舞台

三越劇場に劇団若獅子公演を観にいく。池坊美佳さんが出演されているからだ。

顔も声も美しい美佳ちゃんは舞台栄えがする。おりょう役がかわいくって、初々しかった。

セーフウェイ

アメリカでサルモネラ菌の卵が原因で食中毒が起き、3万8千個自主回収となっている。

卵とあっては、どんな食品に入っているかわからない。迂闊にレストランにもファーストフード店にも入れない。そう日本人なら考えるが、こういうとき、アメリカの消費者はわりと悠然と構えている。鶏インフルエンザのときもそうだった。とりあえず、大手スーパーでは、対象となっている卵は取り替えることになっているようだ。

ふいに7年前から滞在していたワシントンDCのアパート近くにあったセーフウェイが懐かしくなった。最近はDC滞在の折にはもっぱらトレーダー・ジョーズびいきの私だが、当時はここで食糧を調達したものだ。大きな肉がゴロゴロ入って安売りされている肉売り場のすぐ側に、卵が置かれていた。

そんなことを思い出していたら、宮里藍さん快挙のニュースが飛び込んできた。セーフウェイ・クラシックと聞いて、びっくり。ロゴを見れば、たしかに、あのセーフウェイだ。冠イベントをするほどの企業だったのである。調べてみたら、なんと全米2位。メリルリンチ系と知って、納得した。

東京オリンピックのころ、住友商事と提携して日本にも進出しかけたという。詳しいことはわからないが、紆余曲折あってセーフウェイにはならず、後にサミットストアとして開店したらしい。

軽い熱中症

ジャカルタから中部国際空港に到着して、炎天下、祖父母の墓参りを試みたら、軽い熱中症になったらしい。こんなところで倒れたら、誰にも気づかれず死んでしまうのではないか。這うようにして管理事務所までたどり着き、ベンダーにすがるようにポカリスウェットのボタンを指で探し、しばらく横になっていたら、回復した。

それにしても、日本は暑い。ジャカルタよりずっと暑い。日傘なしで歩くことなかれ。本当に危険である。

スハルト札の価値

旧札が使えないからと中央銀行であるインドネシア銀行に出向いたのは二度目。昨年は空港に着いた途端、ルピア専用財布に入っていたルピア札が使えないと言われ、あわてて日本円を両替した。そして、インドネシア銀行に出かけたというわけだ。今回は、過去に両替して、封筒に入れたまま引き出しに入れていた分を持ってきた。 

職員の人懐っこさに驚く。使い古しを持ってくるローカルと違って、スハルトのピン札を持ってきたりするのだから、めずらしいのだろう。皆、仕事を止めて寄ってくる。日本人とわかると、なお熱心だ。何歳か。結婚しているのか。ジャカルタでは一人か。質問攻めに合う。日銀では考えられない光景ではないだろうか。 

現地では職員が寄ってきて、あれよあれよと作業が進み、逡巡している間もなく両替してしまったのだが、ピンのスハルト札は残しておいて、10年後に古銭屋に持っていくほうが良かったかも、と少し後悔した。事務的に裁断されるより、後にスハルトが再評価されたとき、インドネシアの人々が懐かしむことに意味があったやもしれぬ。スハルトの罪も大きいが、功も半端ではない。17日の独立記念日にインドネシア共和国の65年の歴史がテレビでフラッシュバックするのを見ながら、ふとそう思った。 

注)写真は19日の17時まで限定のハニカムブログにアップしています。その後、こちらに追加で掲載予定。

インドネシア独立記念日

8月17日はインドネシアの独立記念日。今年は65周年で特別のはずだが、ラマダン(断食月)と重なったところに複雑なものがある。

現地のジャーナリストは式典に呼ばれて、そのまま宴会に突入するのが通例だが、今年はラマダンなので、日没後、飲食が許されるころに集まるのだと話していた。

それにしても、街も村も大小あわせた紅白旗で埋め尽くされ、羨ましいかぎりだ。同じ紅白でも、日の丸に罪悪感しか抱けない教育を受けた私たち戦後生まれの不幸なことよ。

戦争の原因を天皇制や日の丸に押し付けるのではなく、為政者や組織がどう間違えたのかを早々に検証して、祖国や国旗を誇りに思える環境を創りあげないと、若い世代がますます夢を抱けなくなる。

アメリカは移民を受け入れつつ、星条旗に人々を束ねる役割を与え、アメリカ人であることのアイデンティティを築き上げた。日本も早晩、大量に移民が押し寄せる時代やってくるというのに、日本人は何を誇りにしたらいいのだろう。戦後、先輩たちが経済発展を心のよりどころにしてきたとすれば、政府は景気対策を早急に打つべきである。それが出来ないのなら、精神的支柱をどこに置くかを議論すべきだ。いずれにも無策の現政権の責任は大きいと考える。

母の死を乗り越えて

一年前に息を引き取った友人の墓に花を手向けた。59歳の若さだった。

ジャカルタのはずれにある霊園は、道路をはさんで、カトリックとイスラームに分けられている。イスラームの墓に手を合わせるのは初めてである。からだが横たわっているであろう長方形に芝が植えられ、頭部に置かれた墓石は黒御影。アラビア文字とローマ字が彫られ、ゴールドが施されている。花は黒御影の前に1箇所。胸から下の部分に花びらを蒔く。

イスラームでは死後24時間以内に埋めなければならない。その様子を撮ったビデオも見せてもらった。ぐるぐる巻きにされる様子は少し痛々しく、映画「おくりびと」が海外で受けた理由がわかった気がした。

3回も結婚して、母の人生は充実していたと思う。そう言う31歳になる娘と、友人の思い出を語りあった。彼女は映画の仕事に携りつつ、母の経営していた美容院そしてエステをしばらく続けるのだという。何か心配ごとがあっても、母の顔を見るだけで50%問題解決だったのに、いまは自分で決断せねばならない。母には他を圧倒するゴッドマザー的魅力があった。娘はその母のカリスマ性にはとても追いつかないと自覚しながら、こんなとき母ならこう言ったに違いない、と従業員のマネジメントひとつでも、シミュレーションをしてみるのだという。

私の場合は、母を失った途端、いきなり残された父と向き合わうことの難しさを突きつけられて苦しんだ。彼女の場合は、庇護してくれた存在を失っただけでなく、経営者としての試練が待ち受けていたというわけだ。

この一年、彼女は母の喪失感と闘いながら、しかし、母を思い出し真似てきたのだろう。父親似だったはずの顔が、次第に母と同じになりつつある。

本当の敵は組織の論理

昨日、全国戦没者追悼式の模様をNHKBSで見た。ここジャカルタの朝は曇っていたが、東京はどうだったのだろう。

玉音放送が流された65年前の今日、東京は晴天だった。戦地に行かず、本土を守った女性や子どもたちは、開放感に満ち溢れていたという。これでもう空襲に怯えることもない。新しい未来が始まるのだ――。

 夜間無差別爆撃と原爆投下。本土でかくも多くの命が犠牲となった陰には独立をかけた「空の男たち」の執念ゆえの成果主義があった。アメリカは30億ドルをかけてB29と焼夷弾を開発した。成果を出さねば、悲願の独立が達成できない。結果、日本でもドイツでもの尊い市井の人々の命が失われたのだ。

「ミラノは壊滅状態にされた。あそこまでやる必要があったのか」 同じ宿に泊まるイタリア人がポツリと言った。

同様に、日本が戦争に邁進していき、バランスを失っていくのは陸軍、海軍ともに、組織の論理に引きずられたからである。組織の論理に縛られたとき、一人一人の良心は無力だということを平時のいまこそ、肝に銘じ、不戦の誓いとしたい。

バースデイ

昨日の誕生日は某イタリアンレストランで祝ってもらいました。

デザートワゴンに乗ってきたデザートの数々。ティラミスとピーチメルバを選んだら、ティラミスの上に2本、蝋燭が乗ってきました。

こういうときに限ってカメラを忘れ、携帯で撮影してもらったので、少しピンボケですが、このほうが若く見えるから、採用です。

山陰ゾーン切符

生まれて初めて周遊切符を買った。山陰ゾーンの中は5日間、乗り降り自由だ。山陰までを飛行機にするなら、この特典は得られない。最初からJRを利用するのが前提だ。しかも、ゾーンの入り口出口をあらかじめ決めねばならず、土地勘のない人間には、それが厄介である。

私は新幹線で岡山まで行き、「やくも」の「根雨」を出入り口とした。県立図書館の文献も気になり、出口は鳥取という手もあったが、これも結果論である。あとは東京の図書館から取り寄せればいい。後で気づいたが、寝台特急で朝、出雲市駅に着く方法もある。

最初は出雲大社。前日に下見に出かけた。出雲市駅からのバス往復も周遊切符でまかなえる。面白い。

驚いたのは、出雲市駅である。新幹線なみに近代的だ。しかも、駅前にはコンビニやビジネスホテルが乱立し、「らんぷの湯」まである。

 ホテルについては米子とあわせて後で書こうと思う。

       →ハニカムブログに書きました。公開は19日17時まで

   

山陰取材

先週末から出雲と鳥取の山間部を取材して歩いた。行事日程からこの季節になったのだが、暑いことこの上ない。今朝のニュースを見ていたら、日本の最高気温は山陰地方だった。

 鳥取との縁は、90年代に「週刊文春」誌上の県の広告ページで何箇所かを訪れた経験があるだけだ。自分で訪れるのは今回が初めて。土地勘がなければ、作業は海外のホテルをネットでブッキングするのと似ている。 

取材はラグビーボールを持つに等しい。行ってみるまで、どこに転がるかわからない。最初は引いていた人も、話し込むうち親しくなり、さらなる人脈・資料を提示してくれることもめずらしくない。そんな折、次の予定を決めてしまうと足かせとなる。

 そこで周遊切符のお世話になることにした。結果的には大正解。取材日程も延び、最終日には有効期限が切れてしまったほどである。