2003年7月24日

小さな引越し

突然、家具を移動しようと思い立った。

いまのところに移ってから6年。この間に修士論文を書いて本を書いて、気づいたら本と資料の中に埋もれてしまった。もとより衣裳部屋はクリーニング屋さんのように服が詰まっている。しかし、仕事場とリビングは当初、整然としてたが、いまや寝室にまで文献資料があふれているのである。

かくなる上は、引越しモードにして、強引に片付けるように自分を追い込もうではないか。どうせなら、運気があがるレイアウトにしよう。

実はここに引っ越すときもコパの本を熟読した。いや、読み比べたのである。彼は著書によって言っていることが微妙にずれる。最大公約数的に、彼の説に従わねばならない。

西南にあったピアノを東南に動かし、東南にあったサイドボードを西に置いて窓をふさぐことにした。だが、トラックの必要な引越しとはわけが違う。家具の移動だけだ。とはいえ、ピアノの運搬となると、然るべき業者にお願いせねばなるまい。

日ごろ、ポストに入っているチラシに片っ端から電話した。1日に4軒、見積もりをとってもらったが、各社個性があって面白い。3万円から14万円まで。先方が提示した値段はいろいろだった。ピアノも含めて3万円は胡散臭いが、10万円は取りすぎである。ここへ移ったとき、お任せパックとトラックの輸送費、2日間の人件費を合わせても18万円だったのだ。せいぜい7万円台が妥当だろう。

面白いのは、見積もりを取りに来た人が即決で答えを欲しがることだ。気持ちはわかるが、朝一に来たところが3万円だから具合が悪い。思いきり無理をして8万円弱と言われても、やはり3万円には未練が残る。それに、せっかく4社のアポ入れをしたのだから、すべての対応を比べてみないと、決められないではないか。

最後にやってきたところは、やはり8万弱を提示した。一瞬、そこに惹かれた。見積もりに来た人のキャラが明るく、分りやすかったからだ。しかも彼が正直だと思われたのは、「これだけ荷物が多いのだから、時給で計算しませんか」と提案したことだ。しかも彼は当日自らが来て陣頭指揮をとるのだという。事前に段取りをシミュレーションした上にこの提案だから、説得力がある。

それにしても気になるのは3万円だ。そういう業者がいるのに、2倍半かける気には人間なれないものである。再度電話で確かめて、本当に可能かを確かめて、結局、そこにお願いすることにした。

驚いたのは当日、大の大人が4人も来たことだった。お任せパックで引っ越したのは過去に2回。一度は手馴れた主婦が食器などを梱包した。二度目は茶髪の若い男女が梱包を担当した。50前後の男性が4人、一度期にやってくるとは想像だにしていなかったのだ。しかも、ため息ばかりつくうるさ型も一人いたが、なんだか皆いい人たちで、下町で近所のおっちゃんたちに助けられているような錯覚を覚えた。

なにせ我が家は物が多い。家具を移動させるには、まず床に積んであった本と雑誌をダンボールに入れて外に出さねばならない。ピアノの移動もシャーリングの布を使って床に傷つけることなくずらしてくれた。いやあ、お見事。子供のころにピアノの運送というと、肩にかつぐものと相場が決まっていた。あれでは腰を痛めるだろうなあ、といつも眺めていたものだが、いやあ、お見事。ピアノを動かした段階で、2人は別のクラインアントにシフトし、残った二人がダンボールを部屋に運んで積み上げてくれた。

終わったころには、へとへと。アミノ酸の取材でお試しモードの私は「アミノバイタル」プロを飲んで引越しに臨んだから、屈伸運動の後にもかかわらず、筋肉疲労は一切なし。だが、神経がくたびれているのだ。何をどこにどう効率よく入れて運ぶか。その集中力、瞬発力は、半端ではない。骨の髄まで疲れている。もう頭がまわらない。

寝室のベッドの上に臨時に置いたグラスが残っているけれど、これは明日にまわしてもいいかしらん。

リビングの床にふとんを敷いて、どっ。なだれ込むように眠った。

2003年7月8日

日本一の米作り職人

7日から活性酸素消去米の取材で昨日から仙台に行ってきた。そのプロジェクトの一人、石井さんの田んぼも拝見させていただいた。

世界各地で畑や田んぼを訪れ、その風景にある種の郷愁を抱いてきた私だが、この年齢になって日本の農家を訪れると感動を覚える。これこそ日本の原風景だと思えるからだ。

みずみずしい緑の田んぼに、白い鷺が降り立った姿は実にすばらしい。しかし、鷺はどこにでも宿るわけではない。石井さんのところのように、無農薬で稲を育て、微生物が存在する田んぼにしかやってこないのである。

石井さんの作る米が他を圧倒する理由のひとつは、田植えの時期にある。他より一ヶ月ほど遅いのである。いや、正しくは他が一ヶ月早めてやっつけ仕事にしているのだ。いまや大半の農家は米作りだけではやってゆけない。そこで勤め人となり、その間に田植えを行う。つまり、ゴールデンウィークに終えてしまうというわけだ。

そうした田んぼは全面が緑である。ところ狭しと葉が生い茂っているのだ。そうなると、葉が養分を吸い上げ、化学肥料を与えざるを得ない。しかも稲の穂に栄養分がいかなくなる。

それに比べて、石井さんの田んぼの稲はまばらに映る。葉が少ない。しかも水面は藻の緑に覆われている。こういう稲こそ、おいしい米を育むのである。

毎年、金賞に輝く米作り日本一の石井さんの作る米は、低蛋白米だ。正確には、低蛋白米を作ろうとしたのではなく、発酵米糠でおいしい米作りを追求した結果、低蛋白米ができたというのが正解である。

その石井さんが今年から活性酸素消去農法を取り入れることになった。こちらも無農薬で低蛋白米だが、1年経っても味が落ちないのが特徴だ。つまり、一年中「新米」で、老化現象が起きないというわけだ。

活性酸素消去農法で育てた作物は簡単に「錆びない」。たとえば、石井さんが育てている韮。畑から葉をちぎって食べていると、あまくてびっくりする。刈り取った後も、普通の韮の倍は葉が元気な状態である。生の韮なんて・・・と思うかもしれないが、本当にあまいのだ。これは中華の炒め物にしてはもったいない。和食屋で「生のまま」食べるべきである。

だとすれば、人間もこれを食べ続ければ、「錆びない」わけだ。そう信じて、昨年できた活性酸素消去米と納豆にわかめのお味噌汁を食べている毎日。この半年、家にいるときにはシラタキ・ミートソースで体重をキープしてきた私だが、お米がおいしすぎて、1キロ増えてしまった。その分、運動しろということか。

2003年7月3日

月下氷人

夜9時から六本木ヒルズの個室で食事をした。建築家の隈さんとEZTVの矢野さんをお見合いさせるためだ。

最近、こうした月下氷人役を買って出ることが多い。仕事柄、大勢の人々に会う機会に恵まれてきた私だが、才能のある人々を引き合わせることも自分の任のような気がするからだ。新たなコラボレーションに喜びを見出すのは年老いた証拠かもしれない。

隈さんがトイレに行った隙に関西弁で矢野さんいわく、

「目茶目茶、頭いい人ですね。質問に対しての答が明確だわ」

隈さんの建築に対しての考え方を聞けば、彼が時代をどう捉えているかよくわかる。その目線の鋭さと深さに感動したのだと思う。

食事の後、隈さんが設計した図書館を見に行った。二ヶ月ほどまえ前に会った新聞記者がプレオープンで図書館を見学して、メンバーになろうか検討中だと話していたので、一度入ってみたいと思っていたのだ。

なるほど、自分の仕事場では得られない空間。東京の街を見下ろしながら、あらゆるオブリゲーションを全部投げ出して、読書三昧してみたくなるのは頷ける。デスクも椅子も非日常的なのがいい。サラリーマンだったら、家や職場を離れて、ここで小説のひとつも書いてみたくなるに違いない。いや、狭いマンションに住む主婦にとっても、家事や育児、介護からの逃避行的空間になりうるのだが。

そうだ。そんな二人の恋の物語もあるかもしれない。そういえば、「恋に落ちて」の始まりもNYの本屋さんだった。

帰りのタクシーの中での会話によれば、隈さんも矢野が気に入ったらしい。西麻布で私を降ろすと、外苑前の事務所へ戻っていった。売れっ子は夜中も仕事に忙殺される。

彼らが恋に落ちるかどうか。残念ながら、私の任はここまでである。

2003年7月2日

午前中は文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議に出席。

午後はぴあ・フィリムフェスティバル表彰式の打ち合わせ。昨年もお声をかけていただいたのだが、早稲田大学でメガワティの講義をすることになっていたので、お受けできずにいた。なんと今年で25周年だそうだ。継続は力なり。このフェスティバルから大勢の映画人を輩出してきた。打ち合わせをしながら、ウズベキスタン映画に出演した経験を熱く熱く語ってしまった。

赤坂サントリービルの1階ペンディオロッソ(赤坂のスペイン語訳)にいたので、広報部長の浜岡氏を訪ねた。彼は私の同期。あのままサントリアンでい続けたら、今頃私も課長くらいにはなっていたのだろうか。

その後、別の友人からお呼び出しがかかり、新しいプロジェクトの話を聞かさせる。郵政公社でも序々に動きがあるらしい。

 「スパモニ」が終わったら、打ち合わせ攻めの日々が続いている。