森英恵さんのご冥福をお祈りします

東京女子大の先輩でもある森英恵さんがいち早く世界的デザイナーになりえた裏に、占領期に日本へやってきたアメリカ将校夫人の存在があります。明治神宮隣にできた「ワシントンハイツ」のような米軍家族住宅は戦後、「日本人の衣食住をアメリカ化」する役割を果たします。住空間から畳が消え、和服を捨てて洋服に走るのです。
将校夫人の衣服縫製を依頼された森英恵さんは、将校夫人たちが持ち込む型紙を通して、丸いフォルムを覚えます。それらは、彼女がドレメで学んだ型紙と全く違ったのでした(拙著 第9章 有閑マダムの退屈な日々 参照)。その後、日本は空前の洋裁ブーム。アメリカに残されている占領期の日本の地方紙には、雨後の筍のように、洋裁教室の広告がぎっしり掲載されていたのをこの目で確認しています。
私も80年代終わりに、香港やバンコクでお気に入りの洋服持ち込んで、同じフォルムの服を作った経験があります。香港男子は私の服を解体して型紙をとり、縫い直して返却してきました。当時のアジアはまだまだ貧しく(90年代に入って目覚ましい成長を遂げるのだが)、彼らは先進国から来た客の情報をむさぼるように吸収しようとしていたのです。占領期の将校夫人からしたら、森英恵さんの「ひよしや」は、そんな店だったのでしょう。
ハンカチやトイレタリーなど、ライセンス事業であらゆる商品にハナエモリの蝶々が溢れた時代、正直、辟易して目をそらしたこともありました。でも、80年代に買ったVIVIDの赤いスーツとトロピカル風スカートは、いまも手元に残しています。
25歳で結婚した私に財力はなかったけれど、もしも富裕な一族に嫁ぐようなご縁があってドレスをオーダーしていたら、どんなデザインだったかなあと、森英恵さんの旅立ちを機に妄想してしまいました。
先輩のご冥福を、心からお祈りいたします。合掌
追記:文庫版『ワシントンハイツ』はデジタル版として販売されていますが、単行本・文庫本ともに新しい紙の本をご所望の場合は、神明舎で受け取ることができます。ご連絡くださいませ。

三宅一生さんのご冥福をお祈りします 1

ドイツ語のプリーツプリーズの本に、20世紀末の私のマンションの様子が掲載されています。カメラマンの都築響一さんの連載「着倒れ方丈記」プリーズプリーツ編で取材を受け、それが転載された形です。写真はママでなく、一部を掲載(母の形見となった桐たんす、削ったばかりでピカピカです)。
なで肩の私はキャスター時代、肩パットのある服を選んでいました。NHK「ナイトジャーナル」では、ティエリー・ミュグレーを購入していたのです。高島屋がライセンス契約をし、スーツなど日本人にあうデザインが豊富にあったころです。
その後、週一の関西テレビ通いと東南アジア取材モードになると、プリーズプリーツが主流になります。アジア圏では足を隠せるロングスカートが好ましいのと、移動にかさばらないのとで。(民放はクレジットが入るので、番組衣裳はスタイリストさんが借りてくれていたので)。
このプリーズプリーツ、東京では最初、クリエーター系女性の服で、どこか遠い感じでした。制服と呼びたくなるほど、パーティに行くと、お姉さまたちが黒のドレスに身をまとっていたのです。次第に色のバラエティが増え、私にも似合う色が制作されるようになって、この世界にはまっていきます。
東京の「よしおか」でも講座を持っていらした染司の吉岡幸雄先生には、「からだに優しいシルクを着るべき、アキオさんみたいに化繊を着たらあかん」と嫌味を言われていましたが、プリーズプリーツのワンピとカーデガンのコーデ・エクササイズは、和服の帯と着物のコーデの基礎になっています。
いまでも手元に残しているのに、なぜ着ないかって? お腹が出ているからです。プリーズプリーツは着る人のフォルムに忠実です。特にワンピを着ると、おなかの出っ張りが仇となるのでした。
ドイツ語版のこの本に登場する面白い柄、ほとんど私の手元にあるの、恐ろしいです。少し涼しくなったら、ご供養の意味でも、久しぶりに袖を通してみましょうか。おなかを引っ込める努力とともに。
表参道のお店でイッセイさんと交わした会話については、また改めて。
合掌