6月20日 ジョージ・フォアマン、そしてグリル

 ワシントンに来て間もないころ、食器を買うためにデパートに赴いた。エスカレーターをあがっていくと、そこに積まれたダンボールの箱で微笑んでいる1枚の写真。スキンヘッドの男性はジョージ・フォアマンに似ているけど、まさか――。

 どう見ても、フォアマンである。しかし、ニッと笑うその笑顔が、どうも私の中のイメージと違うのである。彼は渋く戦う人でなければいけない。少なくともNHKのドキュメンタリーを見た人ならそう思うはずだ。沢木耕太郎の書いた(とされる)あの渋いナレーション。あのイメージからは遠すぎる。

 しかも、その箱の中の商品はグリルである。斜めになっていてハンバーグの余分な油が落ち、太らない電気グリルなのだ。その箱の中には、コーヒーメーカーとトースターまで入って29ドル99セントなのである。あまりの安さに私はしり込みをした。フォアマンの笑顔もチープ、3点セットもチープ。このチープには何か裏がある。そう疑って、家に戻った。

 そして3日後、再び出かけてみると、同じ箱が59ドル99で売っているではないか。あれは幻だったのか。なんだか夢から覚めたようなショックに思わず店員に尋ねると「あれは週末セールさ。またやるかもしれないから週末にくれば」とあっさり言われた。ほんとうかな。未練がましく土曜日にでかけてみると、なんと再び29ドル99セントで売られているではないか。しかも、とても肉づきのいい黒人のおばさんが、その商品を買おうとしている。彼女に写真の主を尋ねてみた。

「あら、もちろんフォアマンよ。ほらグリルのチャンプって書いてあるでしょ」

  たしかに、よく見れば、GEORGE  FOREMANと書かれている。この笑顔が情けない気もするが、どうせコーヒーメーカーもトースターも必要だ。3つで3500円なら試してみることにしよう。

 ところが、これが優れものなのである。電気代をどれほど食うのか知らないが、すぐに熱くなってハンバーグがあっという間に出来上がる。一人分のひき肉をラップに包んだものを冷凍庫から出して解凍し、そのラップを広げて玉ねぎ(急ぎのときはフリーズドライのねぎ)とドライにんにくの粒、ハーブ、パン粉、そしてチリパウダーを混ぜてこねたものをフォアマングリルで焼くと、これがいいツマミになり、いいおかずになるというわけだ。しかも簡単にできるので、ペーパーを書きながらでも用意ができる。サラダでも用意すれば食生活は万全だ。お弁当にも楽そうだから、日本で売れば必ずヒットすると思う。

コーヒーメーカーとトースターはおまけみたいなものだから、ま、最低限の機能しかなくてもよしとしよう。とにかく私はこの買い物に、いたって満足だった。

そして、これには続きがある。ひょんなことで知り合ったグリルだから、どれほどメジャーかもわからない。しかし、東京のマツキヨ的ドラッグストアCVSにも置かれ、デパートでも週末ごとにフロアに並ぶこの商品は、一人用から大家族用まで、実に種類が豊富なのである。夜中に放送されるテレビ・ショッピングではフォアマン本人が出てきて商品説明をする始末。どうやら彼は破格の契約金でこの商品に名前を売ったらしい。

商品は一押しだが、この笑顔を見たら失望する日本のファンも多いだろうなあ。いや、もしかして本当にコアなファンは、驚かないのかもしれない。今日はハムをグリルしながら、ふとそう思った。

6月15日 セミとホタル

 ワシントンは自然が豊かなところだ。四季折々の花の変化を見るだけでも楽しく、幸せな気分になるのだが、そこに動物までお目見えするからさらに楽しみが加わるというわけである。アパートメントの合間の芝の上をリスがかけめぐり、すずめに似た鳥が小さな虫をついばみ、最近はリスにまぎれてねずみまで走り回る。大学ではとくに、学生がいなくなるクリスマス休暇や夏休みになると、リスがキャンパスを我が物顔にとびまわる光景がやたら目立つようになる。これだけ身近に存在すれば、ディズニー映画でリスが主役になるのもうなずける。そのイメージからリスは茶色と相場が決まっていると思っていたが、グレーや真っ黒なリスも少なくない。最近は目が肥えてきて、木の幹を駆け下りるリスも発見できるようになった。

すずめらしき鳥が芝の間の虫をついばむ姿も日常の光景だが、先日は少し大きな鳥がある昆虫を食べる姿を目撃した。ジョージタウン大学病院の向かいにあるスターバックスに腰掛けてクリスプ&クリームのドーナツを食べていたときのことである。鶫くらいの大きさだろうか。地面を這っている昆虫をパクっと食べてしまったのだ。

餌食となったのはセミである。セミがアスファルトの上をゆっくりと這っている光景は、決してめずらしくないのだ。

今年はセミが大量発生した年だという。10階のアパートの窓からはすごい勢いで飛ぶ小さな物体が目に入り、よくみると、それはセミで、突然、窓や網戸に小さな茶色の点をみつけると、これがまた、セミなのである。しかもアスファルトの上にも小さな茶色がころがっていて、仰向けになっていれば、それは短い生涯を終えたセミであり、うつ伏せならば、ゆっくりと這い回る死期の近いセミだったりもする。下を見ないで歩けば、必ずや踏んでしまいそうでドキドキする。樹木の下を歩くときは殊に要注意。

その最期にさしかかったセミを、その鳥は食べてしまったのである。人間に踏まれるよりは鳥の餌食になったほうが自然の摂理にあっているのだろう。しかし、子どものころからセミの生涯のはかなさを教えられてきたことを考えると、なんとも悲しい光景だった。

ワシントンでみかけるセミは茶色で、羽が透き通っている。子どものころに図鑑でみたニイニイゼミが近い印象だ。養老孟司先生に聞けば名前を教えてもらえるのかもしれないが、小ぶりで羽の透き通ったセミにははかなさが加わるというものである。

しかし、その声の印象がない。東京ではセミがけたたましく鳴くのを耳にしたら晩夏という印象がある。自分の生きた証を示すかのようにセミが鳴き始め、その声がピークに達したころ、空を見上げると、ずっと高く上のほうにあったりする。だが、これだけ死骸をみつけるというのに、その声が記憶にないのである。

 この前の日曜日の夜、図書館にこもって資料を読み込み、本数の少ないバスをベンチで待っていたときのことである。目の前を小さな光が通り過ぎた。かなり強い光で、小さなフラッシュを見てしまったような感じだった。まさか――。

その光は左に行ったかと思うと、次は右。ものすごい勢いで移動している。

 ホタルである。たった一匹のホタルがすいすいとワシントンの空気を自在に泳いでいるというわけだ。恥ずかしながらホタルといえば、東京にあるホテル椿山荘のホタル祭しか記憶にない。もっと幼いころ、祖母に連れられ岐阜の川べりあたりで見たことがあったのかもしれない。その貧しい体験から、ホタルは一匹ということはなく、数匹まとめて行動すると思っていたのだ。しかも、もっと緩やかな光を放っていたと記憶している。ところが、私が見たホタルは一匹である。なのに、何匹もいるような錯覚に陥るほど、縦横微塵に飛び回る。その光の強さとスピードのすごさ。

 やがて闇に目が慣れてくると、ホタルが必死で羽を動かしているのがみえる。ものすごい回数である。ふわふわと、いかにも身軽に飛んでいるように見えて、実は必死で羽を動かしている。その生命力には思わず拍手を送りたくなる。

 地球儀片手に世界秩序を考え、自分たちが正しいと信じて世界を振り回し続ける人々が集うワシントン。私がこの街を結構気に入っているのは、こうした自然との出会いがあるからである。

6月11日 大統領レーガン追悼の日

 今日は朝から元大統領レーガンの国葬がテレビ中継されている。二晩議事堂に安置された遺体に別れを告げる国民は20万人だったといわれる。せっかくワシントンにいるのだから行ってみようと思いつつ、最初の晩は私が体調を崩し、翌晩は一緒に行こうと約束した21歳のアイリーンが頭痛であきらめた。

 指導者にはオーラが必要だといわれる。しかし、そのオーラにも「陽」と「陰」があるのだと、元大統領の追悼番組を見ながら改めて考えた。彼はまさに「陽」のオーラを持ち合わせた大統領だったのだ。

 彼の映像が次々流されるのを見ながら、なんだか日本人の私まで元気になってしまった。彼の政策に賛成できるかどうかの問題ではない。彼の存在そのものがハリウッド映画的であり、ディズニーアニメ的なのである。同時にそれは、80年代という時代の空気そのものでもあった。

 80年代といえば、私たち日本人がまだ、アメリカの価値を信じることができた時代だ。

自由の国アメリカの星条旗はそれなりに眩しく、コカコーラやペプシコーラ、マクドナルドやケンタッキーが色あせることもなく、リーバイスのジーンズ、バドワイザーのロゴ、アメリカの音楽やハリウッド映画は日本の若者を魅了するのに十分な輝きを放っていた。CNNやMTVを通してアメリカ文化を吸収するのに必死になったものだ。プラザ合意の本当の意味などわかるはずもなく、ひたすら円高に沸き踊り、企業が海外進出を果たし、アメリカを買いあさったのもこのころだった。

 この数日間のメディアを通しての盛り上がりを見ながら、アメリカ人は、少なくともアメリカのメディアは古き良き時代を懐かしんでいるのだと思った。レーガンの持ち前の明るさに加えて、共産主義というわかりやすい敵が存在したことで、アメリカは善になりきれた。正義という言葉が真実味を帯びることができた。彼は強いアメリカを訴えてアメリカ人を元気にすることが可能だったのだ。カーター氏が暗かっただけに、その落差たるや半端ではなかった。国葬に列席した元首相サッチャーに象徴されるイギリスもその点では同じだ。イギリスとアメリカの正義が国際社会の中で通った時代である。

 弔辞はサッチャーに生前から依頼されており、医師から公の場でのスピーチを禁じられた彼女は、ビデオにそれを収めて会場で流した。葬儀の演出については、カメラアングルにいたるまで本人の遺言としてあったのだという。実際には夫人ナンシーが決めていたのだろうとは誰もが考えることだ。82歳のナンシーは痛々しく、しかし、ファーストレディーとして立派に最後の勤めを果たした。弔問客が次々に挨拶にやってきて、それがまた、アメリカの理想の夫婦像を演出するのに役立った。もしも元大統領夫がアルツハイマーのまま、夫人が先立つような事態が起きていたら、国葬はどうなったのだろう。どう見ても子供たちではその任を果たしきれそうにない。その意味でも、レーガン元大統領は、愛される大統領として華々しい最後を飾る運命の下にあったのだとつくづく思った。

 「鉄の女」サッチャーは黒い帽子の下にメガネをかけ、終始うつむき加減だった。隣に座った旧ソビエト大統領ゴルバチョフも日本の元首相中曽根も、引退後、それぞれに老いを重ねていた。この3人が映し出されるたび、ひとつの時代が確実に終わり、世界の歴史地図が変わっていくのだと思い知らされた。彼らの頭を何が駆け巡ったのであろうか。自分たちの華々しい功績だろうか。冷戦終結後の混乱した世界を憂いているのだろうか。それとも俗っぽく、自分たちの葬儀のあり方であろうか。

 警戒されたテロが起きることもなく、国立聖堂で行われた告別式は、小雨の中、厳かに幕を閉じた。

6月6日 フランスとの手打ち式

「Dデイ60周年式典」の模様が夜明けから中継されている。アメリカとフランスが共に戦った日々をなぞりつつ、ブッシュはシラクとイラクについて話す機会を得て、この後、サミットでさらに進展する可能性が出てきた。シラクにとっても、この式典はアメリカと歩み寄る、わかりやすいきっかけとなるのだろう。

それだけでも運がいいのに、昨日は元大統領レーガンが亡くなって、レーガン+共和党の功績をたたえ、共和党万歳モードである。あの「楽観主義」が良かったと語るコメンテーターたちばかり。これを現大統領ブッシュが自分にどう引きつけて語っていけるか。先輩の遺産をどう生かせるか。彼の腕の見せ所である。

80年というと、時代の空気が全く違う。大統領選挙から25年が経ったのだとしみじみ思った。一連の追悼番組は、共和党支配の良き時代を振り返る好機となった。彼のラジオアナウンサーとしてのしゃべりのうまさは、スピーチによく生かされている。彼の笑顔や愛想の良さも愛された理由のひとつだろう。ブッシュ親子には、そのいずれもない。特に息子はその才能に欠ける。しかし、根暗かといえばさにあらず。適度に楽観主義的ムードが漂うところが、ノーテンキなブッシュ支持につながっているのだろう。しかし、本人が楽観主義なだけでは危うくて仕方がない。そこを、アメリカ国民がどのくらい自覚しているかが問題である。

スピーチのうまさで負けていないのがクリントンだ。もうすぐ自伝が出る彼は、先取り宣伝講演ツアーをはじめ、これがケリーにマイナスに思えてならない。クリントンが輝けば輝くほど(その模様はC―SPANで放送されるので)ケリーがしぼんで見えるからだ。

実は多くの民主党員はケリーに満足していない。しかし、民主主義の手続きを踏んだ結果に誰も文句はいえないのだ。かくなる上はケリーを党をあげて応援しよう。決まったことに対する腹のくくり方において、アメリカ人は立派と思えることが多々ある。

 昨日電話で話した友達によれば日本ではケリー候補が勝てるという空気があるらしいが、私はブッシュが勝つと思う。在米日本人はほとんどそう考えている。ケリー候補になっても事は同じで、東アジア無関心という分だけ、日本には不利だという説が大半だ。

大統領ブッシュが閣僚人事を大幅に変えれば何か望みも持てそうだが、調べれば調べるほど彼は副大統領チェイニーに頭が上がらないことがわかってきた。6月末に政権移譲が行われ、イラク統治にアメリカ独裁の匂いが薄まれば、共和党はこの危機を乗り切れる。あとはレーガンの思い出をどう上手に散りばめるか、スピーチライターと大統領のスピーチのスキルにかかっているが、ブッシュの場合、実はこれが問題なのである。

それにしても、「Dデイ60周年」とはいいタイミングがあったものだ。この日に米仏が手打ちというシナリオは、ずっと前に描かれていたに違いない。

6月3日 ウィルスにご用心! そしてお詫び・・・

 ある日、突然PCが壊れた。画面が真っ黒になり、二度とデータが現れない。卒業式で大学のコンピューターセンターは機能していないし、誰に聞いたらよいものか。

 一番の問題は日本語が書けないことである。日記も書けない。原稿も書けない。メールも書けない。どうしよう。

 NY生活の長い友人にどうやって日本語の書けるPCを手に入れたのか聞いてみた。すると、思いがけない答が返ってきた。

「それ、ウィルスだよ。旦那もやられてさ。重要な文書を作っていてバックアップをとっていなかったから、真っ青になって、業者を探したのよ。それでデータを出してもらって。

大変だったよ。お金も高くついたと思う」

 なるほど。貴重な情報だが、彼が中国に出張中で、どこの業者でどうやって直したのかがわからないので、私はどうしたらいいのだろう。活字はともかく、私の場合は音のデータが保存できていないのだ。高くついてもいいからデータもとりだせるものなら取り出したい。それに、日本語をどうやって書くか。

「私のコンピュータは日本で買ってきたからねえ。アメリカのをどうやって日本語にするんのかなあ」

 ワシントン在住の日本人に聞いても、こんな調子なのである。メディアの支局は当然、業者を入れてメンテナンスを行っているし、故障すれば日本の本社から送ってもらうというわけだ。ウィルス被害など、誰も心当たりがない。

 日本語で書くことができないのは、実に不便である。急を要するため英語でメールを何通か書いたのだが、「ウィルスメールと思って危うく削除するところだった」と言われたり、

英語が解せないからローマ字で書いて送るよう言われたりで意思の疎通が難しい。結局、アパートから近いライシャワーセンターにお邪魔して、日本語を打たせていただいた。

こういう時に限って、急ぎの文書を求められるものだ。

 日本でPCに詳しく英語の解せる人々にメールを送り、ようやくXPなら日本語化が可能ということを知った。PCについては常に人を頼ってきた。こんなことまで知らなかったのだから、ほんとうに恥ずかしい。

 さて、次はいかに早く手に入れるかが問題だ。あと2ヶ月の滞在なのに、アメリカのPCを買うには抵抗があった。故障したときに、アメリカに持ってこないと保証書の意味がないからである。しかし、リースを探せば、ほとんどが企業相手だったり、ようやく個人リースに行き当たれば、クレジット履歴が必要とされ、円高にまかせて日本のクレジットカードを使ってきた私はあきらめるしかなかった。

 そこで手ごろな値段のものをネットで探してみると、ほとんどがWindows 98 なのである。だから安い。それだけのことだった。IBMなら国際保証も可能だし、少々高くても買ってみようと思えば、こちらは手に入れるのに1週間以上を要するのだ。国際保証のないDELLも同じだった。シッピング込みで1週間はかかるという。

 秋葉原で買って送ってもらうのはどうかと助言を受けた。しかし、平日に秋葉原に行く暇があり、PC に詳しく、20万円以上の借金をできる人というのは、そう簡単にはみつからない。日本のIBMをウェブで選び自分のカードで決済して郵送だけ任せるのも考えたのだが、日本国内で10日を要するというので挫折した。やはり店頭で直接買う以外にない。

 ワシントンの不便なのは、そうした直販店に行き着くのに車が必要なことだ。メトロを乗り継げるペンタゴンシティには品物がなく、タイソンズ・コーナーまであの手この手でたどり着き、「2時間前に売り切れです」といわれて疲れ果て、その近くに住む友人を呼び出してほかの店まで乗せてもらい、ようやく手に入れたときには1週間を経過していた。

早急にPCを買った理由はもうひとつあった。壊れたPCのデータを入れるのに、私の場合はICレコーダーで録音したものが多いため、ドライバーでは入りきらないといわれたからだ。

ようやく私の手元にPCがやってきて、日本語が書けるようになったのは、壊れてから9日が経ってからだ。思えば、B5のThink Padだけで1年を過ごそうとしたのにも無理がある。来て最初にデスクを1台買っておくべきだった。そして苦手なPCについて、人任せにしてきた怠慢のツケ。少しは自分でこなせるようにしようと深く反省した次第である。

というわけで、書き溜めた日記の更新もうまくできない上、過去のデータが消えて、しばしブランクがあきましたこと、お詫び申し上げます。そして、皆様もウィルスにはくれぐれもご用心くださいますように。ワシントンの知人の間でも同じ症状になった人が2人みつかっている。ウィルスソフトのアップデートは週に2日必要らしい。

5月13日 虐待と軍隊

 虐待写真のニュースが出てきてから、ずっと疑問だった。国軍のような戦略を持つべき組織がなぜ、このような証拠を残したのだろう。ラムズフェルドやウォルフォヴィッツを追い落とすためという見方をする人もいるが、それは写真が外に漏れてからのことのような気がする。イラクの現場で何が起きたのか。どういう心理のなせる業なのか。この疑問が解けなかった私は、思慮深いと思われる友人たちにメールを送った。答は後でまとめて掲載することにする。

今日はそのうちのひとつに言及したい。戦場では誰もが残虐になるものであり、日本軍も虐待死させた写真を格好の戦利品として持ち帰っていたという話だ。

 この返事をくれたのは、もう70代になる元新聞記者である。彼は亡くなった父とは同い年である。だが私は父から戦争の話を何も聞かされずに育った。むしろ女だてらにそういう難しい話に首を突っ込むな、というのが父の考えだった。だから東欧から帰国したばかりのころ、この大先輩との会話こそが私の知識の空白を埋め、政治意識を喚起するきっかけを作ってくれたのである。本来は、親子の間でこうした会話がなされ、戦争体験が語り継がれるべきだったのである。残念ながら、しかし、そうした会話は見事に封印されてきた。少なくとも都会では。

 さて、その大先輩からのメールの内容はこうである。彼が少年時代、近所の大工さんによくこういわれたという。

――ボン、ええもん見せたろか。

 「惨殺された捕虜の累々たる死体」だった。戦争帰りの大工は何枚もそれを持っていて、彼は得意気に少年だった彼に見せたがったという。そして、「自分も戦争に行ったら、こんなことをしなくてはいけないのか」と震え上がったそうだ。

 こうした経験がゆえに、イラクの米兵が、お土産としてあんな写真を欲しがる心理も

痛いほどわかるのだと書かれていた。そしてこう続く。

 「その後、初年兵は、まず中国に送られ、捕虜の中国兵を生きたまま銃剣で刺す訓練を

受ける、という噂が流れました。実際にあったらしいです。戦場で、弾丸の下を突撃するのも怖いけど、こちらの方が、僕を絶望的にしました」

 私は戦争に反対である。日本が国軍を持つことにも反対である。自衛隊のまま、いろいろな矛盾を抱えながら、日本のあり方を考えていくべきなのだと今でも思っている。

 アメリカにいると、多くの人々が「自衛隊を国軍にして、日本も普通の国になるべきだ」と発言する。永くいればいるほど、そう考えるらしい。たった9ヶ月の滞在でも、アメリカ目線を経験すると、そういう心理状態になるのはよくわかる。

 しかし、国軍を持つ国がいかに危険かを知ってしまった私としては、こういう考え方にとても抵抗がある。スハルト政権下のインドネシアやミャンマー(ビルマ)など、国軍が政治に関与して国民が不幸になった国はいくらでもある。日本も20世紀前半にその道をたどってきた。「暴力」を行使できる立場にある人間が権力のとりこになったとき何がおきるか。それは歴史を見れば明らかである。

 そして何よりも、戦場では虐待も正当化されることが危険なのである。戦争さえなければ心美しい人々も、集団心理と上官の命令の下に何でも行ってしまう。もしも私が母親だったら、息子を虐待するような人間にしたくない。それが平気な状況に置きたくない。

 これから先、日本では憲法改正論とともに、自衛隊のあり方について議論されることになろう。しかし、その前に一度日本の歴史を振り返る必要がある。当時のフィルムをとおして、戦争というものが、国軍というものが何かを考える必要がある。その上で、軍隊を持つことをみなが選択するのであれば、それは日本の運命である。だが、戦場の心理もわからないまま、自分たちの先輩たちがたどった道も知らないまま、ムードだけで自衛隊を国軍化することは、絶対にあってはならない。

 いろいろな国を歩きながら、私は常に日本のあり方を考えてきた。日本を愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。しかし、その愛国心が即、軍隊を持つことにつながる今の日本の空気はどこか違うように感じている。

娘や息子に虐待を強いるような国にしたくない ――。お母さんたちがこう発想できるようになったら、日本はすばらしい国になると考えるのは私だけだろうか。

5月6日 アフガンの医者

 同じプログラムにアフガニスタンから医者が参加していた。この彼が不思議な存在だった。ホームシックといえばいいのか、アメリカ嫌いといえばいいのか、ほとんど誰とも口を利かず、毎日アパートにこもったまま、自分のオブリゲーションが終わるとすぐに帰国してしまった。誰の目にも「不可解なアフガン人」と印象だけが残った。

オサマ・ビン・ラディンを見てもわかるように、アフガン人たちは男女を問わず美しく、実年齢よりも上に見える。彼も軽く30代半ばに見えていたのだが、実は29才だった。だったらいいとは思えないのだが、彼の行動は結果的に、すいぶん子供っぽかったのは事実だ。ルーマニアの同僚も、アメリカの仲間も、彼は医者だからエリートで大人のはずだと思ったらしい。職業柄、医者が成熟しているというのはまったくの幻想で、それは日本をみれば明らかである。50代以上のことはわからないが、40代以下だったら、まず医者は社会性がない。医学部に入る前に受験勉強に追われ、入ってからも実験につぐ実験である。そうした彼らが患者と向き合うために必要な人間性をどう養えばいいのか。患者の命をあずかる身である医者を人間として豊かにするにはどうしたらいいか。それを目指して日本では医学教育改革が行われたほど、日本では事態が深刻だった。

かの地ではホームステイの経験がないので詳しいことはわからないが、アフガニスタンのような部族社会では、長男だと、それだけでものすごく大切にされるのだと思う。何をやっても彼が一番という家族関係なのではないかと推察する。しかも医者であり、流暢な英語を操る彼は、かなり地位の高い家族の出のはずだ。救急病院で働きながら、彼はありとあらゆる分野を任されていたという。その分、自負も強い。

そんな彼がアメリカにやってきたら、ただの人になってしまった。彼が主役という流れにはならない。それも居心地が悪かったのだろう。とにかくアメリカ人が嫌いで、ストレスからか、救急病院に運ばれていた。

女子大生が肌を露にするのも耐えられなかったらしい。ジョージタウン大学の卒業生であるクリントンの肖像画を見て「彼は嫌いだ。悪い奴だ」とつぶやいていた。その理由は「モニカと変な関係になったからだ」という。

彼の人の評価は独特だ。一番のお気に入りは、ロシア人元外国官だった。リタイアしているくらいだから、もうそれなりのお年だが、彼は最初にアフガンの医者のところにやってきて、こう言ったという。「本当に申し訳ない。私の国がしたことを許してほしい」。以来、彼の中でそのロシア人はとてもいい人となった。

その彼がいよいよ帰国するというので、我が家で小さな食事会を開いた。帰国の1ヶ月前から急に元気で明るい人格に変わった彼は、アメリカ人抜きのその会で、初めて祖国について語った。私が知りたかったのは、彼がタリバンについてどう考えているかだった。

彼はオサマ・ビン・ラディンには2回会ったそうだ。といっても、じっくり話をしたわけではない。とてもカリスマ性があり、いい人という印象だったという。またタリバンから解放されたのはうれしかったが、北部同盟はタリバンよりも残忍で嫌いだ。北部同盟は何でも奪った。美しい妻がいれば奪い去り、すばらしい家があれば略奪した。少なくともタリバンは、略奪はしなかったのだそうだ。

――どうして彼はこの話をアメリカ人にしなかったのか。

実はこうした話は日本人ジャーナリストには知られていたが、ワシントンでは誰に話しても信じてもらえなかった。タリバンは悪者。アフガン人の自由を奪う野蛮人。そこから解放したアメリカは正しい。政府やメディアにこう刷り込まれた彼らの考えを否定するつもりはない。しかし、北部同盟はもっとひどかったという事実をも、アメリカの人々は理解すべきだ。タリバンを取り除けば終了ではなく、複眼的なまなざしを持ってアフガンの復興に取り組んでいれば、治安維持がいかに難しいか想像できたはずだ。

だが、当事者である彼が沈黙する限り、アメリカには何も伝わらない。せっかくのチャンスだったのに、実にもったいない話である。

4月27日 自己責任論と日本人異質論

 七七日の法要のため日本に滞在する間、メディアを支配したのは「自己責任論」だった。

 この一件はアメリカでも波紋を呼ぶこととなった。連日これだけ報道されれば記事にもなる。NYタイムスの、しかも一面で、人質に自己責任を押し付ける日本政府の「日本のお上意識」批判という切り口でコラムが書かれ、これが日本人異質論に巻き起こしたのである。

解放された瞬間、人質だった3人が「イラクにとどまりたい」と発言した。これを受けてコメントを求めた番記者に、小泉総理が「この場に及んで、そういうことを言うんですかね。どれだけの人が侵食を忘れて彼らのために働いたか」と口走った瞬間を、私は日本のテレビで見ていた。この後、次々と与野党の議員たちが「自己責任」を口にし始め、かかった経費を本人たちに請求すべきだとまで言い始めたため、メディアの中心的トピックとなったのである。こうなると、週末の番組では軒並み特集されるというお決まりのパターンで、中には親切にも誰が最初に口にしたかをVTRでさかのぼってくれた番組もあった。外務次官だった。

邦人保護は外務省の重要な仕事である。この段階で、外務次官が思わず「自己責任」と口にしたのは、適当な言葉遣いではなかったと私は思う。「大人としての自覚」とでも言えばよかったのだ。「自己責任」と言ってしまった段階で、外務省が邦人保護の義務を放棄しているようにもとられるし、再三、外務省が勧告を発しているのを無視して出かけていくとは何ごとか、という「上」からの目線が、NYタイムスの「お上意識」という記事につながっていったのである。

しかし、このとき、多くの国民が「お上意識」批判に傾かず、次官や小泉総理のコメントに頷いてしまったのは、3人が「地球の歩き方」の延長で戦地に出かけていく危うさを嗅ぎ取ったからだと私は考えるに至った。くわえて、彼らのきょうだいによる、人騒がせな「お子ちゃま」劇に、日本社会という世間が怒ったのである。

 だからといって、政府や国会議員が次々と「自己責任論」を口にし始めたのは、調子に乗りすぎたとしか言いようがない。日ごろの行いから判断するに「責任」という言葉をご存知だったのも意外だが、政治家としてはあまりに大人げない。外国人からみれば、国家をあげての国民いじめともとられる発言だ。イラクで起きることはすべて、国内問題では終わらないのである。人質救出にはアメリカにもずいぶん助けられたとの説もあるくらいだ。そういう事件について、国際社会という世論を意識できないのは、地元における自分の票のことしか考えてない国会議員の姿を露呈したといえる。

一方で、官邸や外務省が侵食忘れて心配したのは、自衛隊の撤退である。本音だろう。せっかくアメリカに気を遣って同盟国として一人前扱いされるところに来たのに、関係がこじれては大変だ。「お子ちゃま」ごときに日米同盟を揺るがされてはたまらない。拉致家族の問題でアメリカの協力が得られなければ、小泉政権の寿命にかかわるからだ。

実際、自衛隊派遣で日本はアメリカ政府から一定の信頼を勝ち取ったようだ。それを裏付けるかのように、数日前、ジョージタウン大学の学部生を対象にした外交シミュレーションゲームで、アメリカの大統領役を演じたオルブライト女史は、学生扮する日本の外交チームにこうコメントした。

「日本には今回の一件で、それはそれは感謝していますよ」

もちろん、イラクへの自衛隊派遣についてである。彼女はブッシュ大統領になりきって現政権の考えを代弁したのだ。

 ところが、日本政府がこれだけアメリカに恩を売ったにもかかわらず、当のアメリカでは国務長官パウエルが、この日本政府の「自己責任論」に疑問を呈したのはなんとも皮肉な話である。こういう時、誰でもヒーロー扱いしてしまうのも短絡的だが、これはアメリカの癖(へき)なのである。

NYタイムスの一面の記事を書いたのは日系の記者である。彼のいう「お上意識」だけでこの騒動は片付けられない。だが、アメリカではこれによって、日本人は不可解だということになってしまった。少なくともオルブライト女史はそう感じたようで、私は解釈を求められて困った。

後で拘束された2人のジャーナリストに比べて、3人はプロ意識もなく、情熱ばかりが先走っていたのは事実だ。自分たちの拘束がどれほどの騒動になるというシミュレーションができなかったことに未熟の匂いがつきまとう。しかし、外遊先では大使館職員に段取りを任せきりの国会議員はどうなのか。この記事がアメリカのメディアの一面を飾り不可解な日本人論を生み出すことを計算できず、国内世間の追い風を受けて「自己責任論」を振りかざした政治家の「先生方」も同様に、いい歳して「お子ちゃま」なのである。

4月23日 ワシントンで「豚足」に凝る

 DC にやってきてから、近くのスーパーに行くたび、ずっと気になっていたことがある。肉売り場にはいつも豚足のパックがおいてあることだ。だいたいは4本太いのがごろごろ、時には縦に引き裂かれた状態が8本、ビニールのパックに入っていて、2ドル49セントだったりするのである。

 沖縄の市場ならともかく、東京では、生の豚足にそう簡単にお目にかかれるものではない。沖縄料理ブームとはいえ、新宿などの沖縄食材専門店に乾き物はあるものの、豚足を売っている店に私は出くわしたことがないのである。

 アメリカ人はどうやって、これを料理するのだろうか。少なくともアメリカ料理の店には、豚足がメニューとして記載されているのを見たことがない。ましてや家庭でどうやって食するのだろう。このあたりはアジア人が多い地域ではない。

 いっそ自分で豚足を煮込んでみようじゃないか、と思いたったのは、昨秋だった。私にはクロックポットという強い味方があるのだから、あれで煮込めば大丈夫なはずだ。

この調理器具はおそらく日本でシチューポットという名前で売り出されていると思う。私が子供のころ、日本で突然はやって、我が家でも母がこれを使って、シチューやカレーを作っていたように記憶している。豆も煮ていたかもしれないが、当時の私は豆が嫌いだったので、あまり記憶に鮮明ではない。こちらにやってきてすぐ、近所の家庭用品店でみつけ、少々大きくて45ドルくらいしたが、すぐに飛びついて買ってしまった。日本では小型でも1万円くらいするのを知っていたからだ。

これが至極便利なのである。どんな肉もポットに突っ込んでおけば、コンピュータに向かっている間に柔らなくなる。あまりの安さに買ってしまった大量パックの砂肝までトロトロになるから驚きだ。この理屈でいけば、パンパンに張り詰めた豚足の肉も柔らかくなるはずである。そこで、勇気を出して買って調理してみることにした。

問題はレシピである。恥ずかしながら、料理好きを謳いながらも、私は豚足を煮込んだことがない。ネットで豚足を検索してみた。なんとも便利な時代だ。親切にもレシピが紹介されているではないか。

次の壁は中華調味料だった。生姜はともかく、八角と陳皮は、一体どこにあるのだろう。80年代初頭なら中華街でないと手に入らなかった中華の食材も、東京ならスーパーで簡単に購入できる時代になった。しかし、ここには醤油やラーメンは並んでいても、いわゆるアジアの食材コーナーはない。そういえば、ドライフラワーを使ったクリスマスのリースにあの星型の八角を使ったことを思い出したが、それなら花屋に行かねばならない。はて、どうしたものか。念のため、調味料コーナーの胡椒やハーブの瓶を片っ端からチェックしてみると、あった!マコーミックから CHINIESE FIVE SPICE と書かれたボトルが出ているではないか。Star Aniseとあるのだから、これが八角に違いない。これだ!早速これと生姜の粉末を加えて煮込むことにした。

ところが、醤油とともに味付けをしようという夜になって、我が家に砂糖がないことに気がついた。私はコーヒーにも砂糖は入れたことがない。煮込み料理も味醂で事足りるのである。その夜はあきらめ、翌日、大学のカフェにでむきコーヒーを買い、砂糖を5袋くらいいただいて帰ってきた。

 その結果、出来上がった豚足はといえば、適度に油がとれてまろやかな舌ざわりは悪くないのだが、糖分が足りないためコクに欠ける。やはりブラウンシュガーが足りなかったのだ。

以来、私は究極の「てびち(豚足の煮込み)」を定期的に作り、コラーゲンを摂取している日々である。とりわけ日本に帰った折、インスタントのソーキそばを見つけてからは、沖縄料理モードに入っている。台湾料理店のカウンターで食べる豚足も悪くないが、豚足はやはり「てびち」だろう。やはりソーキそばのかつおだしとのコンビネーションにはかなわない。

ペンタゴンの隣ワシントンのアパートで、アメリカ料理をさしおいて、あえて沖縄料理を食するのは、まことに気持ちのいいものである。

4月14日 日本人・人質事件2

 父の七七日の法要のために日本に帰る途中、飛行機の中で新聞を読んだ。やはり人質に風当たりが強いらしい。家族の家に嫌がらせのファックスや電話が届いていると言う。だが、ここまで大きくなびくのも珍しい。柳田さんの時はもう少し同情的だったように思うが。

夕方に成田に着いたので、夜遅く、友人と食事をした。父の仏壇に線香をあげに行くつもりだったが、姪が4月から私立の小学校に通い始め、朝が早いので金曜日の夜になったためだ。

―――ねえ、なぜ家族にこんなに風当たりが強いの?

「いやあ、弟とか妹とか出てきてさ、はっきり言えば、いい気になっていたわけ。自衛隊を撤退させろとか叫んだり、うーん、ちょっと英雄気取りなんだよな」

 どうやら世間の批判的なまなざしは、3人に対してではなく、弟や妹たちにあるらしい。

 飛行機に乗る前、NYに住む日本人の友だちからメールを受け取った。彼女は職場で日本の新聞を回し読みしている。

「日本の新聞を見ていると、一面から人質事件で持ちきりなのに、こちらでは、事件が発覚した翌日に記事が出ましたが、それ以降は、一切取り上げていません。日本という同盟国の位置づけの反映であるとも思えるし、それとも、毎日のように兵士を殺されているアメリカにとって、こんな事件は重みが無いのか、解釈に困っています」

―――うーん、日本の取り上げ方が過剰なのかもしれない・・・。

 会議などでテレビと隔離される彼女と違い、テレビをつけながらペーパーを書いていた私には、十分に取り上げられているように思えた。もちろん、日本のように第一報がテロップで入るというような一大事という扱いではないけれど。日本でもニュースになった頃、こちらはライスの公聴会を中継の最中だったし、テレビ局としては、ライスの件でゲストコメンテーターのブッキングをしていたはずだから、日本の人質事件は後回しなのは仕方がない。しかし、その前に韓国人牧師が数名拘束されていたことに比べれば、翌日からはよく取り上げているし、映像も流されている。

たしかに同盟国日本が特別扱いされているとは言いがたい。同盟国にも被害が及んでいるのに、どうするブッシュ政権?という口調ではある。中国なども被害にあっているので、その他大勢にされている、と言ってしまえばそれまでだ。協力してくれた国だから特別扱いするという意味では、韓国だってもっと騒がれるべきだった。しかし、ネットで見るまで私も知らなかったくらいの取り上げられ方である。

フィリピンで調査中の友達によれば、CNNでの第一報は、「日本人観光客が・・・」と言っていたらしい。「日本人といえば観光客程度という認識しかないのだろうね」と書いて来ていた。

 もっとも、アメリカ人が殺されてつるし上げられている写真が一面に載ったのに比べれば、同盟国の人質騒ぎは深刻度が全く違うのはやむをえないのではないか。

 日本だって、たとえば先に自衛隊の誰かが命を落とす事態が先に起きていたら、人質事件にこれだけの紙面は割かなかったかもしれない。おそらく、今回は拉致家族の人たちの経験則から、同じ温度で報道陣が動きだしたに違いない。これはメディアの癖(へき)としか言いようが無い。会見に応じた弟や妹たちも、拉致被害者の人たちのこれまでの報じられ方が頭の中で瞬時にシミュレーションされてしまったのではないか。だから、どんどん加速度ついて過熱気味になった。同時進行で追っていないけれど、なんとなくそんな予感がした。