もしも米軍基地がなくなったなら・・・?

米軍基地がなくなったら、どうなるのだろう。
そんなシミュレーションをするのがマスコミの役割と思ってきたが、昨夜のフジテレビMr.サンデーでそれを取り上げていたのが興味深い。もっと色々な番組で議論すべきだ。
このままいけば、アメリカが日本を切り捨てることも十分にありうるのだが、そのとき日本政府はどうするのだろう。
当然、自衛隊を国軍化する声も出てくるだろうし、非武装中立国として貫き、自国防衛だけを考える選択もある。そうしたことを、米軍を追い出してから考えるのではなく、いまごろから議論すべきではないか。選挙の争点にしてもいいくらいだ。
それに、沖縄経済はどうなるのだろう。フィリピンのスービックのような経済特区にすることで、米軍施設で働いた人々全員に、平均年収400万円の仕事がまわるとは思えない。これまでのように無税とはいかないし、米兵が町に落としたお金も当てにはできない。電力もガスも需要が激減する。政府からの補助金が打ち切られれば、地元のゼネコンはたちまち経営難に陥るはずだ。
沖縄の問題は、市民の嘆きだけでは見えてこない。そうした声を利用して、誰がどう潤ってきたかを考えてみる必要がある。歴代の首長たちが全員、市民の味方とは限らないと私は考えている。

還暦の祝宴

このところ、恩師のイベントが続き、ドタバタと忙しい日々が続いている。あえて言い訳をすると、ブログを更新できずにいたのも、そのことと無縁ではない。
ひとつは上智の大学院教授・寺田勇文先生還暦のお祝い。もうひとつは、15日に朝日ホールで開かれる書家・石川九楊先生の講演会である。前者は世代を超えたゼミ生、後者はいろいろな職種の塾生、いずれも素人による手作りなので、遅遅として進まないことも多い。恩師への感謝の気持ちを形に出来るのは嬉しいのだが、素人でチームを組むのは時間がかかる。
金曜日は書の稽古の後、20時から打ち合わせが始まった。全体の運営から入ったので、演出にまつわる打ち合わせは23時半から。シナリオを任された年配者がワープロを打てないため、司会の私が打ち込み役を担うことになる。最初にシナリオを手がけた人の思いも尊重しつつ、途中から採択されたその年配者の案を尊重しつつ、両方に不満が残らぬように打ち変えて昼に完成させたものが、この打ち合わせで一気にひっくり返る。お二人が手探りで構成案を出していたのだが、どうやら先生の気持ちに追いついていなかったらしい。それでも、石川先生の意思が確認できたので、私としては、そこに沿って作り変えればいい。これで楽になった。案を出した人たちに気遣わずに済む。
土曜日は教授還暦の祝宴の日。その前に一本打ち合わせを入れ、その後、準備に入る。こちらは青山の「フィアットカフェ」が会場で、赤を基調にした会場は、還暦にうってつけだ。
先生には秘密裏に進める祝宴運営は、先生の鶴の一声とはゆかず、価値観や意見の違う若い世代との擦り合わせが簡単ではなかった。一般社会とは一線を画す、大学院という場での若い世代の考え方が想像以上に自分とは乖離していて、現在の日本社会で起きていることの断面を見た思いである。
夜は「自分が主役になることは人生にそうないから」とにこやかにおっしゃる先生に、三次会までご一緒した。なるほど、「結婚式は(主役率が)半分」なのだから、出版記念会や還暦、退官のお祝いと、限られた機会のみ主役を張るのは確かである。
世代をつなげる中心的役割を担った研究者夫婦によって、心温まる文集も作成された。今日になって読み返して、改めて先生の生きざまそのものが、現在、研究者として活躍している人々に大きな影響を与えてきていることを確認する。
私自身は、教育者とはこうあるべきだ、と寺田先生を尊敬してきた。研究者としての資質と教育者としてのそれが共存する人は、そうはいない。
院生だったころから、還暦のお祝いは自分が開くとイメージしてきた。研究者にならなかった私はゼミ生のなかでも異端児のままだが、それでも、そう名乗りたくなること自体、先生の魅力を物語っていると私は思う。

歌舞伎座閉場式

戸塚の日立病院から東京に戻り、東銀座へ。自分が観にいったときに写真を撮りそびえれたので、歌舞伎座を外から撮影しようとしたのだが・・・・。 まあ、ものすごい人だかりで驚いた。男女を問わず、中高年の方々がたくさん。携帯カメラもあれば、小さいデジカメも、本格的な一眼レフを抱えたおじ様、おば様がいらした。デジタル化でカメラマニアが増えたということなのだろう。千秋楽あたりからニュースで取り上げられていたため、最後にカメラに収めたいとかけつけた風だ。 「日本の伝統芸能の灯が消えて・・・」というおじ様のつぶやきが聞こえたが、日ごろ関係なく生きているようで、いざ壊されるとなると、歌舞伎座は日本人の心の糧でもあったことに気づいた人も多いに違いない。 それにしても、対岸から撮影しようとすると、交通量の多いことに驚く。それも工事関係の大きな車ばかり。そんな場所に、歌舞伎座のような小屋が残ってきたこと事態、尊いと思う。 残念ながら、私は閉場式に参加できなかったが、林真理子さんは行かれた模様。夜、ミッドタウンの「ユニオンスクエア東京」で開かれたエンジン01教育委員会に歌舞伎座から駆けつけ、遅れて出席された。きっと、そのお話はエッセイに登場すると思う。

安藤モモコリトグラフ展

5月8日に開かれる恩師の還暦のお祝いの打ち合わせを経て、西麻布のSWITCHへと急いだ。昨日が最終日という、安藤モモコさんのリトグラフ展を観にいくためだ。
モモコちゃんは、奥田瑛二さんと安藤和津さんの長女である。映画監督としての活躍もめざましく、現在ユーロスペースで上映されている「カケラ」も好評だ。それにしても、なかなかの才能である。絵を学ぶためにイギリスに留学していたのは知っていたが、リトグラフは今回が初めてだという。なのに、とても初めてとは思えないインパクトだ。実際、その個展で何枚か売れたらしい。 これから世界が貧困に向かうとしても、しかし、自分で立てる才能の持ち主は将来有望だ。
「食べられるかどうかわからない」という母親の心配もあるが、しかし、アートに国境は関係ない。これからは、中国人がクライアントになるかもしれず、ひたすら若い才能が羨ましいと感じた一夜であった。

『運命の長女:スカルノの娘メガワティの半生』

大学院の恩師の還暦記念文集へ寄稿するために原稿を書いた。自分ではすっかり忘れていた博士課程前期の日々を辿り、懐かしかった。
当時のインドネシア情勢を振り返る意味で、拙著『運命の長女:スカルの娘メガワティの半生』を読み返した。スハルト政権を倒せるかどうかの瀬戸際の話が、実に面白い。民主化推進派の知識人親子と一緒に別荘で過ごした夜のことなど、リアリティに満ち溢れ、我ながら読んでいてワクワクする。歴史の転換点に立ち会うとは、そういうことなのだ。
絶版になってしまい、図書館かアマゾンのUSEDでしか手に入らないが、機会があれば、ぜひご高覧あれ。独裁政権の転覆劇のさなかに居合わせ、リアリティを持って語られることはそうあることではない。なるほど、アジア太平洋賞特別賞を頂いたのも頷ける。インドネシアに興味のある人ならなおのこと、ぜひ一読を薦めたい。

誉田屋の手がけた浴衣

神宮前のユナイテッドアローズが新しくなり、火曜日はそのオープニングパーティだった。
もちろん洋服は男物で私のテイストではないのだが、浴衣を誉田屋山口源兵衛が手がけていることから、足を運んだ。
いやあ、面白い。私が男だったら、着たいデザインばかりだ。家紋のようにウサギが描かれているかと思えば、その耳がぐーんと伸びて、刀になっていたりする。桃山時代のデザインだ。私の周囲の誰か、似合う人がいたかなあ。教えてあげたくて仕方ないのだが。

戸塚駅にトツカーナ

昨日はエンジン01総会の後、エンジン塾、そして二次会へと流れ、今日は二日酔いだ。それでも、再発した顎関節症のために、戸塚の日立病院まで出向く。 戸塚駅には駅ビルトツカーナが完成していた。なんだかとってつけたようで、町の印象と乖離して違和感がいっぱい。おかげでタクシー乗り場が遠くなり、なんとも不便なことである。
なぜ、こんな地方都市ならどこにでもあるようなビルを建ててしまったのだろうか。もう少し、個性的な建物にすれば、話題にもなったのだろうに。街の人からも現段階では不評のようである。

天変地異と食糧危機

昼間、美容院に行き、仲御徒町の「多慶屋」でコーヒー豆を調達し、帰宅。土曜日に贅沢をしたのだから、日曜日は冷凍庫の中を整理しながら、アリモノの食材で間に合わす。人生、のメリハリ大切。
明日はエンジン01の総会なので外に出るが、当面は外食は控え、図書館通いの日々を送ろうと思う。
それにしても、このところの天変地異。思いもよらないアイスランドの火山爆発には、世界中が驚いたのではないだろうか。リーマンショックの折の金融危機同様、欧州全体がその被害にあっている。物流が障害となることで、近々、その被害は世界全体に広がるだろう。グローバリゼーションへの警告のようにもとれるのだが。
この2年ほど、ある友人は過剰に食物汚染に敏感になり、家でパンを焼いたり、ワインを造ったりと有機に敏感になっていたのだが、日本に十分な食糧が回ってこなければ、体に悪影響があるかどうかなどと、こだわる余裕もなくなる。口にするものが無農薬だの、いい油だの、言ってられなくなるのではないだろうか。
以前からあちこちで触れ回っていたことだが、やはり家庭菜園に限る。私もそろそろ、ベランダ菜園の体制を整えなければと真剣に考えはじめている。

「すきやばし次郎」で感動する

久しぶりに「すきやばし次郎」でお昼を頂いた。最近はNHKで取り上げられることが多く、ますます予約が難しくなっているらしい。
12人でカウンターを独占し、お任せで1時間。何もかもが、そのタイミングに一番美味しく出てくるように早朝から下ごしらえされている。最高の贅沢。 このくらいの年齢になると、食べることで感動することは、そうはないと考えていた。その思い込みを見事に覆したのが、小野次郎さんだ。364日粗食に耐えてでも、健康な限り、年に1度は、ここに来て、日本人に生まれた幸せをかみ締めたい。
口に入れた途端、魚の風味が口の中で広がる。下ごしらえに十分な手間隙がかけられているのと、少しきついくらいの酢飯が、それを可能にしているのだ。今月は貝類が充実していた。特に「とりがい」に驚いた。実は私は貝を美味しいと思ったことがない。だから、普段はカウンターにすわると、ほかのネタばかりを注文する。そんな私が「とりがい」に感動するのから、いかばかりかご想像いただきたい。
鮑には未だ早かったのが残念だったが、これがまた、最高なのだ。それまで口にしたものは何だったかと、昨年頂いた折には、ただ唸るばかりだった。こはだも、あじも。ああ、舌鼓どころではない。おおとろも、あなごも、うにも舌の上でとろけるようだ。なんという幸せ・・・。舌鼓どころではない。
今回の内容は、益弘さんの解説とともに、『美味サライ』に掲載されるらしいので、ぜひご高覧を。 私の隣に座っていた関係者によれば、同じ号の取材でロブションにインタビューしたところ、ひたすら次郎さんを絶賛していたという。あのロブションでさえ次郎さんの腕に唸ったのだから、私はただただうーんうーん、の連続である。
息子さんいわく「今回は津波の影響で大変でした」
そうなのだ。この地球変動の折、魚がコンスタントに入ってくるとは限らない。私も元気、地球も元気なうちに味わっておかないと。
またまた、日本人に生まれて良かったと感じた瞬間でした。小野次郎さん、ありがとう。