2003年1 月26日掲載 若者が希望持つよう首相は生きざま示せ

 今年の新成人は 152万人。数の上では昨年と同じだが、彼らはメディアの中で特別視されてきた年代だ。西鉄バスジャック事件を起こした少年や「殺す経験をしたかった」と主婦を刺した愛知の少年と同い年。3年前、「理由なき犯罪」世代といわれた、あの「十七歳」たちである。 
 14日付「こちら特報部」では、彼らが世間の偏見の中で苦悩の日々を過ごしたことが読み取れる。事件が起こるたび、教師は「何を考えているのかわからない」と頭を抱え、親には「こんなになるなよ」と言われたという。「何かを『壊したい』と思っている人が周りにもいるのかと思うと怖かった」と打ち明ける女性の声や同世代の犯行に及んだ動機を自分なりに分析する青年たちの姿勢が痛々しい。
 当時、メディアではさまざまな形で少年たちの心の闇を解き明かそうとした。だが、そうした試みは社会全体を正すには至らなかった。結果的にメディアは「十七歳」への偏見を高める拡声器の役割を果たし、彼らを新しい差別の枠の中に追いこんでしまったのだ。その彼らが成人の日にこう語る。「善い悪いを自分で判断できる大人になりたい」「カッコいい人間になりたい」。カッコ良さとは「吸殻をゴミ箱に捨てるような人間」だという。
 一瞬、幼稚に響くこの発言は、既存の大人へのアンチテーゼである。要は「自分で責任をとる大人になりたい」と話しているのだ。私は健全な社会には「なりたい大人」が存在するものだと思っている。彼らから「目標となる人物」の名前が出ないのは、日本の大人がだらしない証拠だ。子供が大統領に憧れるアメリカや、ホテル王が目標だったりする中華社会の方がずっと前向きである。
 実際、10日付3面に掲載されたネットアンケートによれば、8割以上の新成人が「日本の未来は明るくない」と答え、「今の政治家たちじゃ無理」だと感じている。
 小泉総理はこの結果を真摯に受け止めるべきである。本来、国民が夢を見られるような国づくりをするのが総理大臣の仕事だ。混迷の時代、それには時間を要するというのなら、まずは総理の生き様で見せるべきだ。
 一時的にせよ、日本の若者たちの期待を集めたのは小泉総理ではなかったか。「改革」を声高に叫ぶ総理を、彼らは世の悪を裁いてくれる大岡越前と重ね合わせた。多くの小学生は「小泉さんのようになりたい」と憧れ、当時4歳だった私の姪も「小泉さんはカッコいい」と新聞に掲載された写真をスクラップしていたくらいだ。
 だが、その姪が正月に一言。「小泉さんはもう辞めるんでしょ」。幼児の嗅覚を侮ることなかれ。 
 薄っぺらいパフォーマンスはもう要らない。バラエティ番組に出るよりも、週に一度、テレビで政策について国民に語りかけることに意味がある。丸投げしても構わないから、すべての政策に自ら説明責任を負うことだ。万が一失敗したら、担当大臣に責任をとらせ、総理自らが誤りを認めて政策転換を宣言すればいい。
「この程度の約束を守らなかったのは大したことない」といった弁明は、子供の教育に悪影響を及ぼすだけだ。良策がなければ、潔い闘い方を見せて希望を与えるのが任ではないか。国民は総理自身が「痛みに耐えて頑張る」姿を待っている。