母のお召

63歳で早逝した母の形見整理が、私にとっての最初に試練だったかもしれません。

海外を飛び回っていた私が想定していたのは、母が私の遺品を整理する姿。勝手な娘が渡航を繰り返し、怪しい事件に巻き込まれる可能性。整理能力のない娘のことをブツブツ文句を言いながら、私の持ち物を始末する姿。だが、実際に起こったことは、母がこの世を去り、これまた整理能力のない母の持ち物+実家のすべてを私が整理する羽目になったのでした。

弟の結婚まで母娘の関係は決してよくなく、母の私物や花瓶や茶碗など、母の思い入れをなにひとつ聞かせてもらっていなかったのでした。私の関心事だった着物をどう着こなせばいいのやら、冷蔵庫の食材を前に調理法がわからなくて呆然とするに等しい戸惑いの中にいました。

なかでも悩んだのは、この赤いお召。この幾何学は、いかにも難しい。洗い張りを終えて丸められた反物状態でしたし、母が纏っていた写真も残っていなかったので、おそらく仕立てることはないであろうと思っていました。京都で知り合った呉服関係者に相談し、面白い柄行だから着てみれば?と勧められて仕立てたのでした。

ところが、帯が難しい。最初は、アンティークショップでみつけた「たらりの帯」を仕立て替えたものを締めていましたが、この日は誉田屋さんの「日々是好日」を締めてみました。鶏、向日葵、梟が描かれているのです。写真は吉田家。灯りの影響で、実際の色より朱をおびています。

正月事始め

12月13日は正月事始め。年末の掃除、新年の準備を始める区切りの日である。

お世話になっている人々へご挨拶に行く日でもある。今日庵や不審庵、お茶の家元のところへは業者が挨拶に訪れ、花街なら踊りの師匠や料亭に挨拶まわりをする。

それゆえ花街の芸舞妓が色とりどりの着物を着て歩く姿は実に愛らしい。それをカメラに収めたいとカメラおばさんカメラおじさん、そして外国人観光客がコロナ前には花街に押し寄せていた。上七軒、祇園界隈、宮川町には黒山の人だかりができて、地元民にも芸舞妓にも迷惑な存在ではあった。

中止された昨年はさすがに訪れる人もいなかった祇園の花見小路に足を運んでみた。一力の前はさすがに疎らで、静かなもの。やがて家元、四条北のお茶屋さん周りを終えた芸舞妓、それを追っていたカメラおじさんが数名南下してきた。それでものどか。途中で警察が偵察に来たが、あまりの静けさに引き返したほどである。

私自身、色々なご縁で芸舞妓さんとお座敷でご一緒したことが何度かあるのだが、お座敷とは違う、普通のメークで淡い色の着物姿の芸妓さんや、髪はゆいながら小紋に蝶文のかいらしい帯を締める舞妓ちゃんたちの装いを観たくて、時々この界隈を訪れたくなる。

今年の気づきは、ヒエラルキーだった。一番若い舞妓ちゃんが先まわりして、暖簾を上げるのである。その後に続くお姉さんたちのために。こういう気遣いとか行動は修行の賜物。花街と宝塚くらいではないだろうか。もちろん、裏千家学園を出た女性たちも、こうした気遣いは徹底している。

今年の師走は暖かい。事始めは少し風が冷たかったが、それでも例年に比べて暖かい。ショールを羽織る芸妓も例年に比べて少なかった。加えて、クリスマスの帯が目についた。二人の芸妓さんの背に、それを確認したのだった。

四条通では、商店街の沿道に幕を貼る作業が進んでいた。祇園の風景は、事始めを機にガラっと変わる。ああ、今年もあと2週間余。何もなし得ないまま、歳が改まろうとしている。

 

侘助の花

侘助という花がある。

椿に似た、しかし、花びらは一重で、開き方も小さくラッパのような形をしている。蕾をたくさんつけるので、晩秋から春まで何度も花を咲かせる。

私が初めて侘助の白い花に出会ったのは、四半世紀も前、北観音山の吉田家のこの庭であった。夜に眺めたと思う。闇にふっと浮かんでくる可憐な花に、佇まいの素晴らしいこの家に誘ってもらった感動以上に、強烈な何かを私は植え付けられた気がしていた。侘助という響きのせいかもしれない。闇に浮きあがった白の群れは天から舞う雪にも見え、一瞬でも冬の京都に身をおいた私の心に、何か罪悪感めいたものを落とした気がしている。ひぐらし喧騒の中にいる東京では人間として大切なものをう失っているのだという、貘とした罪悪感。その感覚が、私を京都暮らしへと誘ったのかもしれない。

京都の新町通六角下る。毎年夏になると北観音山が建つこの町は、かつて両替商の三井家、松坂屋の伊藤家など、豪商の家々が立ち並んでいた。三井の土地には現在、逓信病院が建つが、私が東京から祇園祭に通うようになってからも、まだ松坂屋の伊藤家所有の建物は蔵などとともに残っていて、新町通りに長く幕が貼られているのがいかにも美しく、毎年、写真を撮っていたものだ。南北に伸びる新町通でも、この界隈だけ道路の幅が広いのは、そうした豪商が馬車を停めるためだった。

山鉾町の家々には、いわゆる京町家が数多く並んでいる。入り口の幅はさして広くなくても、奥が深く、途中に坪庭があるのが特徴だ。そして、さらに奥に構える蔵との間に、吉田家にはもうひとつ庭がある。そこに、この侘助が花を咲かせるのである。

京都で暮らすようになってしばらくして、私は年に数回、この家を訪れている。吉田家は特別で、誰でも中に入れるわけではない。縁のある人が招かれるだけである。祇園祭の折には窓枠が取り払われ、先祖代々受け継がれてきた屏風などを飾って見せるのが習わしだが、それも新町通から眺めるだけで、家の中に入って腰を落ち着けるなどということは、誰か親しい人に連ならなければ叶わないことなのである。

そんな特別な京町家に私がしばしば訪れた理由は、当主である吉田孝次郎氏が京都の商家の暮らしについて語る吉田塾を始めたからだった。私はその塾生として足を運んだ。当初は季節で移ろう町家の室礼などにだったが、次第に、先生のコレクション、小袖、更紗、朝鮮毛綴れなどをご披露いただき、その後の懇親会が楽しみとなっていった。コロナ前のことである。

その吉田塾が日曜日、最終回となった。コロナ禍では途切れ途切れとなっていた講座に一区切りつけて、仕切り直すということである。その記念すべき最終回に、侘助が一輪、咲いていた。私を京都にいざなった侘助の白い花。

その日も、庭の大きな侘助の木には、数え切れないほどの蕾が膨らんでいた。たった一輪の白い花が、私たちに一旦の別れを告げていたのだった。

この日の帯は、侘助文と言いたいところだが、花が開きすぎているかもしれない。椿と呼ぶには花は一重なので、私が勝手にそう解釈している。着物は葉っぱの小紋。葉が落ちる中、侘助が凛と花開いている様を表現したかった。