東京と京都の掛け合わせ

日曜日の石川九楊講演会のために前日に京都入り。チェックインすると15時の打ち合わせに間に合わないからと、荷物をひきずって、地下鉄に乗る。教わった経路が地下鉄仕様だったためだ。

京都で地下鉄に乗ることは滅多に無い。だから、ベルリンで戸惑った時と不思議な感じは同じである。思えば、京都での移動は、いつも徒歩かバスかタクシーだった。外の風景が見えるのが楽しいのと、バスの行き先が神社仏閣なので、表示もわかりやすいのだ。NYも最初のころは、バスで移動していた。

やはり東京は凄い。最近はたいがいの乗り物の改札付近に、エレベータやエスカレータが存在する。キャリーバッグをひきずっていても、どうにかなる。なのに、京都ときたら、表示が不親切な上に、どこも階段しかなく、荷物を持って階段を上り下りするうちに、汗だくになってしまった。おまけに、地上に出れば、雨が降っている。最悪だ。

京都で車椅子だと大変なのではないだろうか。バスはどうなっているのだろう。アメリカの州によっては、バスの乗り口が自動で下がるようになっている。あちらの車椅子は電動が圧倒的なので、それを使う客が乗った場合には、回転できるように、皆でその一帯を空ける。それが当たり前なのだ。

たとえばワシントンDCなどは、地下鉄にエレベータとエスカレータが必ずあるが、特にエスカレータが故障したままということは、めずらしくない。便利なのか便利でないのか悩むところだが、それでも、インフラとして、どちらも備え付けているところは、考え方として正しい。

で、打ち合わせはといえば、先生は参加されないのだという。昨夜遅くに、京都の塾生とともに打ち合わせを終えたのだという。それを伝えておいてくれれば、チェックインして荷物を預けるくらいの調整は可能であったろうに。私なら、そう連絡するのだが、どうも京都の人たちはノンビリしている。伝統文化に携わる人々や女将さんたちは別として、普通の人々は、気が利くようで、気が回らないということがよくある。

そういえば、先日、あるコンサルタントの人が語っていたことを思い出した。地方経済が大変とよく言われるが、実際、東京ほどには効率よく働かないから、同じに論じられないのだという。地方のある企業に、「試しに、東京の企業と同じくらい社員を働かてみましょう。残業もさせてみて、結果をみましょう」と助言した。結果、利益が2割上がったのだそうだ。

京都には、ホンモノを追求する心や、我々が置き去りにしてきた知恵がたくさん詰まっている。しかし、それを維持しているのは、伝統文化を維持する世界に特化しているのかもしれない。一般の人々は、案外、ノンビリしてるのだろう。移民が押し寄せる時代には、その気質は災いする。東京と京都のいい部分をミックスできると、日本のありようが明確になるような気もするが、これについては改めて考えてみたい。

「戦略」アレルギー

昨日、文部科学省の会議に出ていて、驚いたことがある。「戦略」という言葉に過剰なまでに敏感なのだ。

ある研究プロジェクトの成果発表について、タイトルに戦略という言葉を盛り込むことを提案したところ、却下されたのだ。研究者の間で、反発があるからだという。

戦略と使っただけで、戦争に突入していった日本のありようにつながるとする思考回路は理解できる。そうした敏感さが戦後日本の平和を維持してきたのも確かだ。しかし、世界は大きく変わっている。そこに囚われている段階ではない。

たとえば、アメリカにいれば、戦略という単語はデモクラシーと同じくらい連発される。中国のいまの動きをみれば、きわめて戦略的である。そのハザマにいながら、戦略を持たない国が近い将来どうなるかは明らかである。

東アジア共同体についての会議に出た人によれば、日本勢はきわめて楽観的で、棚ぼた式に、これまでのようなポジションを日本が維持できると錯覚しているという。これは大きな間違いである。

小さい国ながら、大国に飲まれないための「戦略」。これを日本が持たないかぎり、私が生きている間に、日本は二等国になりさがる。いや、どこかの属国になる可能性も十分ある。それに日本人が耐えられるとはとても思えないのだが。

吉報を受けて

  受賞の知らせを受けた瞬間。このあと、目がうるうるしてきます。

6月17日付の朝刊に記事が掲載されたので、朝からたくさんの方々より、電話やメールを受け取りました。ありがとうございます。通勤電車で読んで駅のホームから電話をくれた人、会社についてすぐにメールをくれた人、あんなに小さな記事をしっかりみつけてくれて、まだまだ新聞が読まれていることを実感しました。メールが大半でしたが、電報も一通受け取り、なんだか懐かしくてほっとしました。電子ブックが話題の昨今、便利さから一瞬、そちらに振れたとしても、やはり紙の本がいいという人が圧倒的ではないでしょうか。そんなことを考えた6月17日でした。

日本エッセイストクラブ賞受賞

昨日、「日本エッセイストクラブ賞」の最終選考会が開かれ、拙著『ワシントンハイツ』の受賞が決まりました。

選考会の間をどこで過ごすか、結果をどこで受けるかは悩むところですが、今回は『ワシントンハイツ』に登場する明治神宮の森におりました。吉報は、満開の菖蒲園にて受けました。

ちょうど前日に増刷も決まり、第二版は28日に書店に並びます。

皆さまに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

ハワイの出雲大社

日系人取材の流れで、ホノルル滞在中に出雲大社を訪れた。

日本ではパワースポットブームだが、最近ははるばる「お水とり」に訪れる人もいるのだという。場所は、チャイナタウンの少し先。ワイキキからだとバス「2番」でたどり着く。

新政権に目配せを

日本の総理交代などアメリカではさしたるニュースにもならないのだが、帰国してみれば、菅政権に対する日本のメディアの持ち上げようが異常に思える。世論調査でやたら支持率が高いというのも、あまり納得がいかないことである。小沢氏排除が好感されているというが、それも出来レースに見えてしまうのだ。

目先の生活にばかり追われて、日本という国のありようが知らないうちに変わっていた、ということがないように、日本国民の一人として、新政権をしっかり観察しなければと思う。

戦後の占領以来、日本人はアメリカの背中を見て成長してきた。だから兄貴分としてアメリカに押さえられることには慣れているし、我慢もできた。しかし、急激に発展を遂げた隣国の傘下に収まることに、はたして日本国民はどれほど耐えられるのだろうか。

普天間問題を通して反米感情を煽り立てられ、ふと気づいたら、別の大国に支配されないよう、日本のありようを考えるべき時だ。これまで沖縄の首長たちが日本政府を手玉にとってきた交渉術は実に見事で、琉球王国以来、彼らが持っているしたたかさ=小国ながら大国に飲まれない知恵を、いまこそ私たち日本人は学ぶべきではないだろうか。

そうした知恵が日本の政治家にあるかどうか疑わしい。マスメディアに翻弄されることなく、国民一人一人が洞察力を身につけ、政権を注視していくしかないのである。

ナイトジャーナル(NHK)

NHK の隠れた人気番組「ナイトジャーナル」のキャスターとして活躍。・・・

「人物ファイル94-95」で秋尾沙戸子を引くと、こんな書き出しで始まる。93年から放送された「ナイトジャーナル」は放送時間が23時20分から24時までと深く、視聴率も4パーセントを超えたのは数回で、いつもは視力検査に近い数字だった。時代の先端を行く現象の深層に迫ろうという番組で、文化面、社会面を掘り下げたテーマが中心だった。帰宅後、日々のニュースを知りたい人は筑紫哲也さんや桜井良子さんの出演される番組にチャネルを合わせていたのだと思う。

同じ時期に始まった「クローズアップ現代」は30分かけて1テーマ、しかし「ナイトジャーナル」は40分しかないのに2テーマ、それと書評・CD評も加わるという、コアな3テーマ(後半から2テーマに減った)に取り組む番組だった。また「クロ現」は対論でゲストと話を進められるのに対し、「ナイトジャーナル」には複数のゲストと男性キャスター、どちらの意見も引き出さなければならず、当時35歳の私には、すべてのテーマを理解していくのとあわせて難儀なことであった。

曜日替わりのキャスターは次のとおり。月曜日は民俗学者の大月隆寛さん、火曜日は詩人の林浩平さん、水曜日は宗教学者の島田裕巳さん、木曜日はデザイン評論家の柏木博さんだった。書評はノンフィクション作家の井田真木子さん、文芸評論家の安原顕さん、解剖学者の養老孟司さん、文芸評論家の高橋さん、CD評は中村とうようさん、萩原健太さん、石井寛さんがそれぞれ紹介していくださった。

それだけテーマがあるのだから、スタジオに来ていただいたゲストも多彩。大学の先生たちはもちろんのこと、佐高信さん、ピーコさん、大島渚さん、草間弥生さん、愛川欽也・うつみ宮土里夫妻。後にノンフィクション作家の先輩として親しくさせていただくようになる佐野眞一さんは「ナイトジャーナル」がテレビ初出演。それにピアニストのアシュケナージなどが海外アーティストがやってきて演奏を披露してくれた。

できれば番組終了後にいろいろお話もしたかったのだけれど、3つもテーマがあると、本番に突然やってきて去っていく方々も大勢いらした。それが心残りだ。

初期のころに「女性器をどう呼ぶか」というテーマがあり、ずいぶんと週刊誌をにぎわせたものだった。若いスタッフによるNHKなりのタブーに挑戦したわけだが、こうした冒険が上層部の怒りを買ったのかもしれない。1年で番組は終了してしまった。

指導者の仕事

「僕だったら、自分の発言が恥ずかしくて、生きていられないよ」

友人の息子の中学生は、ニュースを見ながら、こうつぶやいているという。もちろん、総理大臣のことである。

だが、総理が辞めたところで、後任の顔ぶれを想像すると、さらに混乱を極めそうだ。いっそ鳩山氏のままではないかと考えてはみる。結果、この程度で総理は勤まると舐められても癪に障る。その子の母親と私の共通見解である。だから、悩ましい。

福島党首も鳩山総理も、評論家の域を出ないのだ。反対するだけなら、誰にでもできる。交渉してまとめあげて形にするのが政治家の仕事だ。それには、すさまじい量の情報を集めて精査する力と戦略、それに決断力が求められる。

「大統領の仕事は決断することである」

かつてクリントン元大統領が演説の中でそう話すのを聞いたことがある。アメリカの場合、国防省、国務省、CIAなどの機関から、全く別の情報があがってくることがある。それらの中からホンモノを見抜いて決断するのは、大統領の仕事だ。

日本の場合、決断以前に、その情報さえまともに官邸にあがってこない。政治家を舐める官僚に非があるのか、官僚をその気にさせない総理の資質の問題なのか。

経済政策はともかくとして、小泉元総理には、官僚を本気にさせる魅力があった。彼に進言すれば、形にできるのではないかと官僚が頑張った形跡はあちらこちらに残っている。

今後の日本で、官僚をその気にさせる総理候補が存在するのかどうか。それが無理なら、死ぬ気で情報を集めるシステムを創りあげなければ、日本は日本でなくなってしまう。アメリカのみならず、共産党の権力闘争を勝ち抜いてきた中国の政治家と渡り合うこともほぼ不可能に近いだろう。