4月13日 植草さん逮捕?

 ワシントンでは朝9時からフジテレビのニュースが放送される。それによると、エコノミストの植草さんが覗きで捕まったという。本当だろうか。

 電車の中で鏡を使って女子高生のスカートの中を見ていたそうな。それを神奈川県警にマークされていての現行犯逮捕?これだけテレビに出ているのだから自重できなかったのかなあ。

 竹中改革を真っ向から批判し、しかも冷静な語り口で話す彼は、説得力があるコメンテーターであるとして、結構、私のまわりにはファンが多かったのだ。そのファンの一人からのメールには、「木村剛さん、さぞお喜びでしょう」と書かれていた。

 野党がだらしない日本では、こういうコメンテーターは貴重なのだ。常に政策を批判できる人物がメディアの中に数人存在し続けなければいけない。なのに、こんなことで消えさってしまうのは、実にもったいない。

 先日、たしか「スーフリ」という名前だったと思うが、例のレイプ事件について台湾の留学生から根掘り葉掘り聞かれて困った。彼女は1年間、交換留学で日本にいたという。なぜ、早稲田のような立派な大学に通う男子学生がそんなことをするのか理解できないから説明してくれというのだ。

 同じ早稲田で今度は教授? またこの件について質問されたらどうしよう。外国にいるときに、こういうのが一番困る。総括して説明が求められるからだ。外国人からみれば、たしかに日本人、あるいは日本社会を全体化して考えたくなるのもわかるけれど・・・。

 しかし、もっとショックだったのは、38歳の男友達からのメールだった。

「酒の席では植草さんの話で持ちきりで、その中に彼の気持が分かるという奴がいてさ。彼が特別なんじゃなくて、やっぱ、いまの日本って本当にそういう男が多いんだろなあって思い知らされたよ」

尊敬できない大人ばかりの日本社会って、本当に不幸だとつくづく思う。

4月12日 イースターに韓国映画「2009」

 地下鉄のエスカレータは深くて長い。大江戸線に慣れた東京人にはさして驚くことでもないだろうが、十分に老体であるため停止していることは珍しくなく、下りはゆっくりの上に揺れがひどく、めまいがしそうである。上りは途中から屋外になるので、雨なら途中で傘を開かねばならない。それでも、空に向かっていく開放感は、トンネルを抜けるときに似て、心がはずむものである。

デュポン・サークル駅なら、南口より北口のエスカレータにさらなる趣がある。周囲に高いビルがないため、途中から高くて青い空が広がっている。夜なら星が瞬くのを眺めながら、秋には黄金色の大銀杏を見上げながら、物思いにひたる時間は十分にある。

一昨日も夜空を仰ぎながら考え事をしていると、反対側のエスカレータの男の子たちがいきなり大声で叫んだ。振り返れば、私に向かって手を振っているではないか。

その二人は、数日前に食事をともにしたロッキードに勤務する青年たちだった。彼らは田中角栄の名前すら聞いたことがないらしいが、私たちにすれば、ロッキードといえば日本の首相を追い込んだスキャンダルがまず浮かぶ。もっとも私が彼らに会ったのは、取材でもなんでもなく、アイリーンという香港出身の学部生が私を彼らの食事会に連れて行ったためである。

たった一度しか会ったことがないのに、この偶然。映画かドラマのワンシーンにありそうな、エスカレータ越しのすれ違い。こんなに長いエスカレータでは、恋人が反対側まで上ったり下ったりして追いかけるのは時間がかかるなあ、などとシナリオを描いているうち、彼らは深く深く地下に沈んでいったのだった。

実は、彼らに今夜も会うことになっていた。アイリーンのルームメイトたちがイースターで家族のもとに帰るので、オープンハウスディナーに呼ばれていたのである。本来は娘であってもおかしくない学部生やその先輩と「つるむ」のも不思議なものである。だが、彼女たちの目線で行動すると、たとえば日ごろは見逃しているドラマを見るチャンスに恵まれ、発見がある。今日は彼らが毎週チェックしているという「アリエス」という女性のCIAのダブルエージェントが主人公の物語だった。

その前に「2009」という韓国映画をDVDで見た。18時に人を呼んでおいて、それから料理を作りはじめるというのがアイリーンの段取りだったからである。韓国が国策として国家予算をつぎこみ映画制作の充実を図っていることは知られているが、「首里城」や「JSA」とは違った赴きがあり、どこかテレビゲームを思わせるつくりが稚拙のようでもあり、ダイナミックでもあった。日本からは仲村トオルが参加して好演していた。Back to the Future の韓国版とでもいおうか。しかし、もっとポリティカルで日本人には心がいたむ映画だ。伊藤博文が暗殺された時から100年ということでこのタイトルがついているらしいが、半島と日本帝国の関係がわかっていない日本の若い世代には、このシナリオに潜在的に刷り込まれた感情がちゃんと理解できないだろう。徹底的な半日教育を受けた韓国の若者と同じようには、21世紀まで朝鮮半島が日本に支配されているというレトリックの持つ意味が響かないだろう。

この映画が日本で公開されるときには、どうか日韓関係の近現代史をあわせて学んでほしいものだ。歴史の副教材と日本の高校の授業で扱ってほしいものだ。それには、教師にも歴史観がないとだめなのだけれど。

4月8日  日本人人質事件

今朝はライス女史の公聴会。早起きしてシャワーを浴び、テレビの前にかじりついていると、日本から電話が入った。

「イラクで日本人が3人、人質にとられたらしい。

古館の報道ステーションでやっているよ、いま」

―――そうか。久米さんのNステは終わったんだっけ。

「こんな時にイラクに行くなよな。カメラマンとか言ってるけど、

聞いたこと無い名前だし、こんな状態の国に一人でNGOやるなんて

こうなるくらいは予測できるだろうに」

―――第一報から、こんなに厳しいんだ。

 友人はメディアの中で仕事をしている。戦場カメラマンといえば、ある程度のキャリアのある人なら、その筋で存在が知られているものだ。だから、今回のカメラマンは未経験のまま戦場に飛び込んだと彼は判断したのだと思う。

そんな反応が気になって、夜中にネット検索をしてみた。2ちゃんねるなどでは厳しい書き込みがあった。とりわけ一番若い青年に対して、知り合いが書き込んだものと思われるものが、かなり厳しい論調だった。彼は日本に居場所がなくて放浪の末、イラクに出向いたのだとするものだった。

日本に居場所がなくて海外を放浪することを、私は悪いとは思わない。むしろ日本の若者は積極的に外に出て、自分の国を相対化すべきだというのが私の持論だ。しかし、戦時下のイラクの一人で出かけるのは、それなりの準備がいるだろう。情報収集とシミュレーションだ。こういう事態になることを想定して、その場合はどうしたらいいかを日本の誰かに申し送りしておく必要がある。プロと名乗る以上、そしてフリーランサーである以上、そのくらいの覚悟と準備は必要だ。

日本社会は、組織に属してなく、素性がはっきりしていない人に対しては風当たりが強い。組織人の保証人なしにはアパートひとつ借りられないのである。今回の3人も、普通に生活していて拉致された人とは違い、個人で勝手にでかけたのだから、と判断されがちだ。だからこそ、フリーの人間は、組織人の何十倍もの根回しが求められる。若い彼らには、それがわかっていたのだろうか。

邦人を守る義務がある外務省は、あの手この手で救出を試みるだろう。小泉総理は確信犯で自衛隊を送ったのだから、簡単に引き上げるわけが無い。私の勘ではタジキスタンの時と同じように、法外な金額を払い、救出するのではないかと思う。ネットの空気から判断するに、世論が彼らになびくとは思えない。敵は自衛隊撤退を要求しているらしいが、世論がそちらに傾かない以上、小泉政権は安泰とみた。

では、彼らの命は保障されるのか。これについてもかなりの確率で大丈夫だろう。イスラームの考えでは、人質も客人として扱うはずである。柳田大元氏がアフガニスタンで拘束されたときもTBS「いちばん!エクスプレス」でそうコメントした。3人が思い切り抵抗しない限り、危害は加えられないはずだ。こういうご時世でもイラクに行きたいと思う3人は、ムスリムへのシンバシーを無意識に伝えると思うからだ。大義なき戦争でイラクに行かされ、イラク人に対して愛情を持たない米軍兵士とは発している空気が全く違い、そこは日本人のいいところだと考えている。

4月7日  「泥沼化」と焦る人々

 今週に入り、国際政治学者が異口同音にイラク情勢について、「ベトナム戦争」とか「泥沼化」というレトリックを用いて語り始めた。

「アメリカは引くに引けない事態になった。次に誰が政権をとっても、

解決の糸口がみつけられない辛い立場に立たされる」

―――そんなことは最初から予想できたでしょうに。なんでいまごろ?

ブッシュの仕掛けたイラク戦争を批判的に語るリベラル派の学者といえども、どこかで力で抑えられると信じていたところにも、アメリカ人の傲慢な目線を感じてしまう。学内だけでなく、テレビにコメンテーターとして登場する人々も、みな突然、「ベトナム化」を口にするようになった。

 事の発端は、アメリカ軍「兵士」の逆さ吊り事件。ファルージャ籠城のきっかけになった、米国民間人4名の焼死体がさらされた事件である。あの写真が先週の木曜日、新聞の一面を飾ったことから、ワシントンでは人々が事態を深刻に受け止め始めたのだ。

そもそも、この戦争に大義はなく、民主化を謳うのであれば、イラクの研究を十分にしてから始めるのが筋だ。フセイン後のイラクについて、何のヴィジョンも持たずに戦争をしかけたブッシュ政権の愚かさのツケとしか言いようが無い。フセインを取り除いたイラクがカオスになるのは誰に目にも明らかで、かつてかの地の統治に梃子摺った仲良し同盟国のイギリス人からなぜ学んでおかなかったのか、その詰めの甘さがそのまま答として現れたのだと思う。

もっとも、ベトナム戦争についても、マクナマラが自身の回顧録で、ベトナムについての地域研究が役に立たなかった、と語っているように、国費をかけて研究したところで、肌の色が違う人間たちに対しての理解度はすこぶる低いのだろう。彼らの瞳には都合の悪いものは映らないようにできているのかもしれない。いや、あまりに大雑把で、肝心なことはザルの隙間から抜け落ちるのだろう。

相手の国も民族も理解できないのに民主化だなんて、傲慢以外の何といえばいいのだろう。フセインを悪者にするだけで、一人一人のことは何も見えていないのだ。いつも地球儀を眺めている彼らには、それは無理からぬこともしれない。ただ肉を鉄板で焼けばいいと考える大味な感性が、外交にも反映されてくるから怖い。

ネオコンの牙城PNACを訪れ、ゲイリー・シュミットと話したとき、中東の理解がとことんずれていて、会話がかみ合わない上、途中から先方が怒り出したのが印象的だった。

私がこう尋ねたからだ。

―――イスラームについて、勉強されたんですか。

 ジョージタウン大学に一度、イラクの民主化推進グループがやってきたことがある。その部族長のカリスマ性のあること。あんなのがゴロゴロしていたら、よほど強いリーダーがいないと、あの国は束ねられないだろうと思う。アフガニスタンでも、カルザイの統治能力が早くも疑問視されている。国家建設がいかに大変なのかは、歴史が語っているはずなのだが。

3月31日 アメリカの遺書

大学時代の友人が再婚した。彼女はアメリカ留学を経て30歳くらいから国際機関で仕事をしているが、アメリカで離婚と再婚を体験したことになる。相手はいずれも日本人。だが再婚相手はやはりアメリカや海外赴任が長く、マルタイナショナルは感覚を理解できる人のようだ。しかも、もう成人した子どもがいるので、友人は子育てを経ることなく、いきなりステップマザーになったのである。
 先日、彼女の夫が遺書を作成することになったという。再婚した彼には先妻との間の子どもがいるので、作っておくべきだということになったのである。その遺書が面白い。ありとあらゆる想定が必要で、さすがシミュレーション教育の行き届いたアメリカだと思い知らされた。たとえば、彼の不動産などの資産を妻に相続するとしたら、彼女が死んだときにはどうなるのか。息子に資産を残すとしたら、彼が結婚したときはどうなるのか。つまり、息子が死んだ場合、孫がいなかったら財産をそのまま、会ったこともないお嫁さんに譲るのでいいのか、それとも再婚相手が健在なら、その継母に移すのか、あるいは寄付するのか。そうしたシミュレーションを50年先まで行ったうえで、ありとあらゆるケースに対して、故人の「ウィル」を尊重するというわけだ。
 これは妙案である。人生ゲームのように、自分と縁のある人々の順列組み合わせを考え、そこに故人の意思を反映させるのである。遺書というと縁起が悪いと考えがちだが、死んだ後も脈々と故人の考えが貫かれるのだから、それこそ「ウィル」なのである。日本でも皆、考えてみたらいい。一度相続したら、そこからラグビーボールのように、わけの分からない方向に流れていくのではなく、故人が納得のいく方向で財産が生かされるのである。
実は、この話が出たのは、私たちの共通の友人の近況話からであった。その友人の場合、彼女の家に資産があるのだが、夫との間に子どもがいないため、お母さんが相続に難色を示しているという。つまり、娘が早死にした場合、全額がその夫のものになると思うと釈然としないというわけだ。いっそ離婚でもしれくれれば、生前贈与も考えるのに、と彼女のお母さんはもらしているらしい。
 こうした考えはよく耳にする。自分たちが築き上げてきた財産を血のつながった孫が受け継ぐならいいが、他人に持っていかれるなら別の子どもに回したい。日本の高度成長期を支えた親なら、当然の発想である。そして少子化が進む日本ではますます、こうした問題に直面することになるのであろう。
 そこで、夫にならって友人も「ウィル」作成を考えるという。彼女の場合、縁ができたばかりのステップ・サンに、たとえば彼女所有のアメリカのアパートを譲るのか、それとも寄付を考えるのか。それとも実弟に譲るのか。だが、その夫婦には子どもはいない。寄付の場合、よほどその団体を吟味して、ここぞというところが見つからないと実行に移せない。
 私はどうするのだろう。幸い私には姪がいるので彼女に譲ることにしよう。しかし彼女が結婚した場合はどうしよう。一人で生きていくなら多少の蓄えも役に立とうが、彼女がとんでもなく甲斐性のない男として別れるときに吸い取られたのではたまらない。
・・・などと皮算用をしてみたところで、現実的な問題は、それだけの資産を残せるかどうか。自分で食い潰して、せめて彼女のお世話にならないことがやっとかもしれない。
 いずれにせよ、「ウィル」の作成は、自分の人生設計をあれこれ思い描く意味でも、日本で流行らせる価値はある考え方ではある。

3月19日 大統領のうつわ1

今日はイラク攻撃から1年。タイミングを合わせたかのようにアルカイーダのNO2を包囲したというニュースが飛び込み、朝から報道番組はアメリカ外交一辺倒だ。ワシントンの教育機関に爆弾が仕掛けられたとかで、公立学校はみなお休みとなる。大学関係者もこの情報に腰が引けて、「ブッシュのせいで自分たちの日常がこんな脅威に置かれてしまった、いい迷惑だ」と怒る始末。私はといえば、図書館に通いもせず、ジョージタウンの町を歩いてそそくさと帰ってきた。
はるか台湾では、総統選挙がおこなわれる。その前日に総統・陳水扁が副総統・呂秀連とともに撃たれ、衝撃が走った。きっと彼に同情票が集まるだろう。瞬間、私は「自作自演」を疑ってしまった。というのも、今回の選挙は、前回負けた二人、つまり国民党の連戦党首が総統候補、親民党の宋楚楡党首が副総統候補として一本化しているため接線になりそうからだ。対して、陳氏は国際社会の注目を集める作戦にかけていた。レファレンダムを狙っていたのだ。「中国が台湾に向けて496基のミサイルを配備していることに対して直接投票を実施する」と総統権限で言い出していたのである。その延長線上の出来事だったから、ワシントンでも一部で、「自作自演説」が広がったのはもっともだ。私の直感的な反応はしかし、そこにあるのではなく、私自身、陳氏をあまり評価していないことから来ている。
私の陳水扁の力量への疑いはすでに10年前、90年代半ばに遡る。こうした考えのもち主はそのころ、きわめて少数派だった。95年、現総統が台北市長時代、当時の総統・李登輝が台北で投票するにあたって、彼はそこに随行していた。その腰巾着そのままの姿から、彼の指導者としての器を信用できずにいる私だったが、台湾の友人たちはこう言ったものだ。
「僕たちはそれこそ彼が戦ってきた姿を見てきたからね」
85年の選挙で遊説の際、呉淑珍夫人がトラックにひかれ下半身不随になった。この事故は外省人による政治的テロだったとの見方が主流だ。そうした事件を通して彼への支持は高まり、台湾独立機運とともに彼は台北市長、そして総統に選ばれるに至ったのである。彼は「台湾独立」を願う人々の期待の星だった。貧しい農民の子である彼が政界に踊りでる姿も台湾の高度成長と重なったし、妻の呉淑珍夫人が車椅子生活を余儀なくされてもなお、台湾のために闘い続けるという姿勢が人々をひきつけたのであった。言ってみれば、彼は時代の申し子だったのかもしれない。
くわえて国際社会の評価も高かった。欧米の経済誌かニューズマガジンで21世紀の期待される政治家100人(ビジネスマンも含まれていたかもしれない)の中に、彼はランクインしていたほどである。
しかし、彼はその内外の期待を見事に裏切った。就任してすぐ、台湾人の間では台湾の将来に対する不安とともに彼の指導者としての力量に失望感が広がっていった。02年に私が久しぶりに訪れた台北では、人々の間ではこんな日常会話が広がっていた。
「台湾でこのまま餓死するか、大陸に乗り込んで一発勝負をかけるか。それ以外に我々台湾人に生き残る道はない」
台湾経済が低迷する一方で、中国の発展には目を見張るものがある。独立どころの騒ぎではなく、自分たちがどう生き残るかが問題だ、というのである。日本同様、経済苦で自殺する人々も多いのだといっていた。折しも、陳総統は金融政策の失敗などからその支持率が政権発足以来、最低だった。
今回の事件がきっかけで、同情票から陳氏に投票する人が出てくるであろう。しかし、かつてのような期待はない。もっといえば、選挙に対して盛り上がりにかける。中国の勢いの前に、一部の推進派を除けば、かつて独立を支持していた人々は弱気になっている。
さりとて、対抗馬の連戦候補が当選すればいいかといえば、李登輝政権の副総統だった彼には、まったく人徳がない。悪しき国民党のイメージ、いわゆる「黒金政治」のイメージを払拭することは不可能だ。「黒」とは黒社会(マフィア)、「金」は金権政治を意味し、台湾の腐敗政治を意味する表現であるが、国民党はそのイメージが重すぎて、人々は投票に後ろ向きになるのである。かくなる上は、国民党が早く世代交代をすることである。台北市長の馬九英を上手に育てれば、まだ芽はある。マスクがいいこともあるが、彼には爽やかなオーラがある。これは、指導者として必要最低条件だと私は考えている。残念ながら、陳氏はそうしたオーラに欠けているのだ。
つくづく李登輝は大物だったと思わされる。昨年、マレーシアのマハティールが首相の座から退いた段階で、アジアの指導者が軒並みこつぶになった。時を同じくして、かつて朝貢貿易でこの地域を君臨した中国の台頭が重なることは、必ずしも偶然ではないだろう。
新しいアジアの歴史は中国を中心に流れが変わろうとしている。

3月16日 ワシントンの春

ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
 日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
 昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
 最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
 春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。

3月16日 ワシントンの春

ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
 日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
 昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
 最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
 春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。 

2003年8月9日

京都薬剤師会のお招きで、京都に講演にでかけた。文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議の委員でいらっしゃる京都大学の乾先生のお声がけで、日ごろ会議で発言していることなど、薬剤師の方々に発破をかけ、エールを送るのが目的だ。

 夕方からの講演会だったので、その夜は宿泊することになっていた。会場の隣にあるホテル・グランビアに 5時にチェックインという予定だったが、台風による新幹線の遅れが心配されたので、少し早めに到着した。

 で、レセプションでの出来事である。頂いた書類に「秋尾沙戸子さまのお名前で予約を入れていますので、その旨受付にお申し出ください」と書かれていたので、その旨を訊ねると、名前がないのだという。あれこれ探して貰っても駄目。そこで書類に書かれていた番号や乾先生の番号、講演会会場などに電話してもらったが、どこも誰も出ない。実は他のホテルの間違いだろうか。私の後ろには何人も列を作って待っているのに、そんな作業で20分が過ぎた。時間通りに5時に来ていたら、さぞかし苛ついたに違いない。

 結局、名前はみつからないが、勝手にチェックインしてしまうことにした。本当にこのホテルでよかったのかどうか確かめるべく携帯で電話をかけ続けていると、部屋に着いてすぐ電話が鳴った。

「申し訳ございません。こちらの手違いで秋尾さまのお名前がありました」

「どういうことですか」

「秋尾様が青木様で入っておりました」

私の名前がアオキと聞き違いされることはよくあることだ。しかし、JR西日本経営の、京都駅に聳える一流ホテルがどうしてそれをみつけられないのだろうか。ましてや京都は観光地だ。もてなしの心が生きているはずの京都で、この扱いはひどすぎる。海外からの客の場合、名前と苗字が反対に登録されることもある。アキオでみつけられなければ、サトコで検索するのはレセプショニストとしては常識ではないのだろうか。だんだん腹が経ってきた。私の貴重な20分を返して欲しい。海外ならすぐにグラスシャンパンでも持って謝りに来るのに。

「どうしてこういうことが起きるのでしょうか。お宅では名前で検索する教育はしていないのですか」

 電話口に出たレセプションの責任者に私は続けてこう尋ねた。

「経営はどちらでしたっけ」

しばらくして、レセプションの責任者がドアをノックした。

「申し訳ございません。このフロアのもう少し広いお部屋をご用意しまいしたので、よろしければ、そちらにお移りください」

 これは意外な展開だった。ホテルはサービス業だ。クレームをつけることは私にとって世直しの一環。不手際の原因を突き止め反省してくれれば、それで私は満足なのだ。しかし、少し広めのお部屋がどんなものか興味があったので、その申し出を受けることにした。

 なるほど、いきなり部屋の数がひとつ増え、数もワンランクアップ。バスルームの窓から空が見える。ちょっと得した気分である。

 講演の冒頭で私はこの話をした。病院の中でも同様に、もうひとつ機転を利かせれば、もうひとつ違う角度からチェックをすれば、事故を防げたのに。これまでの医療過誤でもそういうケースは多々あったはずだからだ。

 会場に集まった薬剤師の方々は、非常に熱心に話を聞いてくださった。ただ、もったいないのは彼らの熱意が世間一般に伝わっていないことだ。調剤薬局はともかく、病院では薬剤師の顔が見えにくい。ようやく病院によっては病棟薬剤師として病室の患者と薬剤師が向き合う試みがなされるようになったが、入院経験がないとその努力が伝わらないのがもったいないと思う。

 講演会の後に一部の方々とお食事をした。ベテランの女性薬剤師2人がそろって口にしたのは、処方箋をみると開業医の力量がわかるのだという。これこそ医薬分業の妙だろう。医師免許をとって、以後ろくに勉強もせず、のんびり開業をしている医師へのいい刺激になる。

 部屋に戻って、お風呂に入った。そこからは向かいのビルの屋上しか見えない。京都の町はフラットだ。高層ビルは滅多にない。そんな中で町の薬局の姿も目立つ。夜遅くまで明るすぎるほどの灯りを放つドラッグストアとコンビニに占拠された街とはわけが違う。

コツコツと一人一人の営みが生かされる町でもある。サービス業としてはあるまじき失態を演じた大きなホテルでさえ、申し入れれば対応し改善できる余裕がある。日ごろの乾先生のお言葉どおり、京都の薬剤師会から日本の薬剤師の意識を変えるということは、あながち夢でもないなあ。窓からネオンの少ない夜空を見ながら、ふとそう思った。

2003年7月24日

小さな引越し

突然、家具を移動しようと思い立った。

いまのところに移ってから6年。この間に修士論文を書いて本を書いて、気づいたら本と資料の中に埋もれてしまった。もとより衣裳部屋はクリーニング屋さんのように服が詰まっている。しかし、仕事場とリビングは当初、整然としてたが、いまや寝室にまで文献資料があふれているのである。

かくなる上は、引越しモードにして、強引に片付けるように自分を追い込もうではないか。どうせなら、運気があがるレイアウトにしよう。

実はここに引っ越すときもコパの本を熟読した。いや、読み比べたのである。彼は著書によって言っていることが微妙にずれる。最大公約数的に、彼の説に従わねばならない。

西南にあったピアノを東南に動かし、東南にあったサイドボードを西に置いて窓をふさぐことにした。だが、トラックの必要な引越しとはわけが違う。家具の移動だけだ。とはいえ、ピアノの運搬となると、然るべき業者にお願いせねばなるまい。

日ごろ、ポストに入っているチラシに片っ端から電話した。1日に4軒、見積もりをとってもらったが、各社個性があって面白い。3万円から14万円まで。先方が提示した値段はいろいろだった。ピアノも含めて3万円は胡散臭いが、10万円は取りすぎである。ここへ移ったとき、お任せパックとトラックの輸送費、2日間の人件費を合わせても18万円だったのだ。せいぜい7万円台が妥当だろう。

面白いのは、見積もりを取りに来た人が即決で答えを欲しがることだ。気持ちはわかるが、朝一に来たところが3万円だから具合が悪い。思いきり無理をして8万円弱と言われても、やはり3万円には未練が残る。それに、せっかく4社のアポ入れをしたのだから、すべての対応を比べてみないと、決められないではないか。

最後にやってきたところは、やはり8万弱を提示した。一瞬、そこに惹かれた。見積もりに来た人のキャラが明るく、分りやすかったからだ。しかも彼が正直だと思われたのは、「これだけ荷物が多いのだから、時給で計算しませんか」と提案したことだ。しかも彼は当日自らが来て陣頭指揮をとるのだという。事前に段取りをシミュレーションした上にこの提案だから、説得力がある。

それにしても気になるのは3万円だ。そういう業者がいるのに、2倍半かける気には人間なれないものである。再度電話で確かめて、本当に可能かを確かめて、結局、そこにお願いすることにした。

驚いたのは当日、大の大人が4人も来たことだった。お任せパックで引っ越したのは過去に2回。一度は手馴れた主婦が食器などを梱包した。二度目は茶髪の若い男女が梱包を担当した。50前後の男性が4人、一度期にやってくるとは想像だにしていなかったのだ。しかも、ため息ばかりつくうるさ型も一人いたが、なんだか皆いい人たちで、下町で近所のおっちゃんたちに助けられているような錯覚を覚えた。

なにせ我が家は物が多い。家具を移動させるには、まず床に積んであった本と雑誌をダンボールに入れて外に出さねばならない。ピアノの移動もシャーリングの布を使って床に傷つけることなくずらしてくれた。いやあ、お見事。子供のころにピアノの運送というと、肩にかつぐものと相場が決まっていた。あれでは腰を痛めるだろうなあ、といつも眺めていたものだが、いやあ、お見事。ピアノを動かした段階で、2人は別のクラインアントにシフトし、残った二人がダンボールを部屋に運んで積み上げてくれた。

終わったころには、へとへと。アミノ酸の取材でお試しモードの私は「アミノバイタル」プロを飲んで引越しに臨んだから、屈伸運動の後にもかかわらず、筋肉疲労は一切なし。だが、神経がくたびれているのだ。何をどこにどう効率よく入れて運ぶか。その集中力、瞬発力は、半端ではない。骨の髄まで疲れている。もう頭がまわらない。

寝室のベッドの上に臨時に置いたグラスが残っているけれど、これは明日にまわしてもいいかしらん。

リビングの床にふとんを敷いて、どっ。なだれ込むように眠った。