今日は渋谷でワシントンハイツについてお話します。
空きができて若干名当日でも入れるようです。16時以降、お店にお電話くださいね。
第9回 :
渋谷のアメリカ村〜ワシントンハイツがもたらしたもの〜
■ MC: 田中雅之 (『渋谷の秘密』編集者/PARCO出版)
東京都渋谷区渋谷3-22-11 4F-A http://li-po.jp 03-6661-2200
https://shibureki-09.peatix.com
今日は渋谷でワシントンハイツについてお話します。
空きができて若干名当日でも入れるようです。16時以降、お店にお電話くださいね。
朝4時台に起きることに成功した時は大概、前夜早い時間に転寝をしてそのまま寝込んでしまったことが多いのだが、この季節は特に、京都に異国の朝と同じ匂いを感じる。とりわけパリやローマ、ワシントンDCと重なるのだ。
目的が取材であったとしても、異国での日々は非日常。少しでも多くのことを吸収したくて、早起きをする。まだ町が眠っていて、人びとの営みが始まる前の静けさを、五感を最大限に生かして感じ取ろうとするのだ。そんな貪欲な野心に満ちた時間を、早朝の京都に感じることが多い。
だからといって、同じ感覚はNYにはない。東京にもない。やはりワシントンDCか欧州なのだ。きっとNYの気忙しさには、なにか違和感を感じているのかもしれない。東京も違う、NYと東京には、前夜の名残があるのだ。朝までお酒を飲んだ人びとが町を歩いていたりする。車も少なからず走っている。タクシーが見つかれば乗り込む人がいる。あるいは、始発に乗るべく駅に向かう若者たちが複数出歩いている。本当の静寂からは程遠い。
京都の圧倒的な静寂の中、PCに向かっていると睡魔に襲われることもある。そんなときはマンションの扉を開けてエレベーターまで歩く。往復歩行を繰り返す内、細胞が刺激されて脳が動き出す。またPCに向かう。やがて東山が白んできて、カラスが鳴き始め、山の端を橙に染めながら朝日がのぼってくる。この色の変化がたまらないのだ。そのうち、まばゆい光を放つ太陽には、つい手を合わせて感謝したくなる。町家よりマンション暮らしがありがたいと思える瞬間でもある。
上賀茂神社の「相嘗祭」に参列。本殿には獲れたての稲穂が頭をしたに掲げられていました。神事に参列された方が少なかったこともあり、本殿前は神気にあふれていて、神さまが悦んでおられるのが伝わってきました。
纏ったのは青の色無地。稲穂の帯をしめています。秋晴れの空に獲れたての稲のイメージで。
その年の新穀と新酒を伊勢の天照大神に奉られるのが「神嘗祭」。天皇がとくに信仰された全国71座の神々に奉られる祭儀が「相嘗祭」。天皇ご自身が召し上がるのが「新嘗祭」。戦後、新嘗祭は「勤労感謝の日」と呼び名を変えられ、日本人のお米への感謝意識が消えていきました。が、天皇はいまでも、この新嘗祭が終わるまで新米を口にされないそうです。
社務所に戻り、直会で頂いた神酒は白酒。できたての新酒ゆえ、白くにごっています。なんともありがたい。実は先日のフォーラム、進行がうまくゆかなかったと落ち込んでおりましたが、そういう迷いを祓っていただけた気がしています。
神事の終わりには参列者に向けて必ず宮司さんのご挨拶があるのですが、その後、個人的にお声をかけていただき、しばし応接で歓談させていただきました。元旦の歳旦祭以来です。
その後、境内の摂社末社に手を合わせてまわりました。ならの小川沿いにある小さな社殿には、素戔嗚命、瀬織津姫がおわします。今回、京都展に提出する書は瀬織津姫神。夕方表具の打ち合わせの行く前に、ご挨拶させていただいた次第。瀬織津姫は、大祓詞に登場します。罪穢れを川に流してくれる女神様です。
日本時間では、今日がベルリンの壁が開いて32年。共産党独裁政権を倒して自由を手にしてから、彼らは幸せになったのかどうか。ドイツでは、コロナがまた感染拡大が深刻となりつつあり、かつ、アラブの春の際に入れてしまった移民の問題が尾を引いています。
とはいえ、ミャンマーでは突然、軍事政権が再び権力を握り、アフガニスタンでは米軍が撤退を始めたらタリバンが政権を奪取したことを思えば、旧東ドイツの人びとは自由が奪われたわけではありません。このまま平和が続くことを祈ります。
その点、日本は恵まれています。コロナの被害も少なく、自由は担保されています。自分で考え判断する習慣さえ持ち続ければ、いざという時にも自力で判断し、生き延びることが可能です。神仏に感謝を捧げ、謙虚に生きていけば、きっとだいじょうぶ。
京都御苑にある白雲神社では、火焚祭&湯立神楽が斎行されます。琵琶との縁が深かった弁財天さまが祀られた神社が御苑の中に残っているのです。この日、京都にいられた私は、湯立神楽のお湯を浴びて、無病息災を祈ってきました。
11月8日は伏見稲荷大社火焚祭の日。「アキオとアキコの京都女磨き」に書いたように、伏見稲荷のお火焚きは3部構成です。
午後の1部2部は「明日の京都文化遺産プラットフォーム」フォーラムと重なり、終了後、3部を観に伏見まで出向きました。本殿前で火を焚きながらの宮中神楽の再現。いい感じです。
火と水で祓いをするというのは神道の考えだけれど、炎をみつけてみるだけで癒やされる気がするのは、その場に存在するだけで祓われるからだろうか。たとえば密教の護摩焚きを始め日本の宗教行事に火を用いるのは、仏教伝来の段階でゾロアスター教の影響を受けたからと思われるが、そうした歴史や理屈抜きで、炎には魅力がある。「鬼滅の刃」の作者も、そこを理解していたのではないか。
前日は貴船神社、10日は白雲神社、18日は上御霊神社、22日は広隆寺、23日はあちらこちら。京都においでの際は、どこかの火焚祭も覗いてみて。
いやあ、どうしましょう。祇園囃子が聞こえてきました。おそらく鷹山さん。三条通りからです。見に行きたいけれど、私は明日の準備中。
「明日の京都文化遺産プラットフォーム」主催のフォーラム「感染症を乗り越える:道の文化と京の歴史」がいよいよ明日に迫ってきました。パネルディスカッションの進行役を担っているのです。表千家十五代家元、華道家元池坊事務総長、志野流香道二十一代家元後嗣によるパネルを仕切るの、緊張します。太田光さんにならないように、言葉をちゃんと選ばなければ。
と思ったら、事務局から電話が入り、舞台を事前に見ませんか?とのこと。立命館朱雀キャンパスに向かったのであります。
立冬とは思えぬ暖かさ。無事にいい話を聞き出せますように。
友、遠方より来る。でもないか。東京からやってきた友人とモーニング。お墓参りに行って帰りたいということなので、ランチではなく朝食を。
マリベルの朝食とか美味だったのだが、コロナで無し。ほかにもホテルいろいろ問い合わせたけれど、コロナで中止もしくは宿泊客のみ。まだまだ以前のようにはいきませぬ。
で、選んだのがイノダ本店。モーニング食べたの初めてかも。
色々話すうちに、お墓が深草とわかり、一緒に伏見稲荷大社に参拝することになった。8日のお火焚き祭の前にお献酒をしたかったので。いつもは本殿+αなのに、今回は奥宮まで。
やっぱり混んでましたね。七五三の参拝客は昨年も大勢しましたが、しかし、解放されて京都にやってきたグループも結構して、微妙に混雑。それでも、外国人が少ないので、いまのうち、いまのうち。
その後、私はひとり八坂神社に向かい、摂社末社に手を合わせました。先日の出雲大社参拝を報告したり、8日のフォーラムの無事を祈ったり。
丁寧に参拝していたら、講座の時間が迫ってきていて、焦って東洞院の向かったのであります。三条まちづくり協議会主催の講座いろいろ。でも、会場がわかりにくく、最初の講座は半分しか聞けず。後半の発掘の話は興味深く、三条通りから出土した桃山茶陶を見て感動した私でした。
六本木の出雲大社東京分祠へ。島根の出雲大社に参拝に出向いたこともあり、分祠長さんとお話させていただきました。今年の神迎祭、昨年に続いて、地方の分祠長さんたちも参列が許されていないそうです。
最初のご縁は、拙著『スウィング・ジャパン』(新潮社)の取材。主人公のジミー荒木氏のお父さまは、当時、西麻布にあった東京分祠で資格を取得。開教師としてハリウッドで協会を開き、宮司さんをされていたのです。そこへ真珠湾攻撃。家族は収容所に送られることになるのです。
彼らが収容された地はアリゾナの砂漠。日系人収容所十箇所のうち、比較的ゆるかったヒラリバー収容所でした。ほかの収容所での悲惨な体験については、色々書物が出ています。おそらく一番きつかったのは、世代間の違い。2つの祖国が戦争することになったとき、日本人として生きるのか、アメリカ人として生きるのかというスタンスの違いで親子が対立したのです。アメリカを憎み、被害者としてネガティブな一世たちと、アメリカ国籍を持ち、戦後もアメリカ人として生きようとする日系二世たち。後者は、戦後を見据えて日系人のポジションをあげるために、親の反対を押し切って米軍に入隊します。やがて誰もが徴兵されることになるのですが、ジミーは徴兵組の世代です。
アメリカ人として生きようとする彼らにとって、収容所の中に届くラジオは希望の電波でした。スウィング・ジャズ全盛期、どの収容所にも、高校生のビッグバンドが誕生します。人並みはずれた耳の持ち主だったジミーは、その中心人物となりました。やがて陸軍日本語学校の教師となった彼は、学校でもバンドと作りますが、教員という立場からその活動を止めねばならなくなります。戦争が終わって、占領軍の一人として日本にやってきた彼は、「ジャズの神様」として皆の尊敬を集めるのでした。
ジミーさんの役割は、日本語通訳。おそらくは諜報活動にも関与していたはずです。占領軍は日本国内縦横無尽に動けたので、仕事の合間にまず、西麻布の出雲大社東京分祠を訪ねます。そして島根の出雲大社に向かい、参拝をしています。こうした事実に行きつく手がかりは、「稲佐の浜」で撮影された一枚の写真だけ。事件を追う刑事か弁護士か、足で稼ぐ果てしない作業です。
ノンフィクションは、ジグゾーパズルに似て、一片のピースをはめ込んで絵にする作業です。どうにか絵にできたものの、しかし、当時の私はまだ、神社についてちゃんと理解ができていなかったかと思います。京都で暮らして、いまはかなりの神社通。リライトしたい野心はあるのですが、さほど売れなかったので、文庫化されることは無いままです。
最後は日本文学の教授となる彼の人生については、『スウィング・ジャパン』をご高覧ください。文庫化されてはいませんが、電子書籍で読めます。