流行を追わないことが自信へとつながる

10代の頃から、私には人と同じで安心するという感覚がない。

ファッションひとつでも、他人と違ってナンボ。他の人と差別化ができてこそ、心が安定するようなところがある。だから、流行を追いたいという感覚がない。流行り物に飛びつかない性分なのである。

たとえば大学生になってすぐ、長い棒状のイヤリングが流行った。マイ・ピュア・レディ。資生堂のCFで小林麻美が耳につけて走るシーンがきっかけだったと記憶している。受験を終えて、なんとなくオシャレを覚えるころなので、友人たちは棒状のイヤリングをしていた。

ならば、と街を探し歩いてカミソリの形状のイヤリングをみつけ、私の耳に垂らしていた。色はゴールド。もちろん、本物ではない。父の髭剃りの中に入っている長方形のカミソリの刃は縦2センチほどで、耳の下で揺れると実に愛らしかった。しかも周囲では誰も着けていない。大満足だった。

当時、仲間うちで西洋占星術に照らして、こんな分析をしていた。「てんびん座は人と同じだと安心する。競争心の強い牡羊座は人と同じ物を身について勝ちたい。しし座は、他人と同じ物は選ばない」。はい、しし座は私を指すのだった。流行に振り回されない生き方は、動物の王者としては当然のことである。

流行を無視するわけではない。トレンドを一部取り入れて、自分らしく生きることが気持ちいいのである。たとえば和服を着る時も、桐たんすに入っていた母の着物をそのまま着るのは野暮である。平成風に、令和風に、帯か着物か小物を使って、イマドキの風を纏うことは重要だ。流行を追いかけるのではなく、風を感じて自分なりにアレンジする。それが着こなしのセンスというものだ。

行動の選択もそうだ、みんながやっているんだから、というのは私に対して最も説得力のない言いまわしである。ワクチン然り、SDGS然り。身を守るため、入国のためならワクチンをうつし、本当に地球のためとわかって取り組んだことが結果、SDGSだったという具合である。隣にあわせて流されるのではなく、自分の意志で、自分が選んで、という部分が大切なのである。

報じられている映像についても、鵜呑みにできない性分だ。自分で情報を集めて、自分の経験値で正しいかどうか見極めたい質(たち)なのである。

実社会では、この性格が禍したことは数知れず。だが、歳を重ねてみると、それは自信につながっている。人の評価に左右されない、精神的に体幹のしっかりした自分ができあがっているからだ。地球の怒りや自然災害へのおそれはあるが、しかし、他人の目は怖くない。自分に審美眼があるからだ。

おかげで、流行作家からは程遠い。売れる本を編み出すのが上手ではない。もしも、私の生き方に問題があるとすれば、これを仕事として生きていくことであろうか。