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2月は朔日から厄おとし
2月4日は立春。その前に厄落としを念入りにせねば。
京都では2日3日と神社仏閣をめぐる人がほとんど。私の場合は2年にわたった天中殺と昨年の暗剣殺から明けるタイミングゆえ、今年は1日から厄落としを始めることにした。色々な意味で、2月のお朔日詣りは特別である。
節分は「せち分かれ」、春夏秋冬それぞれの終わりだ。古来より、季節の変わり目は時間的な「境界」で、異界からの魔物が訪れやすいと警戒されてきた。節分そのものは年に4回あるのが、「陽」の気に転じる立春の前が最も危険なのである。
その邪気を鬼に見立てて「見える化」したのが現代の節分で、「豆」で退治するのが一般的である。京都では、朝から神社仏閣を巡って厄落としをし、福豆を買い求め、夜はイワシを食す。詳細は「アキオとアキコの京都女磨き」にご高覧にいただきたい。
さて、今年の1日をどう過ごしたかといえば、朝は上賀茂神社の月次祭に参列。コロナでステイホームしていることもあるが、節分前の静けさとでもいおうか。境内は実に静か。しかし、この日はすこぶる天気がよく、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。右からすっと心地よい風が吹いてきた。神気を帯びたといってもいいかもしれない。今日は烏が鳴かないと思っていたら、神事終わりに、遠くのほうで、本当に遠くの方で、かすかに鳴き声が聞こえた。
参拝客の少ない今日は空いているだろうと、帰りに神馬堂に寄る。バスの最後部席で、こっそり買ったばかりのやきもちを頂いた。やわらかくて美味。神さまありがとう。
家に戻り、立春大吉のハガキをしたためたあと、夕方になってから伏見稲荷へ。外国人観光客がいなくなったとはいえ、お朔日の伏見稲荷はそれなりに人が集う。オミクロン不安に残る昨今、昼間の人混みを訪れる勇気はなく、日が落ちてからの参拝にした。社務所は閉まっているが、静かに参拝できる。アキオとアキコの女磨きで火焚祭が取りあげた時から、毎月朔日に参拝している。江戸時代以降、商売繁盛が謳い文句のようになったが、実は五穀豊穣をもたらしてくださるのが稲荷の神々なのである。
明日の2日は仕事をし、3日には神社仏閣の参拝を考えている。はてさて、どうなることやら。
節分の禊、我身と我家のどっちを優先?
東京では、節分の2月3日には大掃除の日と決めていた。大晦日にちゃんと掃除ができずに年を越したせいもある。だが、立春こそ本当にスタートのタイミングと踏んでいた私は、節分にはきっちり自分の場を整えて、神々をお迎えするのだと決めていたように思う。
段取りはこうだ。朝から掃除を始めて午後3時ころに大阪鮨に恵方巻をとりにいく。雅子皇后が通っていらした美容室の近くに、小さいながらも美味だった大阪鮨があった。通の間で人気店だったから、前日までに予約し、ピックアップにいくのだ。閉店は夕方。だから時間は限られている。
夜。入浴後に豆をまく。マンションだから静かな声で。鬼門である東北から時計回りで。実はそのころの私は、玄関が東北だと思い込んでいた。後に測定し直したところ、玄関の扉はぎりぎり東にあり、東に向けて開くのだ。だから、鬼門は寝室であり、その窓からまくべきだったのだ。思えば、間違った豆まきをしていたわけだ。
その後、部屋を真っ暗にして、恵方巻を食べる。日本酒とともに。あの太巻きを一気に食べるのだから、どんだけ糖質をとることになるやら。しかし、ここは運気をあげるため、一晩限りと思って、一人で平らげていたのである。恵方に向かって、黙々と。喉を潤すための日本酒を近くにおいて。
幸い、東京のマンションは部屋が7階にあり、夜景が美しかった。20時21時くらいでは、まだまだネオンサインが瞬く時間なのだ。すべての音を消した部屋の中で黙々と食するというのは、自分の願い事の整理にもつながり、貴重な時間だった。
おそらくポイントは、掃除を終えたというところにある。大晦日を逃しても、節分には清潔になることで、リセットができていたのだと思う。達成感もあった。やりきったというような。
ところが、ここ数年、節分の掃除も危うくなってきている。もちろん物を増やした私が悪いに違いないのだが、しかし、京都の節分が独特だからである。
ここでは、豆まきの前に神社仏閣を巡り巡って、からだごと厄落としをするのだ。それはそれで、自分の身は浄化されるかもしれないが、複数の自社めぐりは、追い立てられるようで実に忙しい。最初はカメラ持って、2日から節分祭や節分会の様子を撮影していただけだった。それでも、3日の夜中にはヘロヘロになっていたのを思い出す。くわえて、いまは撮影目的だけではなく自分と縁のある寺社をめぐるのだから、豆をまくのがやっと。かつて掃除に当てていた時間を寺社めぐりにあてるのだから、当然の結果である。
神棚や玄関などをきれいにしたら、あとは物が捨てきれないまま、拭き掃除もそこそこに、神迎えの体勢となってしまうのである。
いやいや、愚痴をいうより、まず掃除。わかっているんですけどね。
フレンチ茶事の初釜
ゴルフ倶楽部
洛北にある京都ゴルフ倶楽部。このゴルフ場は占領軍によって造られた、と巷では語られている。
果たして、それはGHQの占領政策の一貫だったのか、一人の米軍将校の執念だったのか。神が降臨したとされる神山。その神聖な山を削ってのゴルフ場の誕生は、京都の、いや日本に、何かをもたらせたのだろうか。
メタバース つづき
メタバースについて、いまのうちから馴染んでおこうと思った矢先、
ニュース番組で前京都府知事が「メタバース」に言及。
行政と為政者の間では、大前提らしい。
もちろん、企業はそれで稼ぐことを考えている。
コロナでリモート会議に慣らされた日々。
それはメタバースへプロセスだったのか。
これからドラスティックに社会は変わる。
50代以上は、仮想社会に馴染めるだろうか。
知らぬ間に取り込まれていたとか、
気づいたら変わっていたと呆然とするより、
この流れをクールに捉え、立ち位置を決めよう。
でも、やっぱり五感が大切。リアルが好き。
と思うに決まっているけど。
私の場合。
寅の日ゆえ虎レポートを
時代はメタバースへと向かうらしい
東京で初観音
18日は観音様の日と知ってからは、京都では六角堂を訪れて手を合わせる。ご本尊は如意輪観音だ。
今月は東京にいる。さて、どこに参拝しようか。すぐに思い浮かんだのが浅草の観音様だったが、ちょっと遠い。麻布界隈で探してみたくなった。すると、驚いたことに南青山にあるではないか。永平寺別院の長谷寺(ちょうこくじ)にある観音堂に、十一面観音が祀られているとわかった。麻布大観音と呼ばれる、10メートルの日本最大の木造観音が祀られているのだ。しかも、14時から例祭が斎行されるというので、参列した。
ここの長谷寺には、雲水が滞在する。一般人の座禅体験の機会もあり、10年以上前に一度だけ参加した。頭上には、道元さんの「普勧坐禅儀」が掲げられていた。書塾で臨書したばかりだったので、なんだか感激したのを覚えている。が、観音堂があるとは知らなかった。
昨年は奈良の長谷寺(はせでら)に初めて詣でて、十一面観音さまに手を合わせた。今回初観音に東京に居合わせて、長谷寺(ちょうこくじ)に参拝できたのも、無関係でないかもしれない。
思えば、私が幼いころ、大須観音から遠くないところで育ち、離婚してからは西麻布で過ごし、いまは六角堂付近で暮らしている。ずっと以前から、観音さまにお守り頂いてきたのかもしれない。改めて、ご縁に感謝。
三枝成彰 80歳コンサート
かつて「お茶目な還暦」というフレーズが頭の中を巡ったことがある。イメージしたのは、アートディレクターの浅葉克己さん、そして作曲家の三枝成彰さん。あれから20年が経ったのだと、コンサート告知を見て愕然とした。
17日にサントリーホールで開かれた「三枝成彰 80歳コンサート」。実に感動的だった。
三枝さんのメロディは耳にしただけで胸がキュンとなる。せつなくなる。そこに哀しいドラマが載っているのだから、涙が止まらない。
今回は2本立て。1つは辻井伸行さん委嘱による新作のピアノ協奏曲。もう1つは混声合唱曲の「最後の手紙 The Last Message」。2010年に六本木男声合唱団の委嘱で書いた男声合唱曲に、女性の声を加えた形で編曲し直しての初演だ。
「最後の手紙」は、戦争で命を落とした人々の、人生最後のメッセージである。第2次世界大戦後、ドイツの編集者が、戦争で家族を失った遺族たちに対して、亡くなった兵士たちや反政府運動家たちが、故郷の家族や恋人に宛てて書いた「最後の手紙」を見せてほしいと呼びかけた。2万通以上の手紙が寄せられ、1961年に31カ国202人の手紙をまとめた「人間の声」として出版された。その中のいくつかの手紙にメロディをつけ、レクイエムとし、平和を訴える。三枝さんの優しくうら悲しいメロディに乗せて、それらのメッセージが私たちの細胞の中に染み入ってくる。そして最後映し出される字幕に世界各国の死者の人数ーー。
ここで休憩をはさみ、辻井さんの演奏。高度なテクニックが求められる実にアグレッシブな曲だった。80歳を目前にしてコレを書いた三枝さんも素晴らしいし、耳だけでコレを覚えた辻井さんもすごい。
いま生ある私たちに、力強く生きろと発破をかけられた思い。不本意にも戦争でこの世から旅立った人々の分まで。そして、同じ過ちを繰り返さぬように、何があっても、平和を守るようにと。これを音楽で伝える三枝さんは、「ますますお茶目な」傘寿である。
【追伸】
三枝成彰さんとはエンジン01文化戦略会議でご一緒。最初の出会いは、テレビ朝日の「CNNデイ・ウォッチ」。毎晩放送された深夜番組のキャスターとして。私とは出演曜日が違ったので、共演することはなく、忘年会でご挨拶したきりでしたが、その後、横浜のホテルで開催された年越しコンサートで私が司会を担った際、作曲家としての三枝成彰さんを知りました。この20年余はエンジン01の活動を通して、三枝さんの多岐にわたる才能にも圧倒されつつリスペクト度合いは高まるのですが、しかし、あの大晦日、タクトを振られた美しい姿が本来の三枝さんと私は考えています。これからも、音楽家としてますますご活躍いただきたい。お誕生日は半年先ですが、おめでとうございます!