2002年10月6日掲載 拉致で読み誤った 外務省とマスコミ

 総理が訪朝を決めてからの一月余り、日朝交渉の話題が紙面を埋め尽くした。当初、拉致被害者の生存については誰もが楽観主義に陥っていた。だが、死亡説が伝えられて以降、小出しにされる不可解な情報に、ジェットコースターのように揺れ動いている。
 拉致被害者の家族の感情をマスコミが必要以上に煽っているとする批判もある。たしかに本紙でも訪朝当日の夕刊で早々と「不明の三人帰国で調整」書き、家族に過度の期待を与えている。
 しかし、問題はこうした事態を予測できなかった官邸と外務省にある。交渉過程も、拉致被害者にまつわる報告も、ありとあらゆる想定がなされるべきだった。その準備不足が家族への不誠実な発表となり、日本社会全体を混乱させている。相手が独裁国家ゆえの情報不足とは言わせない。訪朝前の本紙には、すでにその材料が掲載されているからだ。
 9月6日付「こちら特報部」では、過去の謝罪例を紹介。1968年、朴韓国元大統領を誘拐しようとした青瓦襲撃事件について、4年後に韓国側に謝罪したとある。米中接近を受け、韓国との対話路線を強いられたためだ。今回もアメリカが「ならず者国家」と呼んだことが、暗黙の圧力となった。当然、今回の謝罪も予測の範囲だ。
 金正日は拉致を認めながら、自らの関与を否定した。同じ言い訳を当時、彼の父が“口頭”で行なっている。「申し訳なかった。内部の左傾妄動分子の暴走で、私の意思ではなかった」。これが国際社会で追いつめられた時の「金王朝」外交の常套手段であるとなぜ判断できなかったのか。拉致謝罪を宣言に入れるべきではあったが、せめて覚書を添えるよう要求する準備くらいはできたはずだ。
 もっとも、訪朝前日の社説で「毅然とした態度で」とだけ謳った点では、本紙も読みが甘かったといえる。だからとって、外交のプロがメディアと同レベルでは困る。外務省の存在意義が問われよう。
 折しも今年は日中国交回復30周年。先月末には数々の式典が催された。私も北京に滞在、ある出版記念会に出席した。敗戦直後、日本に戻らず、中国建国のために尽力した日本人が大勢いた。『友誼鋳春秋』というタイトルのこの本は彼らの物語をまとめたものである。
 書籍にすることを提案したのは中国の元外交官だ。日本から受けた傷はあるが、「中日両国人民は世々代々、仲良くすべし」。周恩来のこの言葉を胸に、彼は日本赴任中から友好に心砕いたという。
 総理も外務省も、北朝鮮との交渉を第二の日中国交正常化と捉えている節がある。だが、当時の中国には周恩来という壮大な世界観を持ちあわせた指導者が存在したことを忘れてはならない。手放しで誉めるつもりはないが、祖国の展望を見据えていたという点は評価してもいいだろう。
 これまでも本紙で日中友好30年の特集記事が数々あった。次は国交回復の経緯を掘り下げてはどうか。歴史的背景や国家体制、当時の世界情勢から、日朝関係との徹底比較をしてほしい。外交とは何か。外務省解体論が囁かれる中、これを転機とすべきだ。