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お火焚きの季節
11月8日は伏見稲荷大社火焚祭の日。「アキオとアキコの京都女磨き」に書いたように、伏見稲荷のお火焚きは3部構成です。
午後の1部2部は「明日の京都文化遺産プラットフォーム」フォーラムと重なり、終了後、3部を観に伏見まで出向きました。本殿前で火を焚きながらの宮中神楽の再現。いい感じです。
火と水で祓いをするというのは神道の考えだけれど、炎をみつけてみるだけで癒やされる気がするのは、その場に存在するだけで祓われるからだろうか。たとえば密教の護摩焚きを始め日本の宗教行事に火を用いるのは、仏教伝来の段階でゾロアスター教の影響を受けたからと思われるが、そうした歴史や理屈抜きで、炎には魅力がある。「鬼滅の刃」の作者も、そこを理解していたのではないか。
前日は貴船神社、10日は白雲神社、18日は上御霊神社、22日は広隆寺、23日はあちらこちら。京都においでの際は、どこかの火焚祭も覗いてみて。
いよいよ明日、フォーラムが開催されます。
いやあ、どうしましょう。祇園囃子が聞こえてきました。おそらく鷹山さん。三条通りからです。見に行きたいけれど、私は明日の準備中。
「明日の京都文化遺産プラットフォーム」主催のフォーラム「感染症を乗り越える:道の文化と京の歴史」がいよいよ明日に迫ってきました。パネルディスカッションの進行役を担っているのです。表千家十五代家元、華道家元池坊事務総長、志野流香道二十一代家元後嗣によるパネルを仕切るの、緊張します。太田光さんにならないように、言葉をちゃんと選ばなければ。
と思ったら、事務局から電話が入り、舞台を事前に見ませんか?とのこと。立命館朱雀キャンパスに向かったのであります。
立冬とは思えぬ暖かさ。無事にいい話を聞き出せますように。
伏見稲荷大社、八坂神社、三条通フェス
友、遠方より来る。でもないか。東京からやってきた友人とモーニング。お墓参りに行って帰りたいということなので、ランチではなく朝食を。
マリベルの朝食とか美味だったのだが、コロナで無し。ほかにもホテルいろいろ問い合わせたけれど、コロナで中止もしくは宿泊客のみ。まだまだ以前のようにはいきませぬ。
で、選んだのがイノダ本店。モーニング食べたの初めてかも。
色々話すうちに、お墓が深草とわかり、一緒に伏見稲荷大社に参拝することになった。8日のお火焚き祭の前にお献酒をしたかったので。いつもは本殿+αなのに、今回は奥宮まで。
やっぱり混んでましたね。七五三の参拝客は昨年も大勢しましたが、しかし、解放されて京都にやってきたグループも結構して、微妙に混雑。それでも、外国人が少ないので、いまのうち、いまのうち。
その後、私はひとり八坂神社に向かい、摂社末社に手を合わせました。先日の出雲大社参拝を報告したり、8日のフォーラムの無事を祈ったり。
丁寧に参拝していたら、講座の時間が迫ってきていて、焦って東洞院の向かったのであります。三条まちづくり協議会主催の講座いろいろ。でも、会場がわかりにくく、最初の講座は半分しか聞けず。後半の発掘の話は興味深く、三条通りから出土した桃山茶陶を見て感動した私でした。
出雲大社東京分祠
六本木の出雲大社東京分祠へ。島根の出雲大社に参拝に出向いたこともあり、分祠長さんとお話させていただきました。今年の神迎祭、昨年に続いて、地方の分祠長さんたちも参列が許されていないそうです。
最初のご縁は、拙著『スウィング・ジャパン』(新潮社)の取材。主人公のジミー荒木氏のお父さまは、当時、西麻布にあった東京分祠で資格を取得。開教師としてハリウッドで協会を開き、宮司さんをされていたのです。そこへ真珠湾攻撃。家族は収容所に送られることになるのです。
彼らが収容された地はアリゾナの砂漠。日系人収容所十箇所のうち、比較的ゆるかったヒラリバー収容所でした。ほかの収容所での悲惨な体験については、色々書物が出ています。おそらく一番きつかったのは、世代間の違い。2つの祖国が戦争することになったとき、日本人として生きるのか、アメリカ人として生きるのかというスタンスの違いで親子が対立したのです。アメリカを憎み、被害者としてネガティブな一世たちと、アメリカ国籍を持ち、戦後もアメリカ人として生きようとする日系二世たち。後者は、戦後を見据えて日系人のポジションをあげるために、親の反対を押し切って米軍に入隊します。やがて誰もが徴兵されることになるのですが、ジミーは徴兵組の世代です。
アメリカ人として生きようとする彼らにとって、収容所の中に届くラジオは希望の電波でした。スウィング・ジャズ全盛期、どの収容所にも、高校生のビッグバンドが誕生します。人並みはずれた耳の持ち主だったジミーは、その中心人物となりました。やがて陸軍日本語学校の教師となった彼は、学校でもバンドと作りますが、教員という立場からその活動を止めねばならなくなります。戦争が終わって、占領軍の一人として日本にやってきた彼は、「ジャズの神様」として皆の尊敬を集めるのでした。
ジミーさんの役割は、日本語通訳。おそらくは諜報活動にも関与していたはずです。占領軍は日本国内縦横無尽に動けたので、仕事の合間にまず、西麻布の出雲大社東京分祠を訪ねます。そして島根の出雲大社に向かい、参拝をしています。こうした事実に行きつく手がかりは、「稲佐の浜」で撮影された一枚の写真だけ。事件を追う刑事か弁護士か、足で稼ぐ果てしない作業です。
ノンフィクションは、ジグゾーパズルに似て、一片のピースをはめ込んで絵にする作業です。どうにか絵にできたものの、しかし、当時の私はまだ、神社についてちゃんと理解ができていなかったかと思います。京都で暮らして、いまはかなりの神社通。リライトしたい野心はあるのですが、さほど売れなかったので、文庫化されることは無いままです。
最後は日本文学の教授となる彼の人生については、『スウィング・ジャパン』をご高覧ください。文庫化されてはいませんが、電子書籍で読めます。
天水(てんすい)バケツのススメ
昼間から、牡蠣
先日、東京を訪れたときのこと。スマホPCともに問題が起き、ビックカメラを目指して新橋から有楽町へと歩いた。いつもと違う道を選んだ。久しぶりの東京は面白い。
あと5分で正午という時刻。牡蠣が9個で999円という文字が目に入る。北海道の魚専門の炉端焼きの店らしい。10月末までのキャンペーンのようだった。
まさかランチでは無理だろうと思いきや、昼でもいけるという。ご飯ものは注文せず、蒸し牡蠣9個に挑戦。ビールという気分でもないので、アイヌソーダを注文した。
夜は賑わうのであろうこの店に私一人。ガランとして場違い感がいっぱい。所在なさをスマホに目を落として誤魔化していると、やがて工事のユニフォームを着た男性が、一人二人と入ってきた。焼き魚定食とか海鮮丼みたいなものを頼みながら、牡蠣を追加した男子2人。よかった。私1人ではなかった。そして、OLが4人。私という存在の違和感が薄まっていく。
蒸し器がテーブルにやってきた。なるほど、小ぶりだ。これなら9個イケる。殻も薄い。アイヌソーダとともに軽く平らげた。
私の蒸し牡蠣「初」体験は、伊勢だった。おかげ横丁の路地で、おじさんが提供してくれるのだ。ただし、秋から4月まで。近くには焼きが多いが、なぜか彼の牡蠣は蒸す。それも的場湾の大きな牡蠣を3つ蒸す。それが美味で美味で、内宮に参拝したあとで、必ず食べて帰る。もっともおかげ横丁は17時には店終い。真っ暗になるので、先に頂くこともある。そして17時の閉門まで内宮の摂社末社をじっくり参拝するのである。
さて、新橋の牡蠣ーー。殻が薄い。添えられたハサミで軽くカットできるほどだ。これなら砕いて肥料にできるのではないか。京都丹後の農産物は牡蠣殻を肥料にして育っている。それにならって自分の家の鉢に入れようと、以前大きな牡蠣殻をひとつ持ち帰ったが、立派な牡蠣の殻は厚くて固くて、砕くことが難しいのだ。それに比して、これはハサミで切れるほど。持ち帰るしかあるまい。店員さんに問い合わせると、ビニールをもってきてくれた。薄い殻だけ選んで、店を出た。
信号待ちで「牡蠣蕎麦」という文字が目に入る。そそられるけれど、さすがにいまはいいかな。と思い近づけば、そこから入る路地に、あるわあるわ、麺のお店がたっくさん。外で並んでいる店もある。
非常事態宣言が解かれて、飲食店が前に向かって歩み始めた。その気配を、牡蠣に教えられた。
オレンジと橙の間
朝日が昇る前、最もエネルギーが得られる。窓を全開にして外気を取り入れつつ、掃除をするといいよ。そうある人に教えられたが、掃除好きではない私は、窓を開けるのが精一杯である。
ある朝、暗い中、散歩に出てみた。エネルギーを浴びるなら、その時間帯に歩くのがベストに思えたからだ。夜の続きと思えるのに、なんとなく新しいことが始まりそうな予感がする。ちょっと嬉しい気配が漂うのだ。そして、自分が地を踏みしめる京都の町がヨーロッパに思えた。なんだろう。街灯がオレンジ色だからだろうか。いや、街灯は普通に蛍光灯のはずだ。
わかった。ホテルのせいだ。この数年、できたばかりのホテルのせいだ。京都には大きなホテルが少ないからと行政も前のめりになり、コロナ前から次々と新しいホテルが建ち始めていた。それらがオレンジの光を放っているのだ。加えて、ホテルのロゴ、これが異国にいる感じを醸し出す。パリやプラハ、と言いたいところだが、石造りでもない鉄筋コンクリートの建物は、やはりアメリカと似ているというべきだろう。
足元は石畳でこそないが、アルファベットがつらなるロゴと、オレンジ色の灯りが、欧州を彷彿とさせるのだ。まるでパリやプラハ、と言いたいところだが、石造りでもない鉄筋コンクリートの建物は、やはりアメリカと似ているというべきだろう。そもそもこの季節になると、京都はワシントンDCを彷彿とさせるときがある。夜明けのこの気配は、紛れもなくアメリカだった。戦後日本がお手本としてきたアメリカだった。それも東海岸の。
が、ホテルなど一軒もないエリアに入り空を見上げると、そこには白い蛍光灯に照らされた、太い電線の束。これが視界に入ってきて、ここは京都の真ん中だったと思い知らされる。
東の空が次第にしらんできた。ああ、やはり家に戻ろう。東山から昇る朝日をみたい。7階のベランダから、ご来光を拝もう。東山が橙色に変わる様、これこそが古代より変わらぬ京都の橙である。
その朝私が見たのは、観光客を呼び込むためのオレンジの光。京都の町は、これを望んでいるのだろうか。
鞍馬の火祭
例年なら、今宵は鞍馬の火祭のはずでした。京都の3大奇祭といわれる祭りです。
それについては、アキオとアキコの京都女磨きに書いています。涼しくなってきたので、ぜひご高覧いただきたい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88076
内田光子さんのこと
このところつらつら考えていたことがあります。社内結婚がゆえに退職を余儀なくされて専業主婦をしていた時代(つまりキャスターデビュー前)、私は東京芸大の楽理を受験して、音楽家の評伝作家を目指してもよかったのではないか、と。
そんな折、ショパンコンクール2位に日本男子が入選したとの朗報が。ますます音楽の道を閉ざした自分が悔やまれていたところ、実は昨日、内田光子さんが、京都コンサートホールでリサイタルを開いたと知人のFBで知ったのです。私は東京にいたので、直前に知っても無理ではありましたが。
内田光子さんは、話題のショパンコンクール2位、ベートヴェンコンクール1位、の凄いピアニストです。私は中学時代、音大付属受験を目指してピアノに励んでいました(受験直前に向いていないと自主断念、普通高を受験)。月に一度見てもらっていた大先生が、厳しくて有名な桐朋学園の松岡貞子教授。幼き日の内田光子さんを教えた方でした。なにかについて「光子ちゃんはね」と口になさる。社宅ぐらしでアップライトのピアノしかもたない私に、なんと酷なことか。ほぼ毎回、私の演奏を聴きながら首を横に振ってNGオーラ全開、褒められたことは一度だけ。でも、先生のおかげで、若いころから内田光子さんの東京での演奏会へは必ず伺っていました。孫弟子たちにも、指の見える席が確保されていたので。ビデオのない時代、技術重視の当時の日本の音楽界では指の運び、とても大切だったのです。




