここでは、どんな客に対しても拒絶の空気は発せられないのだ。
「聖書を生きるというのは他人との壁をなくすことなのです。お店でも、自分がどんなに疲れていてもお客様の喜ぶようにする。どこまでも相手のことを思っていく。それが他人を摂取することであり、自己の存在価値がわかるんです」
 私は彼女たちがインタビューでこう答えたのを思い出していた。
「はじめて来たけどさ、不思議な店だよね」
 隣の客がそう呟いていた。
確かに大都会のクラブになじんだ客には違和感は否めないだろう。猥雑さもなければ酒場独特の卑猥さもない。そこは、あたかも龍宮城のように、我々が刻んできた時間とは、何かが違っていたのである。

「シオンの娘」の二階はカラオケルームになっている。全面鏡張りの壁に緋色のソファ。私は開店前、私は八人ほどの女性会員とともにテーブルを囲んでいた。一人がテープレコーダで録音の準備を整えている。かつてマスコミに攻撃された後遺症だろう、どことなくピリピリと張り詰めた空気が漂う。しかし、ほどなく千石が入って来ると空気は一変した。彼女たちの表情には安堵感が見てとれた。
「いやいや、お待たせしました」
 女性会員たちは一斉に席を立ち、千石にソファの脇のマッサージ椅子を薦めた。だが、千石はそれを拒み、一番奥のソファに腰を沈めた。心から尊敬できる「父」を囲む娘たち――。それはまるでゴッドファーザーの映画を見ているようだった。
 司祭のスータンのような黒い服に身を包んだ千石剛賢は、もう七十七になる。報道された写真のような精悍な男の印象はいまはない。穏やかに微笑む老人の顔がそこにはある。
「ここに来たい人は来たらいいし、去りたい人は去ったらいい。あくまでその人の主体性が尊重されるんです」
 現在の会員数は三十人。漂流していた頃の二十六人のうち、東京に戻ったものもわずかにいるが、新しく会員になった者もいるという。ステージで軍歌を披露した二十代の女性会員は、かつて東京で会員だった母の娘、「二世会員」である。大工をしながら「方舟」の生計を支えている男性会員はもう四十年来の仲間だ。また千石の隣に寄り添うようにして座っていた実の三女・恵は、「方舟」についてこう説明した。
「『方舟』の根本は、個人の主体性が重んじられること。押し付けがなくて自由。オッチャンの教えに盲目的に従っているというわけではない。オッチャンは教祖ではなく、聖書を説かれる人。聖書の意味を私たちの現実に則しながら、日常生活のなかで説いてくれる人なんです」
 「オッチャン」――これが「方舟」における千石剛賢の呼び方である。「自分は教祖ではない」と言いきる千石が自ら選んだものだ。彼は実の娘にも養女にも、すべての会員にそう呼ばせている。
 恵はさらに続けた。
「主体性というのは、自分をどれだけ大事にできるかということ。親に言われたり、世間がそうだからと言って流されて結婚しちゃうのは、自分が希薄だからです。私たちは自分の幸せを真剣に考える。そうすると、自然に他人がなくなる。他人の壁をなくして相手のことをどれだけ親身に思えるか。大切なのは、他者の中に自己を見ることなんです」
「ここでは聖書を通して、みなが一体化しているんです。ある意味では新しい家族の形だと思う。姉や妹みたいに言い合いもします」
 こう語るのは、ピアノを演奏していた阿部紀葉子である。彼女の母親の手記がきっかけで、「イエスの方舟」は事件となった。千石が言葉を補う。
「血の繋がっている姉妹よりも、運命共同体みたいな自覚が強いですね」
「オッチャンは聖書の知恵で導いてくださる。言葉で聖書を語らない。実際に生きているのです。親は答を持っていませんでしたから」
「私としては答があるんですよ。良い悪いの答がちゃんとあって、曖昧な返事はしないんです」
 千石が言葉を付け加えるたび、女性会員たちは大きく肯く。
「仏教のお坊さんもカトリックの神父も道徳的なことしか言わない。でも聖書を実践すると自分に答えが返ってくる。充実感が伴うんです。オッチャンは人生の水先案内人。聖書の真意を説いて、自分が実践してみせる。夜中でも明け方でも人が危ないと思ったら飛んでいく。こういう風に実践するんだと、オッチャンの近くにいれば聖書の御言葉が具体的にわかるんです」
 まるで全員が広告塔のように、「方舟」について誰もが的確に力強く説明する。どうやらここでは「聖書の実践」というのがキーワードらしい。

七〇年代「幸せな家族」の姿

「イエスの方舟」の存在が日本中の注目を浴びる「事件」になったのは、一九七九(昭和五十四)年十二月。月刊誌『婦人公論』に「千石イエスよ、娘を返せ」と題した手記が発表されてからである。マスコミはすぐにこれに飛びついた。「イエスの方舟」は若い娘たちを監禁する「千石イエスのハーレム」であると報じ、この事件は「現代の神隠し」と呼ばれるようになったのだ。
 千石剛賢が東京で興したのは新興宗教ではなかった。「極東キリスト集会」と銘打った聖書研究会であり、それを志す人々との共同生活を営むというものだった。一九七五年七月、千石はそれを「イエスの方舟」と改名し、国分寺にプレハブ住宅を建てて布教活動を広げると、家庭の中に居場所を見つけられなかった若い女性が家を出て、そこに住み着き始めたのだった。一方、遺された家族は、娘の行動が理解できなかった。「娘は千石に騙されている」として抗議を続け、警察を動かして公開捜査に乗り出すまでにいたる。
 一九七〇年代といえば、日本全体が高度成長の波に乗り、サラリーマン家庭がぴかぴかに輝いて夢見られた時代である。最初に『婦人公論』に手記を送った阿部紀葉子の両親も一女一男をもうけ、下町から移り国立でマイホームを持つという、典型的な核家族であった。当時の日本社会のものさしで計る限り、誰からも羨ましがられる「幸せな家族」の姿がそこにはあった。父は東京大学法学部出身、挫折を知らない電電公社(現NTT)のエリート幹部だ。子どもにピアノを習わせることがファッションだった六〇年代、両親は娘をピアニストにすべく音大付属の小学校に入学させた。
「私がグランドピアノが欲しいといえば地下室を作ってくれたし、周囲からみれば、私は何不自由なく育てられたお嬢様に映ったと思います。でも私は幸せではなかった」
 v色白の肌に大きな瞳で訴えかけるように、紀葉子は当時の心境を語る。音大付属の英才教育を受けながら、本人は鬱々と自分の生き方に疑問を抱き始めていたというのだ。彼女の内面に存在した空虚感とは何か。
「極めなければいけないというプレッシャーって、ものすごいんです。でも、達成した人が全然幸せそうじゃない。何故だろう。『個性』を要求されているはずなのに、教授の解釈に振り回される。もっといえば、教授会の勢力地図で自分の演奏が肯定されたり否定されたりすることに疲れていたんです。『個性』って何だろうと毎日悩んでいました。でも両親はそれを分からない。何より答を持っていませんでした」
 彼女が国立駅前で「方舟」のビラを受け取ったのは、教授たちの身勝手さに行き場を失いかけていた時だったという。果たして「方舟」には、その答が存在したのか聞いてみると、彼女は力をこめて喋り続けた。
「『キリストにはすべての宝隠れあり』という聖書の中の言葉を引用して、オッチャンが『イエスを生活することにおいて、すべての宝が身につく、もちろん、そのなかには個性というものもある』と教えてくれたんです。その時、自分のやっていることと聖書が密着していると知りました」
 教会でのテント生活も魅力的だったという。会員手作りの住居は、畳も床もない土間であり、鉄パイプにビニールテントを張ったもので、冬は防寒のため厚着だった。だが、その生活は思いのほか機能的であった。セメントでできた風呂にはサンダルを履いて入ることさえ、楽しかったそうだ。。当時は刃物研ぎで生計を立て、得意先は一万五千軒にも及んだ。
「教会にこそ人間らしい生活があると思いましたね。『方舟』には原点がある。それに比べて、自分の家庭は何だろう。金があるのに何もない。父親は金もうけのために仕事をしていて家にいない。家庭では充実がなかった。血のつながった両親は、娘を結婚させることが親の責任だと考え、自分の価値観を押し付けようとするだけ。まるで他人家族のようだと思えたんです」
 自分の家族の話になると、思いつめた表情に変わっていく。時折眉間に皺を寄せながら紀葉子は少し興奮して早口になる。
「『方舟』での発見と感動を親に話してはみたんですが、通じなかった。いくら努力しても話し合いができないなら冷却期間を置くしかない。仕方なく家出の形をとりました。部屋に置き手紙を残し、親の元から姿をくらませたんです」
 七八年五月、警察の立ち入り調査当日、「イエスの方舟」は姿を消し、日本全国を漂流そ始めていた。二十六人の大所帯で全国二十五ヵ所を転々とした。ある時は洋装店の看板を掲げ、ある時は華道教室を装った。しかし、やがて資金がつきると、女性たちはホステスを始めて金を捻出した。千石が「ヒモ」とまで書き立てられた所以である。母親たちの手記は、七九年末に始まり、翌八〇年にも断続的に掲載された。
 そして「現代の神隠し」事件は国会でも取り上げられ、警察は二千人を動員した。一時は現場の近くに住んでいたからと三億円事件の犯人に仕立て上げられ、あるメディアにいたっては、「漂流した二十六人は一人一人殺されているのだ」と猟奇的な犯罪事件とまで報じた。そして一九八〇年七月、唯一「方舟」に理解を示す報道を続けた『サンデー毎日』が間に入り、家族との和解が成立、方舟は博多に錨を下ろすことになったのである。
「外の世界を見てみたかった。私は母について子どものころから方舟で暮らしていましたから」
 こう言うのは、千石の養女・千鶴だ。彼女は「漂流」中に「方舟」から離脱している。その際、千石は懸賞金を出して娘を捜し出そうとした。千石に言わせれば「外の世界には物質の誘惑、名誉の誘惑、差別が存在する」からだという。三人の娘たちはほどなく「方舟」に戻ってきたが、その理由を千鶴はこう語る。
「『方舟』をはじめて出たものの、自分の求めているものは全くない、答を出してくれる人がいないんです。改めてオッチャンのすごさがわかって戻ったんです」
「方舟」には千石の実の娘三人のほかに、養女が三人いる。うち二人はそれぞれ千石と一緒に東京に出てきた二家族の娘だった。だが、やがて双方とも両親が離婚をし、父を無くした二人は千石の娘になりたいと志願したのだ。
 しかし、三番目の養女、京子の場合は事情が全く違う。店にいるときにはコロコロとよく笑う京子は、長女として、幼いころ不仲な両親の狭間でもだえ苦しみ続けた少女だった。
「うちの場合は、家の中が目茶苦茶だったので。九歳の頃から自分の存在意義に疑問を抱いていましたね。親友と呼べる友達はいるけれど、家庭の事情を話す気にはなれなかった。妹はまだ幼かったし。ひとり鬱々と悩んだ末、救いを求めて叔母が入信していたある宗教団体の少年部、青年部と通ってはみたものの、そこで語られることは嘘ばかりに思えた。『自分はなぜ生まれてきたのだろう。生きていく価値があるのだろうか』。そんな苦しみの果てに自殺未遂をしたこともありました」
 高校生になったある日、街で中学時代の同級生とばったり出会った。「方舟」で共同生活をしていた彼女たちから話を聞き、教会を訪れたのである。
「こちらが質問してもいないのに、日ごろ疑問に思っていたことの答が次々出てきたんです。自分の生きる意味を聖書に見出しました」
 表面的には親の合意を取り付けたものの、結局、彼女は自分の親の元を離れる決意をする。そして二十歳になったとき、京子は千石の養女になった。母の元には妹が残った。
剣舞を披露した新川緑が「方舟」に出会ったのは、十代の終わりだ。
「あなたは一度も愛したことも愛されたこともない」
 はじめて訪れた「方舟」の集会で配られたアンケートの設問が彼女の人生を大きく変えた。低い声の持ち主である緑は、冷静に当時を振り返る。
「驚いたんです。日々、自分が問い掛けていたことがどうしてわかるんだろう、と」
 彼女は家族の中に愛を見出せなかったということだろうか。
「私は小さい頃からからだが弱くて、父は厳しい人でした。そこに存在する価値観は、いい学校を出て就職して結婚するというもの。でも自分が目標とする学校に入っても、一時、嬉しいだけで失望した。社会に出てすごい仕事をして、そこに充実とか喜びとかあるかと期待したけれど、いざ就職してみるとがっかり。女性なら事務処理、男性なら営業に追われ、部長になるだけ。空しく思えたんですね」
 鼻筋が通って切れ長の眼が美しい緑は、幼い頃から聡明だったようにみえる。
「このまま人生が終わるのだろうか。残るは結婚しかない。こんなことでいいのだろうか。漠然と疑問に思っていました」
 そんな折、母親の友人に教会へ連れて行かれた。
「悩んでいたことが霧が晴れるように、はっきりしてきた。ここには答が存在すると直感して、集会に通いつめました」
 以来、緑は「方舟」を離れたことがない。少し低い声で、落ち着いて話し続ける緑は、当時からせっぱ詰まっていたようには聞こえない。ここを飛び出しても十分に強く生きて行けるように見えるのだが――。
「オッチャンは善とか悪とか人生についての見極め方を教えてくださるんです。親にはそれができなかった」
 博多に錨を下ろしてから二十年の歳月が流れた。しかし、まるで時間が止まったかのように、変容することも崩壊することもなく、漂流の後、「イエスの方舟」はそこに存在し続けていたのである。

「方舟」での生活

「聖書を勉強しているくせに水商売なんて、と批判的に言われますが、献金を受けているわけではありませんから、私たちも稼がないと」
 三女・恵はこう言って「方舟」の日常について話してくれた。
 現在、「方舟」の生計を支えているのは、「シオンの娘」の売り上げと、男性会員による大工(だいく)業である。また「方舟」では、素材があれば制服も舞台衣装も店の内装も住居も自分たちの手で作り上げてしまう。
原則として日に一度、会員の間で集会が開かれ、聖書を勉強する。毎日曜日の集会では、外部の人間が千石の講話を聞くことも可能である。布教活動としては月に一度、福岡市の施設を借り切って、大きな集会を開いているのである。
 彼女たちは、いつも忙しいのだという。店は午前〇時までだが、客が残ればいつまでも閉めることはない。その後、みなで食事をとって、時には千石を囲んでテレビを見ながらしばし歓談する。一時間ほどかけて、マイクロバスで家路につく。男性と女性で住居は別。翌朝、十時頃に目覚め、朝食をとる。朝食の準備は当番制だ。そこから先は、それぞれの役割分担。千石も含めて会員たちは二人一組になり、準会員の相談に応じて近郊を駆けずりまわる。一方、地方からの相談に応じるため手紙を書くことに時間を費やすものもいる。
 彼女たちによれば、自分たちを繋ぎ止めているのはあくまで「聖書」であって、聖書を勉強したいから「方舟」にいるのだという。価値観の同じ人間たちが集まっているのだから、ストレスが少なく居心地がいいのだろう。しかも自分の悩みに答を出してくれる「父」が、常に存在するのである。その庇護の下から抜け出すことは勇気を要するに違いない。
「方舟」とは結局、千石の「父性」を核に成り立っている共同体なのではないか。だとすれば、彼女たちが心から尊敬し、人生の目標とする千石剛賢とは、どんな人物なのか。

「オッチャン」は語る

「私の家は裕福でした。そのせいか、子どものころから他人を虐げて、いたのかもしれない」
 事件の真っ最中に脳梗塞を患った千石は高齢のせいもあり、最近では医師からハードワークを禁じられている。しかし相談者からの電話を受けると、彼はすぐに単車で飛んでいく。単車の免許は十二年前六十五歳で取得したという。私が会ったその日、相談者の間を単車で飛び回ったあと、「シオンの娘」の二階にやってきた。よほど疲れていたのだろう。彼はソファの横に設けられたマッサージ椅子に身を任せて、ゆっくりと自分の生い立ちについて語り始めた。
「人間の自己中心的な罪がそういう人間を作り上げていた。自分中心でした。どうにもならない自我の強い人間ができあがったんです。実は、方舟では「自我が悪い」とされているんですね。聖書では自我といわず、罪、罪人と言っている。自己を中心とした一切の認識状態。神によって確立される自己の認識と自分を中心にした認識の状態は違う。自らを中心に考えると自分が神になっちゃうから」
 千石剛賢は一九二三(大正十二)年、兵庫県加西郡有田村で生まれた。尋常高等小学校に在籍したが、ほとんど学校にゆかず卒業証書を手にした。周囲が着物で通学していた時代、千石は洋服に靴で通っていた。新しいのを買ってもらいたくて、わざと靴を壊すような、わがままいっぱいの少年だったという。もともと資産家だった実家は農業兼米問屋で、造り酒屋に酒米を降ろしていた。
「父・万次郎はお地蔵さんのような人。先祖代々の財産を継ぐだけで、何もしない人だった。酒も飲まなければ、働きもしない、魅力のない人でしたね。それに比べて、母親は強烈な存在だった」
兄も姉もいたが、母の愛は千石に集中し、父やきょうだいが怒ったときには、徹底的にかばった。「どんな場合にでも助けてくれる」存在である母は、「人生において金が第一」と、金に執着心がある人だった。
 千石少年は十四歳のころから幾度となく丁稚奉公に出る。家紋を染めたり、割烹料理店で働いたが、どこへ行っても長続きしない「一日坊主」だった。
「戦死した友人への弔いの気持ちもこめて、軍服をアレンジしたんです」
 その後、千石は広島の大竹海兵団に入隊している。彼が現在着ている黒い服は軍服に手を加えたもので、命を落とした戦友への思いから着るのだという。襟には、「イエスの方舟」のバッジが光っている。
 終戦後、千石が始めたのは刃物工場だ。
「鉄が不足していた時代でね、面白いように儲かった。直接農協に卸していたから、さらによかった。しかし事業に成功して、どうにもならない自我の強い人間ができあがってしまったんです」
 と語る千石は、生来の短気な性格が災いして、やがて工場を倒産させてしまう。単身あてもなく神戸に出た千石は、短気で喧嘩っ早い自分の性格をもてあましていた。
「もしも聖書に出会ってなければ、犯罪者になっていたでしょう。殺人も犯していたかもしれない。それも愉快犯。平気で人を殺してたでしょう。当時は敵対する人間を憎んでいたからねえ。自分の立場を主張する人間を憎んでいた。『けしからん、ほなぶっ殺してしまえ』という風にねえ。荒い人間でした。酒は飲まないけれど暴力沙汰はしょっちゅう。周辺の警察に顔が通っていたよ」
 喧嘩っ早いのは幼いころからだ。しかし捕まるたびに「親が金で解決していた」そうだ。
「喧嘩は負けたことがない。そういう自分が恐かった。始終、夢で自分が死刑になるんです。姉が面会にやって来て、『ああ、もう駄目だ。刑が執行される』というところで、目が覚める。何回も同じ夢を見て苦しみました」
 キリスト教との出会いも、そんな頃だった。偶然、通りかかった教会に立ち寄ったのがきっかけだ。「教会員がみなにこにこしていたから」と千石はいう。同時に、彼は姉が通っていた「生長の家」の集会へも顔を出していた。そういう日々を経て彼が思いついたことは、キリスト教と「生長の家」を二つ合わせた宗教だった。彼は博多に向かい、とりあえず自分の考えを道行く人の何人かに話してみた。面白いように人が集まってきた。そこで部屋を借り、やがて博多市の施設を借りるに至る。
「宗教というのは、最初の核を作るのが難しいだけで、あとはだーっと核分裂を起こすんです」
 この時、彼は信者から金をとらなかったという。
「小さな金を集めることよりも、まず大きくしようという野心が勝っていたんですね」
 気がつくと、三百人以上の人々が集まってきたのである。
「気持ち悪くなったんですねえ。嘘だから。ありもしない神をあるように言ったり、嘘をさかんに言っているのに、人が集まってくる。恐くなったんです、急に」
 ひとまず小倉に逃げるのだが、信者がかぎつけてきて、また集まり始めた。そこで九州を離れ、彼は大阪に向かう。その気にさせた信者を放り出すのはいかにも無責任ではないか。そう彼に訊ねてみると、こう答えた。
「騙されて貴重な人生の時間を費やすよりも、騙す人間が消滅したほうが、その人たちのためになると考えるようになったんです」
 現在でも彼の話術は巧みである。加えて目が優しいのだ。威圧感はまったくない。若いころから人を惹きつける能力は人並みはずれて長けていたに違いない。
「あのころ私がやっていたことは背信行為なんです。それを臆面もなくやっていることの自責の念があった。嘘はあかんのに、隣人に虚妄の証をたてている自分がそこにはいた。それは自我の延長でしかなかったんです。実際、自分中心にしゃべっていた。何をしゃべっていたかは覚えていないんです。いまでいうと、自己開発セミナーみたいなものですね。人の気持ちに逆らわないように、人が喜ぶようなことばかり話していたと思います」
 彼は当時を振り返りながら、宗教についてこう語る。
「宗教は詐欺と言っていいでしょう。教祖は、ばれない嘘をつかないと駄目なんです。ばれない嘘をどこまで巧みにつくかです。蛇の道はヘビで、私にはわかるんですね。オウム真理教はいけません。麻原は嘘ばかり、しかも嘘が下手なんです。教祖の資格としてはまずいですねえ」
 その後、千石が本格的に聖書の世界にのめり込むのは三十五歳のときである。大阪で入った「聖書研究会」では苦しんだという。
「強力な指導者の下、根性を叩き直されたんです。『聖書研究会』の主幹が元禅宗関係だった人で、かつキリスト教を勉強した人。しかも、その会は哲学中心で、カント、ヘーゲルを学んだんです。そこで私は徹底的にいじめられました。『理屈で聖書がわかるわけないだろうが』、そう思って、あてもなく東京に出たんです」
 同じく「聖書研究会」の会員であった二家族とともに東京の国立で「極東キリスト教会」を開き、共同生活を始めたのだった。
千石剛賢は二度結婚している。最初の妻とは離婚した。慰謝料の求めに応じ、彼の名義である山畑をすべて譲り、間に生まれた長女は自分が引き取り、次女は乳離れするまでの約束で●養女に出した(前妻にあずけた)そして。再婚相手との間に一女をもうけた。しかし、東京で「方舟」の共同生活をまっとうするために自分の家族を解体。みなの「オッチャン」になったのである。
「嘘はいかん」とよく口にする千石は、養女に出した次女のことが長く気になっていた。彼はある日、何の前ぶれもなく次女の前に姿を現す。その理由は「長女と三女は聖書に触れさせているが、次女は聖書と関係のない世界にいる」、それがどうにも気になって仕方がなかったからだという。いかにも身勝手な話に思えるが、しかし、そんな父の出現を、当の次女・喜久代は、好意的に受け止めている。
「これで人生が切り替えられるような、新しい人生が始まる予感がしたんです」
 喜久代は千石が離婚したときに乳飲み子であり、●千石の親戚筋にあたる養父母に育てられていた。養父母を実の両親と信じていた喜久代は、材木屋を経営していた自分の家が物質的に裕福なのに、何か物足りないと感じて十代を過ごしたそうだ。
「母親としての情けを感じることもなく、何でも金で片づけようする両親にかすかながら疑問を抱いてました」
 そして看護学校に入ることを口実に京都へ出る。期待に胸膨らませて寮生活を始めたものの、自分の想像していた世界とは違っていた。突然、千石が現われたのは、そんな時だ。
「それまで誰にも理解してもらえなかった自分を、本当に理解してくれる人に出会ったと思えました」
 実は、この日、千石は自分が父親であることを名乗らなかった。にもかかわらず、喜久代は千石を素直に受け入れている。当時の彼の印象を聞いてみた。
「本当の父親がいるとは思わなかった。その時のオッチャンは厳しい顔をしていて精悍な人という印象。これまで会ったことのない強烈な存在感でした。ものすごく優しくて、何か包み込むようなものを感じたんです」。
 後にすべての事情を知らされた喜久代は、しばらくして一人東京を訪れ、「偽りのない人間関係を初めて知って」テントでの共同生活に加わることになる。
「方舟」での生活を選択した女性たちは、当時、日本社会に存在していた「幸せな家族」とか「普通の女の幸せ」というものに対して潜在的に疑問を抱いていた人々である。彼女たちが一様に口にするのは「欲しい答が『方舟』にあった」ということである。裏を返せば、突き詰めて人生を考えようとする彼女たちの行き場が、当時の日本にはなかったのだ。それを受け止めたのが千石だったのは間違いないだろう。彼女たちが求めていたのは「自分を肯定し、自分の疑問に答えられる答を持った人格」であったと、みな声を揃えて言う。当時、千石はその役を演じきったといえよう。だから彼女たちは親の元を離れ、千石の元に走ったのである。しかし、これは彼にとっては、予想外の展開だった。
「娘たちが逃げ込んで来て、それも親のところに帰りたくないと言う。引き受けざるを得なかったですね。たとえ自分が水を飲んで死ぬことになっても、溺れかかっている娘たちを放っておけなかったんです」
 千石は目の前の娘たちにとりあえず手を指しのべ、引き上げただけなのだという。
 千石と彼女たち女性会員の話を聞きながら、私は思った。
 もしも二十年あまり前、世間から糾弾され漂流を強いられることがなかったら、現在の「方舟」はなかったかもしれない。漂流生活を通して、方舟の結束はますます強まり、脳梗塞を患ってまで娘たちを命懸けで守る父の存在は、娘たちにとって絶対となったのだろう。千石もまた、同時に「父」の役割から逃れることはできなくなったのではないだろうか――。
 千石が付け加えた。
「閉鎖的な空間を作ろうとしたのではない。世の中の生き方の間違いを正すのでもなかったんです。世の中の間違いを継承しないで、自分独自のあり方、生活をしていこうとしただけです」

「私は一本の歯」

 毎週日曜日、外部にも開かれた集会は「シオンの娘」で開かれる。いつもは客が酒を飲む、その空間においてである。壇上に座る千石の講和は一時間続く。
 その日、千石は昨今の少年犯罪に言及し、少年法を真向から批判した。
「『少年法』は何のためにあるのか。更正できると信じている行政がおかしいんです。人を殺すような悪いことをすれば、更正することはない。世間に迷惑をかけない人間になるとは嘘です。少年院は要らんもの。少年院を出て、やり方が巧妙になるだけです。
『幼子といへども、その動作(わざ)によりてその己の根性(こころね)の清きかあるいは正しきかをあらはず』と旧約聖書の二十章十一節にある。深層心理にしみこんだものは、もう直しがきかない。十七才の子は直らん。ハクがついて、立派な極道になるだけです。
 それよりも、そういう少年を生み出さない家庭環境を作ることが大切でしょう。『己のごとく汝の隣人を愛せよ』。己の次に、ではない。己のごとくです。親が人を愛することを教えていないのが問題です。知識だけを伸ばしていけば教育と考えている。命のすばらしさを教えることこそ、家庭教育なのです」
 千石の話は澱みない。会場にいる者たちは時折、大きく肯いては壇上をみつめている。熱心にメモをとる婦人もいた。
 集会の後、昨今の少年犯罪について、さらに彼の考えを聞いてみた。
「いま起きている事件の源は、結婚が間違っていることにあります。『結婚とは』と、厳しく自分に問うて踏み切っている人は少ない。みな付和雷同的に結婚を選択する。だから嘘が生じるんです」
 千石は家族のあり方の根本的な間違いは「シガラミ」にあるという。
「人間は不安定な生き物だから、シガラミを作って安定感を持とうとする。父や母がシガラミを作り、そこに子どもを入れてしまう。家族を壊すのではないが、シガラミは断たないと駄目なんです。私が二十年前にやったことは、それなんです。家族は愛によって結ばれるべき。それを表してみようとしたのが方舟で、家族の聖書的な原点なんです」
 では、愛とシガラミはどう違うのか。
「愛というのは、人間という存在に対しての価値の目覚めなんです。自己という存在の価値に目覚めるのなら、他者的に存在しているこの価値にも目覚める。このあり方に愛が成り立っている。それは感動でもある。愛は、自己の存在価値を認識すると同時に、他者の存在価値を認識する。その人間関係の中に愛というのが成り立つんです。自己なる存在の価値の認識が不十分だと、それはシガラミになる。自己なる存在価値というものは、何者にも拘束されていないことだと気づくんですね。宗教団体も家族もシガラミを持ち込むから駄目になるんです」
 相談者の悩みも親子問題が多いという。
「トラブルが起きると、親は絶対に自分が正しいというが、間違っていない親からは間違った子どもはできないんです。聖書には書いてある。『アザミからイチジクはできない』と。だから私は相談者にも言うんですね。子どもが悪いということは、あんたが悪い。父親だけでない。母親も悪い。親は子どもに対して幸せの方向性を示しておかないといかん。残念ながら、いま日本の親は全部できておらん。子どもにね、幸せの方向づけができる権威をもった親が存在しない」
 私が話を聞いた女性会員たちは異口同音に「親は答を持っていなかった」と語っている。両親の不仲に苦しんだ京子は「子の心、親知らず」と言った。大人の嘘に耐え兼ねる子どもの葛藤を、親は全く理解できていないというのである。
方舟が博多に錨を下ろして八年後に刊行された『父とは誰か、母とは誰か』の中で女性会員たちは自分の親との関係についてこうコメントしている。いまでも日本の子どもたちの叫びとしても通用する彼女たちの肉声はこうだ。
「自分の親は思ってもいないのに、思っているような言葉で言ってくる」
「親きょうだいと本音で話し合ったことはない」
「親のくせに、とつい考えてしまう。『私のことを本当に思っている』と言っているが、実は親は打算的なことをいう。それに気づいていない」
「親へは期待も依存心もある。だから、ふっきれない」
「普通の結婚は嫌。母も愚痴をごぼすばかりで幸せでないし」
 親子の問題は根深い。しかし、彼女たちも歳を重ね、また新たな形で親子問題に直面する日がやって来る。例えば、介護問題。親だけでなく自らも老いていく。その時、彼女たちは何を選択するのだろうか。どうやって親と向き合うのだろうか。
「本当は親を摂取しないといけない。突き放しただけではいけない。突き放してしまうと、自分自身には救いがない」
 彼女たちはこうも言っていた。
 親元を離れた女性会員たちは、この二十年間、親を許したい、深く交わりたいと、もだえ続けてきたのではないだろうか。親を摂取するための葛藤の日々。しかし、娘が「聖書」に従って寛大になったつもりでも、親の価値観が変わらなければ相変わらず「溝」は存在する。紀葉子は親の価値観をこちら側に引き寄せようとして、手紙を書いているのだという。
 しかし、一方で「方舟」は心地いい世界である。
「新しい人間関係を築きたくない」と紀葉子は言う。
たしかに、価値観の同じ人々が集まっているのだ。孤独を感じなくて済む。ストレスもない。悩みがあればすぐに答えてくれる「父」がいる。
 だが、ここに来るまでに、彼女たちは恋愛に興味を持たなかったのだろうか。セックスについてはどうだろう。こういった質問をしつこく投げかけたが、答は返ってこなかった。
 実は八〇年代、ある雑誌の対談で、千石は「女性会員が器量の衰えを嘆いている」と話しているのだ。おそらく、世の常の通り、そんなことを考えた時期もあったに違いない。しかし、それ以降も、彼女たちは「イエスの方舟」で日々をすごしてきた。二十年もの長きにわたって――。
 いまでも結婚に興味がないのか。千石と同じ価値観を持つ男性と巡り合ったらどうするのか、三女の恵に聞いてみた。
「オッチャンのような男性に巡り合えば考えますよ。でも、そんな人、いますか」
 しかし、いずれはその「父」もいなくなる日が来る。その時、残された者たちはどうするのか。私は千石に訊ねた。
「私は一本の歯みたいなもんです。一本歯が抜けただけで、人は死にはしない。私のようにやったらいいんです。聖書はなくなりませんからね。『イエスの方舟』の活動はもっと活発になるんじゃないですか」
 扉を開けて店の外に出ると、あたりは夜の街だった。屋台の酔客のものだろう、時折、那珂川の歩言う額から笑い声が高らかに響く。
「昨日と同じ今日」「今日と同じ明日」――。
 私はそんなことを頭の片隅でおぼろげに思う。振り向くと、一瞬の静寂の中に「シオンの娘」の藍色のネオンサインが滲んでみえた。
              (文中敬称略)