昨日28日は織成館の茶会。朝からうろこ雲。午後から青空になったようだが、早朝から水屋で働きまくり。
おかげで今日は一日腿の前部分がパツンパツンとなり、痛いことこの上ない。早朝は平気だったのに、なぜに10時からこのような痛みが・・・。
着物は菊文に、奄美大島のハイビスカスで染められた櫛織の帯。最後の写真、背後霊は水屋から出てきた三人組。
コロナ禍で、ランチのみ外食を続けている。お昼にガッツリ魚や鶏肉を食べ、夜は家であっさり。知り合いのお店もお酒を出せないので、ランチのみの営業が増えたからだ。
もう一つの理由は、飲食店の火力にある。鯖を焼くのも、チキンを焼くのも、家のキッチンでは時間がかかる上、家中に匂いが蔓延してしまう。だから、焼き物は外で食べる。これは以前から続けてきたことだ。
ふと気づくと、週に一度は焼鯖定食。おかげで、「いつもありがとうございます」というセリフが飛び出す。こちらはコロナ禍まで訪れたことがなかった。三条通りのまんざら亭だ。脂ののった鯖が半身、ものすごい火力で焼かれて目の前に出される。突き出しが色々着いてくるのも嬉しい。ひじきを煮るのもごぼうを炊くのも簡単だが、一人だと食べきれない。冬ならまだしも、夏は日持ちがしない。ゆえに、こうして数種食べられるのがありがたいのだ。
一人で訪れるのでいつもカウンターにしていたが、今日は窓際のボックス席に座らせてもらった。窓からは京都文化博物館別館が見える。明治時代、辰野金吾が設計したレンガ造りが青空に映えて美しい。早起きして拝んだ東山のご来光が、この青空を予言していた。
昨夜テレビをつけたら、NHKの伝統芸能番組に坂東三津五郎丈が取り上げられていた。この番組、高橋英樹さんが司会になってから、面白くなった。ご自分も時代劇、随分演じられているからだ。
スタジオでは「楷書の芸」と評していた。ぴったりの表現だと思う。稽古に稽古を重ねて、技術に裏打ちされた完璧な芸。型がちゃんとしているから、崩すのはそこから。家元として日舞を舞う時の彼は、指の先まで神経が行き渡り、完璧だった。
実は俳句でのご縁。年に5回くらいの句会だったが、皆で金毘羅歌舞伎を見に行ったり、由布院に行ったり、大人の修学旅行、刺激をいっぱい受けて、楽しませていただいた。それがご縁で歌舞伎の舞台、よく拝見したのだが、結果、中村勘三郎丈の芸も目の当たりにすることとなり、私が日本の伝統文化をするための登竜門的時代だったとも思う。
歌舞伎の中堅どころが続けてこの世を去ったことは日本全体に大きな打撃と思うのだが、これは歌舞伎座を新しくしたことと関係あるとするのが、京都の人々の目線。これについては改めて。
この着物が私のもとにやってきて、2つのことを教わりました。
祖母の形見、白の越後上布。15年前、叔母たちと祖母の家で遺品の整理をしたとき、箪笥の中に眠っていたものです。彼女たちは大島紬や訪問日などを選び、夏の薄物には興味を示さなかったので、私が形見として持ち帰ったうちの一枚です。宮古上布と並んで越後上布は高価だと聞かされました。そうとは知らず、私はこの着物を手に入れて、とても嬉しかった。祖母がこの着物を纏っている姿は記憶にないのですが、私の知らない祖母に会える気がしたのでしょう。
最初は、祖母の夏帯をあわせて着ていました。深い翡翠色の帯。日焼けして色あせしていたので裏返してかがってもらい、締めていたのです。上布の着物は果たしていつの時代のものか。祖母の着物は時として縫い糸が弱ってほつけてしまいます。縫い直すなら一度洗い張りに、と呉服屋さんに預けたところ「雪晒し」にしてくれたので、真っ白になって返ってきました。見違えるように真っ白に。それまでは、薄いグレーのような印象だったのに。
「雪晒し」とは、雪の上に布を晒してきれいにする手法。後に現場を見に新潟までお連れいただき、眩しいほどの一面の雪原に反物を次々広げていく光景を目の当たりにしました。薬品を使うわけではありません。自然に任せるだけで、あそこまで白くなるとは――。オゾンの力、おそるべし。先人の知恵に感動しました。
白すぎたら白すぎたで、自分の顔が赤黒く見えてしまうと悩みながらも、盛夏には上布を纏っていた私。ほぼ毎年訪れていた京都の祇園祭の宵山で、上布を涼しげに纏う女将さんたちを見て憧れていたからです。
ところが、その白い上布で歌舞伎座を訪れたときのこと。帰る夜道、寒いと感じたのです。8月20日くらい、第三部を観終えた後、日比谷線で六本木駅で下車した21時過ぎのことでした。若手の納涼歌舞伎が開かれ、中村勘三郎丈と坂東三津五郎丈が頑張っていたころです。日中の陽射しに従い、白の上布を選んだのに、夜風は微妙に秋の気配。麻のサラサラ感が寒いのです。私のからだにまとわりついているはずの上布が妙によそよそしく、かすかなる冷気が私のからだを直撃するのです。おそらく洋服を着ていたら、気づかなかったでしょう。ビルが乱立する東京にいても、上布を纏えば季節を感じることができる。これは驚きでした。
日中の陽射しは真夏でも、夜になると忍び寄る秋の気配。歌舞伎座の帰り道に秋を感じて以来、8月末、夜まで過ごすときには絹、すなわち絽の着物を選ぶようにしています。
絹のきものが温かい話は、また別の日に。
まったくもって恥ずかしい話だが、同じ本を2冊買ってしまうことがある。以前は本屋で一冊買って、また別の日に買ってしまうということ。その点、アマゾンは以前にも購入したと教えてくれ有り難いのだが、しかし、新刊本の冊数を2にクリックしていたり、古本を2冊候補にしたままカートに入れて、会計に行ってしまったりするパタンだ。
今回も京都の精進料理という昭和52年刊行の古本で、それをしてしまった。誰か興味のある人に譲るしかない。アホです。
京町家に憧れがあります。郷愁というほうが正しいかもしれません。名古屋の祖母の家を思い出すからです。洛中の町家のように苔むした坪庭があるわけでもないけれど、それでも、夏座敷に涼しげな室礼が幼いころから好きでした。寝そべったときの、いや素足で歩くだけでも、籐の網代のひんやりとした肌ざわりが、私に「和の夏」を教えてくれていました。
まずは神棚にお水を、仏壇には御仏供さんを供え、私が生まれる直前に旅立った祖父のために、祖母が木魚を叩きながら読経するのを横で聴いていたことも、東京で社宅暮らしをしていた私にとっては、貴重な体験でした。
麦茶をやかんに入れて沸かすときの香ばしい匂い。冷やすのが目的でやかんに占拠された洗面台は、ペットボトルなどなかった時代の光景です。廊下には、赤だか水色だかの、折りたたみ式のボンボンドリームベッドが置かれていて、時折、庭に出してその上に寝ていた覚えがあります。高度成長期、庶民のモダニズムの象徴というのは大げさでしょうか。あの当時、祖母にとっては自慢の品だった気配があります。
流行っていたとはいえ、幼い私でも、ボンボンドリームベッドのビニールはベタっとする、と知っていた気がします。寝そべるなら、籐の網代の上が気持ちいいと、子どもなりに感じ取っていたのではないでしょうか。
祖母の家は叔父の代襲相続で従弟のものとなり、あっさり人手に渡ってしまったのですが、誰も興味を示さなかった、あの網代の敷物はもらってきたらよかったなあ、といまごろ悔やまれます。祖母の上布の着物や夏帯は手元に残ったのですが。
祖母の家で過ごした経験も、私の京都暮らし願望へとつながっているのです。
9月9日のこと。
上賀茂神社の重陽神事に参列。本殿の前に進むだけで祓われる気がします。実にありがたい。
いつもなら、圧倒的な静寂の中、大木に宿る鳥の囀りが心地よく耳に届き、やがて空高く飛ぶ烏の啼き声に神々の気配を感じとる日でもあります。そのたびに八咫烏伝説を思い出すのですが、今年は烏相撲が中止になったせいでしょうか。烏が上空を訪れず、ツクツクボウシが数匹、力強く夏のフィナーレを訴えようとしていました。
実はこの日、30度。洛北であるにも関わらず、早朝から強い日差し。菊文の生紬をまとった私の背中にじとっと汗が滲みます。直会は菊酒。金の酒次から土器にも菊の花びらがこぼれます。神気をおびたお酒と菊花を口に含むと、延寿が約束された気持ちになり、洛中へと急いだのでした。
東京の知人と電話で話す。東京はコンサートホールによっては密が生じているらしい。オーチャードは厳しいが、サントリーホールは入口に体温測定器すらなかったという。いや、京都も1800人もの観客を入れたと友人がFBに書き込んでいた。
コンサートの間、話はしなくとも、隣の席の息遣いは聞こえてくる。もしも突然、咳をされたらどうしよう。彼がマスクをしているからといって、ウィルスはその合間を縫って、私のところに到達するかもしれない。大柄の人だったりしたら、私との距離は本当に短くなる。
まだコンサートに行く勇気もないくせに、あれこれ妄想してしまう。地下鉄なら席を立てるが、ホールでは休憩まで金縛り状態。マスクの上から口を覆えるハンカチを用意しようか。最初からマスクを二重にしていくか。
新幹線は座席が選択できて、本当にありがたい。予約者10人未満の車両を選ぶことにしている。