ヒカゲノカズラで蓬莱飾りを作ってみました

初釜式で待合の床の間に飾られている蓬莱飾りーー。今年は規模縮小でお呼ばれがなかったので淋しくもあり、正月2日の卯の日に自ら作成、神明舎に飾りました。フラワーアレンジメントで学んだドアスワッグとかブーケの感覚で簡単にできるかと思ったのですが、地を這うヒカゲノカズラのくねくね、なかなか手強かったです。紅白の紙はどうしたものか、熨斗紙風に適当に折って、水引をつけてみました。完全な自己流で、ようわからんまま。
ヒカゲノカズラは平安時代から邪気を祓うものとして重用され、いまでも神事に用いられます。上賀茂神社では元旦から節分までの間、「卯杖」が社務所で授与されます。卯杖は、桃や椿などを2本あわせた木に山立花と石菖蒲とヒカゲノカズラを巻きつけたもの。神さまの依代として神札代わりだったと説明されるので、私は榊同様、一対神棚においています。
上賀茂神社では新年初の卯の日に神事が斎行されますが、神前にお供えした卯杖を宮中に献上するのが習わし。それにあやかり、私たちにも社務所で授与されるということのようです。
写真は除夜の鐘をついて寝ずに和服を着て歳旦祭に参列した後。徹夜しているから顔がマンパチで目はショボショボ。この後、境内で寅の枡で樽酒を頂いて、ヘロヘロになるのがこの数年の年迎えパタン。
とまれ、ヒカゲノカズラで神明舎の邪気祓いバッチリです。講座開催の折には、どうぞ安心してお立ち寄りくださいませ。

大田神社は10日が大切

大田神社は、上賀茂神社よりずっと古い。断っておくが、上賀茂神社は奈良時代から存在している。それよりも古くから神さまが祀られていたのです。

上賀茂神社(賀茂社)が皇室との縁を深めていき、一般の人々が二の鳥居の中まで入れなかった時代より前から、大田神社は賀茂族の氏神さまとして地元の人々をお守りしてきたのです。

ご祭神は、あのアメノウズメです。毎月10日には、皇室と日本のために、神楽が奉納されます。加えて、年に3度、宮内庁からのお使いが皇室の代行で訪れます。

私が締めている帯は葵。上賀茂神社の摂社ゆえ、ご神紋は二葉葵。

 

 

瀧原宮のこと

伊勢神宮・内宮の五十鈴川は有名ですが、外宮を浄化してくれる川は宮川です。

以前、この宮川に奉納される花火大会を見に行ったことがあります。伊勢神宮への奉納ですから、日本中の花火師がやってきて、最高の花火を奉納するわけです。対岸であげられた花火を、ほぼ真下で鑑賞。花火の美しさはもちろん、ドーンと大地からその振動がからだに伝わってきて、魂を揺さぶられる感覚、初めてでした。

宮川の源泉となる地域にあるのが瀧原宮。伊勢神宮の別宮です。最初に訪れたのは東京で暮らしていたころ。毎年、家族で伊勢神宮に参拝するという友人に勧められて参拝しました。松阪駅から1時間に1本くらいのバスに揺られて出向き、森の中の坂道をひたすら上がりながら、誰にも会わないので不安になっていると、奥から歩いてしらしたのが神職さん。いわく、「伊勢神宮の中でもここが一番好きなんです」。

たしかに、身を置くだけで、東京で溜め込んだ垢が落とされていくような、すっきりとした気持ちになります。奥の社殿には他に誰も居なくて、いま思えば、神さまを独り占めできる、貴重な体験でした。

京都から年に5回くらい伊勢神宮に参拝しています。内宮、外宮、それに近鉄沿線に近い別宮の三社までは参拝して日帰りできます。しかしながら、この瀧原宮まで歩を延ばすには、一泊するか、車が必要です。ゆえに、車を運転してくれる仲間がいるときのみの御参りとなるのです。また、一度ご縁を頂き、冬至の夜の神事に参列したこともあります。土砂降りの中の神事となりましたが、あの幽玄な世界は格別で、これについては改めて書きますね。

今年は初詣に盛り込んでの参拝。次々に人が訪れて、上る人、下る人、参道がやや混んでいたのに驚きました。地元の方々と思われます。イザナギ・イザナミ様一対の御札をどうするか迷いましたが、神棚が混雑するので、御朱印と土鈴(私が最後の一個)のみ授与していただきました。

等彌神社

奈良県桜井市。古代史に興味を抱いたときから、ときどき参拝に訪れる。最初は巳さんに会いに、大神(おおみわ)神社へ通い、最近はもっぱら等彌神社へと向かう。

この神社は、鳥見山に鎮座されていたという。神武天皇が皇祖神と天津神を祀った場所、霊畤(まつりにわ)だ。初めての大嘗祭が斎行されたところと日本書紀に記されている。

が、私がこの神社を訪れるのは、八咫烏に興味があるからだ。ここには、埴輪にそっくりな八咫烏の像が境内の古い松の下から出てきたというのである。その置き物とストラップを気に入って、お守りとしている。どうやら私の先祖、いや過去世に、ここと縁があったのではないかと夢想したいだけかもしれないが。

なにより、身を置くだけで浄化されるのがわかる。ほとんど人が訪れることのない、地元の人々に愛されている等彌神社で、私自身がリセットされる感じがするのである。

一人境内に立っていると、天高く伸びた木々の梢が何かを語りだす。そのときは私が歓迎されていると勝手に解釈している。凪いで何も気配がないときは、きっと私が反省すべきことがあるに違いない。私には霊感がないので、メッセージが具体的に理解できないのだが、しかし、地球との対話の原点がここにあるように思い込ませてくれるのである。

今年訪れたのは南が吉である4日。次々と地元の企業が仕事始めの祈願に訪れていた。境内は静寂からはほど遠かったが、祝詞を挙げられるときの神社は、特別の気配がある。昨年守って頂いた感謝を捧げて、友人の待つ京都へと急いだ。

あ、ストラップは品切れ。すでに10個ほど色々なバッグにつけて守って頂いているのだが、さらに、と思ったのだが、残念。代わりに、桜井のかるたを購入して帰った。これで桜井の歴史がわかるはず。

 

 

鳴虎に会いに報恩寺へ

誕生日が「寅の日」と知って、にわか虎コンシャスの私。宝鏡寺のすぐ南にある報恩寺を訪れた。「京の冬の旅」でレプリカが公開される前に、「鳴虎図」の本物が3日間だけ公開されるというので、最終日に駆け込み。伊東若冲が手本にした絵を拝見するのだから、ここぞとばかりに、若冲「猛虎図」の帯を締めて。

まるで本物がそこにいるようなリアルな絵。白、黒、赤茶。毛が一本一本丁寧に描かれているためだろうか、驚くほど立体感がある。

「鳴虎図」は明の時代、寧波出身の画家、陶イツによって描かれた。その後日本に渡り、16世紀初め、後柏原天皇から報恩寺に下賜されたらしい。秀吉が見初めて聚楽第に持ち帰ったが、夜になって鳴くので寺に返されたという逸話さえ残っている。

明の前は宋。この時代、現代人の想像を超えた文化の発展を遂げた中国。ものすごい数の熟語が生まれたと聞いている。絵画においても、色々な表現が生まれたに違いない。明の時代は、それらを踏襲した可能性が高い。

獰猛なはずのアムール虎。しかし、ちっとも怖くないのは、丸い瞳のせいか。

「寅の日」生まれと知ってから、虎への愛情が深まるばかりの私である。

 

 

謹賀新年

  伊藤若冲「猛虎図」の帯を締め、
  西の守護神「白虎」と共にご挨拶。
  「虎は千里往って千里環る」とか。
  誕生日が「寅の日」だったと最近知って、
  気力みなぎる初春です。
  今年もよろしくお願いします。
   令和4年壬寅歳
             秋尾沙戸子

 

信貴山の虎

誕生日が寅の日と知った私は、虎と縁のある社寺を巡ろうと、奈良の信貴山に出向いた。実はここは、寅年に訪れるべきワンダーランドでもある。若冲の虎の帯、ここでも大活躍(写真はのちほど)。

信貴山は、毘沙門天王が日本で最初に出現されたという、毘沙門天王信仰の総本山。聖徳太子によって開山されたという。毘沙門天王像は左に禅膩師童子像、右に吉祥天像とともに内陣の正面に安置されている。

こちらの寅信仰は、聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感得されたのが寅の年、寅の日、寅の刻であったといわれている。今年は聖徳太子の遠忌1400年。日ごろ六角堂で聖徳太子に参拝している私は、そのご縁で、ここに注目。参拝する流れとなったのかもしれない。

入口に、とてつもない張り子の虎がいるとはネットで見て知っていたが、虎のポストや虎の授与品があれやこれやで楽しすぎる。早朝の玉蔵院は掃除中。左奥の出世毘沙門天(刀八毘沙門天)に手を合わせた。刀が八本もある毘沙門天さま、どうやら闘いに強いらしい。その後、本堂に向かったものの、京都での用事も控えており、落ち着いての参拝は、寅年になってから。

本当なら寅の日参拝が望ましいが、元旦と重なるため、すさまじい数の参拝客が予想される。そもそも車がないと辿り着かないので、寅の日参拝は2月以降にしようと思う。

 

母のお召

63歳で早逝した母の形見整理が、私にとっての最初に試練だったかもしれません。

海外を飛び回っていた私が想定していたのは、母が私の遺品を整理する姿。勝手な娘が渡航を繰り返し、怪しい事件に巻き込まれる可能性。整理能力のない娘のことをブツブツ文句を言いながら、私の持ち物を始末する姿。だが、実際に起こったことは、母がこの世を去り、これまた整理能力のない母の持ち物+実家のすべてを私が整理する羽目になったのでした。

弟の結婚まで母娘の関係は決してよくなく、母の私物や花瓶や茶碗など、母の思い入れをなにひとつ聞かせてもらっていなかったのでした。私の関心事だった着物をどう着こなせばいいのやら、冷蔵庫の食材を前に調理法がわからなくて呆然とするに等しい戸惑いの中にいました。

なかでも悩んだのは、この赤いお召。この幾何学は、いかにも難しい。洗い張りを終えて丸められた反物状態でしたし、母が纏っていた写真も残っていなかったので、おそらく仕立てることはないであろうと思っていました。京都で知り合った呉服関係者に相談し、面白い柄行だから着てみれば?と勧められて仕立てたのでした。

ところが、帯が難しい。最初は、アンティークショップでみつけた「たらりの帯」を仕立て替えたものを締めていましたが、この日は誉田屋さんの「日々是好日」を締めてみました。鶏、向日葵、梟が描かれているのです。写真は吉田家。灯りの影響で、実際の色より朱をおびています。

正月事始め

12月13日は正月事始め。年末の掃除、新年の準備を始める区切りの日である。

お世話になっている人々へご挨拶に行く日でもある。今日庵や不審庵、お茶の家元のところへは業者が挨拶に訪れ、花街なら踊りの師匠や料亭に挨拶まわりをする。

それゆえ花街の芸舞妓が色とりどりの着物を着て歩く姿は実に愛らしい。それをカメラに収めたいとカメラおばさんカメラおじさん、そして外国人観光客がコロナ前には花街に押し寄せていた。上七軒、祇園界隈、宮川町には黒山の人だかりができて、地元民にも芸舞妓にも迷惑な存在ではあった。

中止された昨年はさすがに訪れる人もいなかった祇園の花見小路に足を運んでみた。一力の前はさすがに疎らで、静かなもの。やがて家元、四条北のお茶屋さん周りを終えた芸舞妓、それを追っていたカメラおじさんが数名南下してきた。それでものどか。途中で警察が偵察に来たが、あまりの静けさに引き返したほどである。

私自身、色々なご縁で芸舞妓さんとお座敷でご一緒したことが何度かあるのだが、お座敷とは違う、普通のメークで淡い色の着物姿の芸妓さんや、髪はゆいながら小紋に蝶文のかいらしい帯を締める舞妓ちゃんたちの装いを観たくて、時々この界隈を訪れたくなる。

今年の気づきは、ヒエラルキーだった。一番若い舞妓ちゃんが先まわりして、暖簾を上げるのである。その後に続くお姉さんたちのために。こういう気遣いとか行動は修行の賜物。花街と宝塚くらいではないだろうか。もちろん、裏千家学園を出た女性たちも、こうした気遣いは徹底している。

今年の師走は暖かい。事始めは少し風が冷たかったが、それでも例年に比べて暖かい。ショールを羽織る芸妓も例年に比べて少なかった。加えて、クリスマスの帯が目についた。二人の芸妓さんの背に、それを確認したのだった。

四条通では、商店街の沿道に幕を貼る作業が進んでいた。祇園の風景は、事始めを機にガラっと変わる。ああ、今年もあと2週間余。何もなし得ないまま、歳が改まろうとしている。

 

侘助の花

侘助という花がある。

椿に似た、しかし、花びらは一重で、開き方も小さくラッパのような形をしている。蕾をたくさんつけるので、晩秋から春まで何度も花を咲かせる。

私が初めて侘助の白い花に出会ったのは、四半世紀も前、北観音山の吉田家のこの庭であった。夜に眺めたと思う。闇にふっと浮かんでくる可憐な花に、佇まいの素晴らしいこの家に誘ってもらった感動以上に、強烈な何かを私は植え付けられた気がしていた。侘助という響きのせいかもしれない。闇に浮きあがった白の群れは天から舞う雪にも見え、一瞬でも冬の京都に身をおいた私の心に、何か罪悪感めいたものを落とした気がしている。ひぐらし喧騒の中にいる東京では人間として大切なものをう失っているのだという、貘とした罪悪感。その感覚が、私を京都暮らしへと誘ったのかもしれない。

京都の新町通六角下る。毎年夏になると北観音山が建つこの町は、かつて両替商の三井家、松坂屋の伊藤家など、豪商の家々が立ち並んでいた。三井の土地には現在、逓信病院が建つが、私が東京から祇園祭に通うようになってからも、まだ松坂屋の伊藤家所有の建物は蔵などとともに残っていて、新町通りに長く幕が貼られているのがいかにも美しく、毎年、写真を撮っていたものだ。南北に伸びる新町通でも、この界隈だけ道路の幅が広いのは、そうした豪商が馬車を停めるためだった。

山鉾町の家々には、いわゆる京町家が数多く並んでいる。入り口の幅はさして広くなくても、奥が深く、途中に坪庭があるのが特徴だ。そして、さらに奥に構える蔵との間に、吉田家にはもうひとつ庭がある。そこに、この侘助が花を咲かせるのである。

京都で暮らすようになってしばらくして、私は年に数回、この家を訪れている。吉田家は特別で、誰でも中に入れるわけではない。縁のある人が招かれるだけである。祇園祭の折には窓枠が取り払われ、先祖代々受け継がれてきた屏風などを飾って見せるのが習わしだが、それも新町通から眺めるだけで、家の中に入って腰を落ち着けるなどということは、誰か親しい人に連ならなければ叶わないことなのである。

そんな特別な京町家に私がしばしば訪れた理由は、当主である吉田孝次郎氏が京都の商家の暮らしについて語る吉田塾を始めたからだった。私はその塾生として足を運んだ。当初は季節で移ろう町家の室礼などにだったが、次第に、先生のコレクション、小袖、更紗、朝鮮毛綴れなどをご披露いただき、その後の懇親会が楽しみとなっていった。コロナ前のことである。

その吉田塾が日曜日、最終回となった。コロナ禍では途切れ途切れとなっていた講座に一区切りつけて、仕切り直すということである。その記念すべき最終回に、侘助が一輪、咲いていた。私を京都にいざなった侘助の白い花。

その日も、庭の大きな侘助の木には、数え切れないほどの蕾が膨らんでいた。たった一輪の白い花が、私たちに一旦の別れを告げていたのだった。

この日の帯は、侘助文と言いたいところだが、花が開きすぎているかもしれない。椿と呼ぶには花は一重なので、私が勝手にそう解釈している。着物は葉っぱの小紋。葉が落ちる中、侘助が凛と花開いている様を表現したかった。