植樹祭@石巻

緑の堤防を提唱している宮脇昭先生指導の植樹祭@石巻の模様が、今夜のニュースゼロ(日本テレビ系)で放送される予定です。ぜひ観てくださいね。

山の手空襲の夜

66年前のいまごろ、5月25日夜10時過ぎ――。東京の明治神宮・表参道に大きな空襲があった。写真の左、信号の下あたり、みずほ銀行前に、黒こげになった遺体が山積みにされていた。この話は『ワシントンハイツ』第1章に詳しく書いているので、ぜひ読んでほしい。

1944年11月から終戦までの間に、東京は130回、空襲を受けた。なかでも45年の4月から5月にかけての、東京全域にかけて4度の大空襲を「山の手空襲」と呼び、3月10日の下町空襲と区別している。

5月25日に東京全域に落とされた爆弾の量は、実は3月10日のほぼ2倍。死者2258人。負傷者8465人と記録されている。

どうか空襲で命を奪われた方々の無念に、思いを馳せてほしい。戦没者もさることながら、切り詰めながら本土を守った市井の人々が犠牲になる戦争が、いかに無意味か。今夜だけでも、そのことを考えたい。

笑顔の裏に核実験@ウィグル

昨日の深夜、NHKBSで80年代のシルクロードを観た。長閑で牧歌的でつい行ってみたくなる。 

あのころシルクロードを撮影したのは、NHK特集のスタッフとサントリーオールドの広告制作者くらいだったのではないだろうか。だから、私にとっては、懐かしいのだ。もちろん、私は映像で観ただけなのだが、切り取った空気がNHKと同じだから。「誰がつくる次の時代」「夢街道」など、言葉もよかった。ADは浅葉克己さん、コピーは長沢岳夫さん。詳細はここをクリック→http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:zwTVVWp_WkoJ:www.acccm.or.jp/kaiho/128/nanatsunokao/index.html+%E8%AA%B0%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E6%AC%A1%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp

 人々の笑顔からは読み解けないが、実は中国政府による弾圧が続いてきた土地でもある。文化大革命の嵐が吹き荒れた後も、現在の北京政府による虐殺は絶えない。

 そして何より許しがたいのは、中国政府がこの土地で核実験を46回も行ったことだ。東京オリンピックの1964年から96年まで続いていたという。日本が経済発展にまい進してきた間、ウィグルの人々は放射能汚染を受けてきたということだ。結果、20万人近い人々が亡くなり、120万人が白血病を患ったという算定もある。国際社会は、この問題を追及する必要がある。

 日本にも飛んできている黄砂に放射能が含まれているのは、ウィグルでの核実験の結果かも。だとすれば、対岸の火事ではない。少なくとも中国政府が他民族を、いや漢民族でさえも、モルモットにしてきた事実を私たちは知っておく必要はある。

ちょっとツイート

ワシントンハイツの写真探しに奔走している。

昨日は渋谷区役所に出向いた。3年前にようやく探し出した一冊の小冊子が、その後、どこかの部署からごそっと出てきたという。当時は存在しなかったワシントンハイツの中の写真もみつかったらしい。

ウェブ上でも、ワシントンハイツの思い出に言及する人が増えた。私がリサーチを始めたころは,まったくの手探り状態だった。悔しいやら、嬉しいやら。

ブログなのに、思わずツイートしたくなる今日このごろです。

杜若にほっと一息

次の会期までしばらく閉じている根津美術館。5月初旬の杜若は見ごろでした。大勢の人々が紫の杜若に見とれている中、池のほとりにひっそり咲く黄色を一輪だけみつけたので、アップしてみました。

久しぶりの「中東・アジア」談義

東京都立中央図書館と上智大学の図書館に通う日々を送っている。

今日は昼間、ニューオータニで薬膳を食す機会がり、その足で隣の上智の図書館に行き、博士課程前期後期にお世話になった先生方の研究室を訪ねてみた。いきなりだったのに、快く受け入れてくださり、うれしい限りだ。

「いやあ、あなたのことを思い出したところだった。最近の大学院生はずいぶん違ってきたからね。なんだか懐かしくて」

と言ってくださった先生とは、一連の中東革命をどう分析するか。インドネシアとどう似ていて、どこが違うか。世界のイスラームはどうなるか、などなど。

その後、博士課程前期の指導教授と少しだけ話す。東北で被災したフィリピン人たちに何が起きているかについて。バチカンは震災直後から東京での彼らの支援に熱心だったが、いまは現地まで出張ミサに行っているのだという。内に溜め込むとつらいが、ミサで思い切り泣くということが大切なのだそうだ。

最後は博士課程後期で一緒だった友人の研究室を訪ねた。上智の選任講師になるとはかなりの出世である。彼とインドネシア人の被災について話した。インドネシア政府も放射能には敏感で、領事館がすばやく動いたので、ほとんどが帰国している。予想外の段取りのよさだったのだ。

このところ電力と原発の文献ばかり読んでいたので、しばしアジア・中東にシフトできて、私の脳も喜んだ風。母校の存在はなんとありがたいのだろう。感謝、感謝。

期限は30年と決めよう

最近、大メディアが原発の日本への導入の歴史をたどり始めた。私自身も膨大な資料を読みながら、占領期の電気事業からの掘り起こし作業をしているが、評伝ひとつとっても、本によって諸説あるので、これが正しいというところに簡単に行き着かない。 私になりに整理して、近々ここに書くつもりだ。

そうした振り返り作業をしながら思うのは、何事も30年が限界だということである。時代の流れは早い。将来は未知数だ。そう謙虚に考えれば、10年、20年で立ち止まり、大きな修正を加えるか、終焉に向けて動き出せるはずなのだ。利権やしがらみで雁字搦めになって、何も変えられないのが、政治の負の部分である。 

中東革命でわかるように、独裁政権にも賞味期限がある。チュニジア25年、エジプト30年。リビア40年。国民にも世代交代が起きるのだから、政権は30年しか持たない。インドネシアのスハルト政権も32年だった。それでも30年なら民衆革命というシナリオも成り立つが、40年まで引っ張るとどうなるか。リビアの惨状を見れば明らかだ。国際情勢も大きく変わる。

 福島原発1号機が動き始めたのは1971年。30年といえば、2001年だった。それまでに、スリーマイルでもチェルノブイリでも事故が起きている。何度も繰り返された原水爆実験を含め、痛めつけられた地球が怒ったのだと思う。にもかかわらず、アメリカもソ連も、事故に懲りずに原発を続けている。戦後復興のために導入した日本でさえ、経済大国になってもなお、原発を増やし続けてきた。機材に問題がある指摘したGE社員の声や経済産業省の若手の声をもみ消して福島原発を40年も使い続けたツケがまわってきた、と謙虚に受け止めるべきだろう。

 原発の寿命は30年と決めよう。これまでの原発推進予算を未来エネルギーに向ければいい。電力会社のありようなどの問題は、それを決めてから、手をつければいい。

浜岡は歴史が浅いと言う人もいるだろう。しかし、コンクリートの堤防が逆効果だったとわかった以上、全く違う発想の防潮堤が必要だ。まずは植樹で「みどりの堤防」をつくり、単なるコンクリートの堤防ではない防潮堤を築いてから、再稼動すればいいではないか。

エネルギーシフトを国策で

 震災(そして原発事故)は、転じて日本が全く新しい価値体系を持った国に生まれ変わる千載一遇のチャンスだった。自然と共生しながら、経済活動を行える社会を、皆が一丸となって創り出せたはずだった。 

どうやら大半の人々はそれに気づかず、20世紀型社会へと戻ろうとしている。中部電力の英断について、日本経済が駄目になるという切り口で伝えるマスコミの論調が、それを物語っている。 

昨日から紀伊水道や和歌山北部、山梨西部での地震が続いていることに注目したい。アメリカではミズーリの氾濫で、大勢の人々が命を落としている。東北の震災は始まりにすぎず、今後、日本各地、世界各地で、大災害が起きそうな気配だ。ここ数日の地震は、それを暗示している。

  中部電力の本音はどこにあろうとも、原発停止を決断したことが大正解だったと、後に評価されるに違いない。菅総理だって、同じことだ。経済より、いのちを優先した総理、経営者であったと歴史に名を刻むことだろう。

 一刻も早くそのことを認識して、政府は国策で自然エネルギーにシフトしてほしい。浜岡で太陽エネルギーの開発に取り組めば、2年後には中部電力の株が上がるということがイメージできないのが残念だ。福島も浜岡も、せっかく海に近いのだから、海藻を中心としたバイオマスの開発に適した場所なのだが。 

他方、メーカーなどの企業はすでに、そちらに動き始めている。蓄電池開発などへの新しい取り組みが報道されるたび、日本企業の底力に頭が下がる。政府を頼らず、自家発電などで独自の方法で切り抜けるであろう企業に対し、新しいエネルギーを供給することこそ、政府の役割である。

浜岡原発停止、「はじめの一歩」

「横須賀に米軍基地があって、良かったね」 

友人との会話である。総理を動かしたのが皮肉にも米軍だとすれば、私たちはその幸運を喜ばねばならないが、いかなる理由があろうとも、浜岡原発停止を決めた菅総理の英断は歓迎しよう。未曾有の震災の後、これで日本が新たな一歩を踏み出すことになるからだ。この勢いで太陽エネルギーへとシフトできるかどうかは、国民の声の大きさにかかっている。

 「次は”もんじゅ”。止めてほしいね、トラブルが続いているし。でも、福井県周辺には米軍基地がないし、どうしようか」

「だいたい誰が活断層の上に作ろうって言い出したんだろうね。浜岡なんて、どう見ても危ないのに」

このところの私は 原発が導入された経緯を図書館に通いながら文書をたどって調べている。当時の国際的な原発フィーバーを知れば知るほど、資源のない日本が原発に飛びつくことは誰にも止められなかったように思える。情報の少なかった時代、「放射能も癌も10年もすれば、薬がみつかる」などと言われれば、地元の人々も「そうかな」と思ったに違いない。もっといえば、鉄腕アトムのような賢いロボットが開発されて、壊れたときも修理してくれるだろうと発想してもおかしくない、そんな時代の勢いがあった。

 最初に東海村を選んだのは、原発導入に前のめりだった正力松太郎である。初期には誘致に国会議員がからむことは少なくなかったが、しかし浜岡原発については、中部電力が独自で動いたようだ。三重県の候補地が反対運動で行き詰まり、他社より出遅れた形で静岡県を選んでいる。

 そもそも誘致には過疎地が狙われやすい。原発建設が始まれば、農家は労働者のために民宿を始め、漁民には補償金が支払われる。電力会社は道路や公共施設を作ってくれるし、社宅用に土地を購入してくれる。地元には雇用がうまれ、民宿も店も賑わい、原発バブルが沸き起こる。地元議員には祝い金も支払われ、自治体は補助金で潤う。沖縄の米軍基地をめぐる問題と構図が似ている。原発建設が終われば、潮が引いたように静かになり、バブル景気が恋しくなる。企業はそこを狙う。そして、もう一基ーー。麻薬のようなものだ。

 それを止めるとすれば、今回のような天変地異しかない。これほど酷い目にあったのだから、思い切って太陽エネルギーにシフトしても、国際社会から文句は言われまい。さすがに「全廃」と言えば総理が原発推進派から刺されることもあるやもしれぬが、3基くらい止めたところで、命の危険はないはずなのだ。

政権が交代してもなお、米軍の指示待ち総理しか持てぬ日本に進化はないのだろうか。私たちが180度生き方を変えない限り、津波に呑み込まれた人々の無念ははらせぬというのに、どうしたものか。

減給は東電だけ?

東電の役員報酬が半減でいいかと聞かれれば、不十分な減給だと答える。少なくとも会長と社長と副社長は、今年だけでも無報酬にすべきである。

 同時に、経済産業省の保安院、内閣府の安全委員会のメンバーも、経済産業大臣も無報酬でなければならない。もっと言えば、過去10年間遡って、短くともその座についた歴代経産大臣と、経産官僚のうち原発関係者も一律に減給されるべきだと私は思う。

 すぐに電気料金値上げを叫ぶのも間違いである。まずは原発推進のための法外な予算を、すべて賠償にあてることが先決だ。もっとも、その中には広告費も含まれているから、この考えには大メディアは乗って来ないと思うのだが。