ワシントン素描 2004

アフガン攻撃以来、ブッシュ政権への批判を繰り返し、一部の視聴者からお叱りを受けてきた私ですが、一度は「ワシントン」の目線とメンタリティを知って発言したいと考え、ジョージタウン大学外交研究フェローとして昨年夏からワシントンに来ております。

アパートの近くにあるネオコンの牙城PNACを訪ねていけばやはり議論がかみ合わず、講演にやってきたウォルフォウィッツ国防副長官が自分がイスラームの理解者であると強調するのに抵抗を覚える一方で、大学のプロジェクトで一緒になったオルブライト女史のバランスのとれた考えに救われ、日本で想像するよりはるかに多くの米国人が平常心を取り戻しているのを知って安心したのも事実です。

情報の宝庫「ワシントン」で、旧東欧・ソ連、アジア諸国を歩いた私がどの角度でその集大成を書き上げられるのか正念場ですが、折しも今年は大統領選の年。民主党はケリー旋風で注目を集めながらも、しかし資金が豊富で悪運の強く、支持層の厚いブッシュには簡単には勝てないだろうとの予想しつつ、極右と極左に大きく揺れる米国の人々の選択も貪欲に観察して帰るつもりです。

ワシントンには地球の縮図。私が出向かなくても世界中から人々がやってきます。ここでは、アングロサクソン的思考を批判するだけでなく、日本がどうあるべきか、他国と相対化する作業を通して考えていきます。

3月に父が他界しました。私生活に吹き荒れたそんな出来事が故に、ワシントンの報告が遅れましたことを、この場を借りてお詫び申し上げます。

2004年3月 秋尾沙戸子

12月○日  2つの幕引き

 母校の校舎が壊される前にお別れの儀式が行われるというので、行ってみることにした。

 私が卒業した都立新宿高校は、渋谷区から新宿区に移転した。といっても、もともとグランドのあった土地に新校舎が建てられたので、すぐ隣に引越しただけのことである。

 旧校舎の校門は、明治通りをはさんで新宿高島屋の向かい側にある。日通とHISの間を入っていった、その奥だ。5階建ての校舎は昔のまま。遅刻ぎりぎりに5階まで駆け上ったことが懐かしく思い出される。1年生を5階で過ごし、1年ごとに1フロアずつ下がることになっていた。

――こんなに小さかったかなあ。

上から校庭を見下ろし、友人と感慨にふけった。図書館も狭く感じる。身長は変わっていないのに、どうやら目線が違っていたらしい。何もかも小さく感じるのは、人生経験のなせる技か。

30年近くも昔の記憶なので、蘇るのに少し時間を要したが、こうして校舎に足を踏み入れると、1枚、1 枚、思い出がフレーム入りのフォトグラフとして浮かんでくる。コンクリートをこだましたエレキギターの音が聞こえてくる。目にごみが入ってコンタクトレンズを入れようとしたとき、指先のレンズを風がさらっていったことも懐かしい。

式典の司会はニッポン放送の上柳アナが担当した。衆議院議員の塩崎氏がやってきてスピーチをした。坂本龍一さんも先輩の一人だが、姿は現さなかった。当時よりずっと低く見える朝礼台で、入学式の時に校長が話したことは妙に鮮明に覚えている。

「新宿南口から校舎にたどりつくまでに、たくさんの連れ込み宿がありますので、お父さん、お母さんは心配かもしれませんが、こうしたものを若いうちから見ておくことは免疫ができて却っていいのです。(中略)本校の卒業生には、共産党の不破さんと、木枯らし門次郎でおなじみの中村敦夫さんがいます」

そんな旅館街も高島屋の建設に伴う再開発でずいぶんと姿を変えた。店や旅館が閉めてしまう前に聞き書きを試みればよかったと少し後悔している。いよいよ、この校舎も壊されるのだが、さて、次は何が建てられるのであろうか。

陽があたっているとはいえ、吹きすさぶ風の中、校庭で行われた式典に和服で出席するのは、足袋を着用した足が凍えてつらい。3時をまわったところで、私は歌舞伎座へと向かった。

中村勘九郎さん最後の舞台は人気で、チケットを確保するのに苦労した。待ちに待った結果、土壇場になって1階の真ん中の席が手に入った。なんという幸せ。かぶりつきで最後の勘九郎さんの表情が見られるのだ。演題は次の通り。

御存 鈴が森

阿国歌舞伎夢華

たぬき

今昔桃太郎

  「阿国歌舞伎夢華」の玉三郎さんは、やはり美しかった。最近は福助さんの女形がお気に入りの私。二人のような艶っぽさは、どうやったら身につくのか。かつて「ナイトジャーナル」にゲストとしてベジャール氏をスタジオにお招きした時、事前に彼の稽古の様子を見に行ったことがある。その際、素顔の玉三郎さんも見学されていて、そのしなやかな座り方に感動した。別のテーマで笑也さんにご登場いただいたときに訊ねたところ、そうした所作を身につけるには、日舞を学ぶしかないのだと言われたのを思い出す。

 「たぬき」の三津五郎さんは見事だった。襲名以来、演技に深みが出てきたと感じているのは私だけではないと思う。勘九郎さん最後の挨拶でも、一足先に八十助さん卒業を経験した先輩として、隣で見守っていた温かいまなざしが印象的だった。

「桃太郎」は勘九郎さんの親友、渡辺えりこさんが脚本を担当。途中、過去の舞いを見せた中の連獅子は千秋楽のみで披露されたらしい。七之助君との連獅子をワシントンで見た私としては、感慨ひとしおであった。

そして最後の舞台挨拶。真ん中のかぶりつきだから、表情をリアルに観察できる。もちろん、スタンディング・オーベーション。30分くらい続いたであろうか。鳴り止まぬ拍手の中、勘九郎さん本人が自ら幕引きを行ったのであった。

12月○日 ゴルカル党首選の結果

 インドネシアには「ムシャワラ」という言葉がある。徹底的に話し合い、皆が納得して決めるという慣習である。党大会を見ていると、これがムシャワラか、と納得してしまう。各地方の代表が、ああだこうだと意見を言い出し、なかなか先に進まない。なかには、取っ組み合いの喧嘩をする場面もある。よって党大会はスケジュールを大幅に狂わせて進行していく。

 地元メディアがもっとも注目したのは、党首選である。開票は深夜にもつれこんだ。候補が4人いたために、誰も過半数に届かず、2回戦に持ち越された。決着が着いたのは朝6時。みな、ぐったりしていた。

 予想通り、副大統領ユスフ・カラの勝利だ。インドネシア財界から9人の富豪を従えて乗り込めば、勝てないわけがない。前夜には相当額の実弾を撃ったと噂されている。大統領選で民主化が進んだように見えたインドネシアだが、相変わらずの金権政治にがっかりだ。その日の午後に発表された人事が発表されたが、プラボウォやスピア・パロなど、ユスフ・カラが自分の支持者として連れてきた9人の財界の大物たちが、一斉にアドバイザーに名前を連ねた。かつては大統領スハルトが占めたその地位を、彼らは金で買い占めたのである。

 しかも、彼らはこれまでの経緯から、対抗馬の現役党首アクバル・タンジュンに恨みを持つ人々なのだから始末に悪い。

「みんなリベンジなんだ。一番のワルはウィラントだ。アクバル支持を装って、何もせずに彼を敗北に追い込んだ」

 こう語る人々は、アクバルに同情的であるが、彼らは自分の会派の方針からユスフに票を投じたのである。

「いまにゴルカルは政府の道具にされてしまう。スハルトの時と同じさ。党員が怒って再び選挙に持ち込むか、われわれがゴルカルを去るか」

 結局は、インドネシア政治はコップの中の嵐のまま。金を使ってのリベンジ合戦。直接選挙で国民が決定権を握る方法以外に、インドネシア政界の悪しき慣習は払拭できないという現実を目の当たりにすることになってしまった。

12月○日 ゴルカル党大会2日目

 4月にワシントンで党首であるアクバル・タンジュンに会ったときは、あまりに老いたその姿に衝撃を受けたほどだ。しかし、アカウタビリティ・スピーチとビデオ通して彼の党首としての尽力を示されて、その理由が痛いほど理解できた。スハルト政権崩壊以降、彼は国会議長としてその運営に心砕いただけでなく、ゴルカルを政党として再生させるために、インドネシア全国を奔走したのだった。

 インドネシアでは共産党をつぶした歴史がある。同じ轍は踏むまい。独裁者が去ったからと言って、その集票マシーンであったゴルカルをつぶしてはならない。ゴルカルとは職能グループであるのだが、実質、与党としての役割も担ってきた。しかし、32年にわたるスハルト政権が倒れて数年、インドネシア社会全体が熱に浮かされたように反ゴルカルにまわった。その逆風の中、アクバルや幹部がこの党を支えるために踏ん張ったのだった。99年に6万人だった党員を40万人にまで増やした功績は評価されてしかるべきだろう。

 彼は大統領の器ではないけれど、実務派の政治家としては優秀だと感じ入った。99年、ワヒドではなくメガワティが大統領になり、アクバルが副大統領になっていれば、インドネシアの歴史は少し違ったかもしれない。

 さて、いよいよ明日は党首選挙の日。焦点は副大統領ユスフ・カラvs現職アクバル・タンジュンの闘いだ。

 もしもカラがゴルカル党首におさまれば、SBY(スシロ・バンバン・ユドヨノ)政権は安泰、と思いきや、これがどうやら違うらしい。恐ろしいことに、彼は大統領よりも権限を持ってしまうため、SBYが窮地に追い込まれることになる。すでに正副大統領の不協和音が聞こえてきているのに、カラが党首になれば思うツボ。2年後には財界をバックにつけてSBYは大統領の座から追い落とされるかもしれない。

 インドネシアのテレビ局はオーナーの意向で論調が決まる危うさの中にあり、彼らがSBYのネガティブキャンペーンをはれば、追い落としなど容易いことだ。カラには大衆をひきつける魅力がないので、5年後に国民の直接選挙で大統領に選ばれることは、ほぼ不可能。ならば、大統領をはずして自分がスライドする以外にチャンスはない。彼が米国副大統領チェイニーのように「副」でおさまることに我慢ができなければ、フィリピンの女性大統領アローヨのように、ちゃっかり副大統領から大統領に昇格することを狙う可能性は十分にある。

 それを阻止するためにもアクバルを党首にという人々と、カラという勝ち馬に乗ってインドネシア社会でのし上がろうとする人々の闘い。これがバリで起きていることだ。ウィラントは自分の票をアクバルに渡し辞退した。

12月○日 山吹色の魔力

 一体これは何だ。黄色のジャケットの山。目がちかちか。頭くらくら。バリ島にいるというのに、私を襲ったのは太陽光線ではない。

 眩しい海外線の誘惑に目を覆い、会議場ロビーに足を踏み入れた途端、ゴルカル党のシンボルカラーである黄色が私を直撃した。自民党大会やアメリカの民主党大会など、いろいろな国の党大会を見てきた私としては、おみやげとして、時計やボールペンなど、ノベルティが売られている光景には慣れっこだ。しかし、ジャケットの大量販売は初めての経験。メガワティ率いる闘争民主党の大会でも、赤のジャケットがこんなに下がっているのは見たことがない。

 材質は綿や化繊が主流。中には革ジャンも売られている。こんなに暑い国で革ジャンなんか誰が買うんかい。こんなチープなデザインでは、場末のキャバレーのステージ衣装と相場が決まっている。などと冷ややかに見すごして会場に入って、またびっくり。 100%、全員が黄色のジャケット着用なのである。きゃあ、もしかして黒は私一人? 冷房対策はピンクのカーデガンだし、所在ないのなんのって。まぁずい。品がないけど、私もあのジャケットを買う?5日間着れば元がとれるかなあ。

 しかし、最前列の来賓席の名前をチェックして、一瞬の迷いから開放された。椅子の上にタウフィック・キマスの名を発見・・・。ということは妻である前大統領のメガワティも来賓?たしかに隣の隣にはPDIP総裁と書かれたカードが置かれている。ここでゴルカル色を着た折には、メガワティの顰蹙を買ってしまう。あくまで、中立を通さなければならない。

 思いがけず、バリでメガワティと会うことができた。大統領選挙に敗れてから初めての対面だった。大統領の座を退いてストレスは減ったのだろう。彼女はとても感じよく、にこやかだった。大統領選挙ではゴルカル党のアクバル派がメガワティ支持にまわったのだから、党大会に出席するのは自然だが、しかし、敗れた身としては、辛い試練でもあったはずだ。

 時間は前後するが、早々と会場に着いた私は、党の幹部に呼び込まれて前から2列目に座る羽目になっていた。な、なんと、そこは党首候補たちのすぐ後ろ。しかも、そのお隣には、あのスハルトの娘婿プラボウォが座ってしまった。98年5月にジャカルタを混乱に陥れた張本人。しかし、この人もインフォーマントの一人にしたい私はついつい、こちらから挨拶してしまった。実に節操がない。

 それにしても、ゴルカル党の山吹色。宗教チックで不思議な魔力を持つ。これが党のシンボルカラーである限り、金権政治と決別できないのではないだろうか。弔事に喪服ばかり集うと、デザインで差別化を図りたくなるように、なるほど、同じ山吹色でも党員によっては工夫がなされている。部外者の私でさえ、皮ジャンも悪くないと思えてきた。冷房でからだが冷えてくれば、思わず買いたくなる。さりとて、こんな色のジャケットは東京に帰れば無用の長物。そういえば、我が家には山吹色の服があれもあった、これもあった、一着くらい持ってくれば良かったと、同じ色を着ながらにして、自分らしさを強調しようとする私がいる。会場にいると、山吹色に染まることに抵抗なくなっていく心理は、我ながら怖いと思った。